2017年5月31日水曜日

渡邉樹音「ゲルニカの模写新宿の薄暑かな」(『琥珀』)・・



 渡邉樹音句集『琥珀』(深夜叢書社)。平成十五年から平成二十八年までの作品から二百句を収録している。最近の句集の収載句数の多さには少し辟易させられるところがないではないが、本集の二百句はほどよい句数だろう。琥珀色を基調としたシンプルな装幀、その帯に松下カロは収載句の在り様を以下のように記している。

 彼女は耳を澄ます。
 水音に、産声に、風音に、銃声に、心音に。
 すると、琥珀色の言葉たちがいっせいに詠い出す。
 珈琲豆も、少年も、薔薇も、マトリョーシカも、
 深海魚も、少女も、迷い猫も。
 いつまでも無心に。どこまでも虚心の、
 渡邊樹音の〈俳句という音楽〉が始まる。

跋は田付賢一。さすがに渡邉樹音が本名(和美)から樹音になるにあたっての来し方を記して、つまり、彼女が十五歳の折りに文芸部顧問を務めていた恩師として、余人に代えがたい愛情ある文を寄せている。また、樹音の青春期の句〈本句集には収められていないが)のいくつかを琥珀として取り出してみせ紹介もしている。例えば次の句である。
  
   オルゴール哀しみを抱く過去を巻く
   許されぬ切符を手にし君を待つ

因みに跋は、不肖愚生。ともあれいくつかの句を以下に挙げておきたい。

  五線譜がみずうみになる春の昼   樹音
  マカロンの空洞八月十五日
  五大陸春の鉛筆転がりぬ
  囀りや窓際に置くマトリョーシカ
  ねずみもち煙り静脈さざなみす
  草は実に赤い自転車濡れており
  凩や扉の開かぬ天袋
  初春のドールハウスを開けておく

渡邉樹音(わたなべ・じゅおん)1960年、東京都生まれ。





2017年5月28日日曜日

山本敏倖「どくだみやここからここまでは心臓」(「豈」第136回東京句会)・・

        

 昨日は、隔月開催の「豈」第136回東京句会(於・白金台いきいきプラザ)だった。前日の雨も止んで、過ごしやすい気候の一日だった。例によって愚生の句に点は多くは入らず一点のみ。今に始まったことではないが、かつて攝津幸彦の俳句だって、句会ではあまり点数が集中して入ることはなかった・・・(同世代としては、句集では随分と人口に膾炙した句が多いが・・)と勝手に一人、都合よく呟いて慰めている。
 もともと「豈」には句会が存在しなかった。ある時、高山れおなが句会に出たことがない、一度句会に出てみたいが、と言い出して始まったのが、「豈」歌舞伎町句会だった。それまでは「鵜の会」?と称して、奇数月の31日に、今は無き新橋・三井アーバンホテルのロビーに夕刻に集まり、コーヒーを飲み(すでに攝津幸彦はあまり呑めなくなっていた)、蕎麦屋へ、ただ、何するともなく、話をして別れるという会があった。
 そして、いつの年だったか忘れたが、12月31日に集まってきたのは、愚生と仁平勝と攝津幸彦だけだった。思えば、家庭人のなす所業ではなかった。もちろん集合の案内を出していたのは攝津幸彦だったが、ごくたまに日時を変更するときの葉書には、独特の文字で「月、日、時、」だけが書かれていた(先日、整理する雑誌に挟まっていたのを見つけた)。


 
 ともあれ、昨日の句会の一人一句をあげておこう。高点は同点で三名(山本敏倖・羽村美和子・堺谷真人)だった。

   ほととぎす数式途中から透けて   羽村美和子
   日おもてに鎌刺さりたる立夏かな   堺谷真人
   日雷津々浦々の老耄よ        福田葉子
   じゅういちと呼ばれし君は季語の鳥  早瀬恵子
   ハーモニカイ音便から虹になる    山本敏倖
   躊躇せず蝶は草野球になった    川名つぎお
   朝から肉焼く五月の外出       照井三余
   にっぽんを揺れすすみたる夜の神輿  大井恒行



   

2017年5月26日金曜日

竹岡江見「B29爆撃の春忍び逢ふ」(『先々』)・・



竹岡江見第三句集『先々』(邑書林)、序に小川軽舟は言う。

  先々の面白からむごまめ噛む     江見

 私がこの句から句集名をとることを江見さんに勧めたのは、この句が江見さんの姿勢をよく表していると思うからだ。そろそろ人生の最終カーブに差し掛かって、なおそのカーブの先に何が見えてくるのか。ごまめを噛みながら、江見さんの目は爛々と輝いている。
 この句集は江見さんの目が捉えたこの世に生きとし生けるものの哀歓に満ちている。

なるほど、そう思う。だが、それだけではない、生き抜く勁さやユーモアが伺われる。例えば、同門の飯島晴子に「蛍の夜老い放題に老いんとす」の句があるが、その答えは、

   思ふさま生きよ泰山木の花    江見

なのである。「あとがき」の締めには、

 六十年間営んできた医院を去年閉院し、今年九十三歳となりました。句友の皆様方と句会を楽しみ、今も元気でおります。
 湘子先生、軽舟先生、「鷹」の皆様、ありがとうございます。

とあり、清々しい。ともあれ、以下に愚生好みの句をいくつかあげておきたい。

   春闘やマニキュア赤き手を挙ぐる       江見
   皺の手に幼子診たり雛の日
   幽霊の扮装涼しこんばんは
   老いらくの華やぎや白曼珠沙華
   みんな死ぬ野塘菊(あれちのぎく)に風見えて
   烏兎匆匆団地となりし芒山
   枯すすむものに種あり空があり
   情死絶え孤独死増えぬ雪厚し
        月光をつめたく許し螢とぶ
   愛すべき男我儘夕焼けて
   夫逝きし年の極月鳶の笛
   わがまとふ正気と乱気土用波
   浦の春国旗につづき大漁旗
    
 竹岡江見(たけおか・えみ)大正十三年生まれ。




2017年5月25日木曜日

中永公子「誰もが知ってて サラダボールに死の灰降る」(『星辰図ゆるやかなれば』)・・



 中永公子『星辰図ゆるやかなれば』(ビレッジプレス)。謹呈用紙ではなく、名刺が挿まれていた。それには「HAIKU ARTIST 中永公子」とあった。本書は一般的には句文集ということになるのだろうが、投げ込みの栞文は、堀本吟「喪失が再生の契機である・・・中永公子の芸術的スタンス」、わたなべ柊「世紀を越えて」、Mis sio「フンデルトヴァッサーの言葉で描かれた映像作品と公子と私」の三名。句作品とエッセイには初出誌と年号が記されており、、いわば中永公子の来し方と俳句に向かってきた姿勢のおおよそが知れる構成になっている。したがって、中永公子に初めて出会う人にもそれなりのイメージが湧くだろう。序文は伊丹三樹彦「恐るべき女流作家」、以下のように記していう。

 私は今、超季世界最短詩の俳句でもって日本文化の一端とすべく、「海を越える俳句」を志して写俳新書(「ガンガの沐浴」)をスタートさせた。
 中永公子の句集出版や朗読舞台の活動はその尖兵なのである。句集はその成果を遺憾なく発揮している。公子を教えた私は、どうやら教えられる側に廻った気もする。
 何と、中永公子は俳句アーチストなのである。

そして、また第一章「星辰図」の前扉には「星辰図ゆるやかなれば旅に出る when the stars aline, I set out 」と置かれているその中に、

 私は数年前、死の想念につきまとわれたことがある。乳がんを宣告されたのだ。
 手術を受け。退院したとたん地震にあった。阪神大震災である。からだと風景がともに崩れてゆくというなかで、一連の俳句を書いた。

 雪の夜の微塵となりてねむるかな

あるいは、別の「映像評伝 伊丹三樹彦メイキング」では、

 そして私の原点は伊丹三樹彦にあった。
 (HAIKU・世界・映像とのコラボレーション・・・)
 私は、二十歳のとき、三樹彦に出会い、三十年間その仕事に影響を受け続けてきたのだ。

という。僥倖というべきか。さらに「俳句朗読コンサート」では、

 言葉を活字だけでなく、からだを通して、声として、音楽のように表現することは、至福だ。
 ひとり籠りがちな書く作業から思いを外に向けて発散する。声で、パフォーマンスで聴衆とのコミュ二ケーションをはかる。言葉の脈動が、じかに聴衆に伝わってゆき、共振する。言葉以上の思いを手渡すこともできる。群読してもいいだろう。

とも述べている。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  白鳥のくちばし重く日に沈む    公子
  花ひぶく胎内 古代の魚およぐ
  ぶち撒ける カットグラスも昼月も
  あめつちにアリスの椅子はありません
  トランプ散る 兵隊の散る夜は
  




2017年5月24日水曜日

秦夕美「てちがひもほどよき数か蛍狩」(「俳句界」6月号)・・



「俳句界」6月号のメイン特集は「『俳句に詠もう 季節の鳥』-春夏秋冬の鳥をカラー写真で解説・例句付き」とあって、論考は小杉伸一路「探鳥楽しみ」と坂口昌弘「鳥に執した俳人」。季節の鳥の方は50羽近くがカラー写真で鳴き声が吹きだしで付いている。例句もあって見ても読んでも楽しめる(例句は故人が多いので、ちょっと惜しいような気もする。編集部は大変だが現役の俳人の書下ろし句だったら実に圧巻だったかも知れない)。
作品欄は高野ムツオ特別作品50句、復本一郎の俳句界NOWの自選30句などがあったが、ここは「豈」同人の秦夕美・特別作品21句「別の世」を挙げておきたい。何しろ句を詠む上手さでは、群を抜いている。今号も句の頭の文字をたどれば「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」在原業平の一首になっている。というわけで、第一句から五句めまでを以下に引いてみよう。

  つひに会ふ冥王薔薇をむしりゐる
  ゆくりなく触れるる鉄棒五月闇
  道草のはじめは黄泉の蓬餅
  とある日の鮎のにごせる川面かな
  はつなつの墓原はしる影いくつ

で、最後の締めの一句は、

  思はざりしを夕照のかきつばた


つい最近発行された秦夕美の個人誌「GA」77号の「あとがき」に、

 十七字で時空を旅する。もう六十年近くそうしてきた、殆ど一人旅、つまらないのは旅先で出会った風物について聞いてもらえる人が年々減っていくこと。まあ、こちらが年をとるのだから仕方ないか。呟きの羅列にすぎないこの冊子も号を重ね、日常のリズムのなかに組み込まれていく。いつまで続くかは神のみぞ知る。巧拙はともかく、書けるのは書ける。

とあった。続けて、

 はるけくも来つるものかな。誕生日を迎えて七十九歳、七十代も最後の年。これほど生きるとは思っていなかったので、戸惑うことが多い。

と、それでも今号「GA」77号には「笹枕」50句、エッセイ2編に短歌10首「別の世の」(題は「俳句界」とほぼ同じ)、「蕪村へ」という蕪村句の鑑賞が2句、見開き4ページである。その中の一首を以下に・・・

  助走距離みじかきままに飛ぶ空の
          涯はしらねど香しきかな  

もう一人の「豈」同人・関悦史。「俳句界」今月号の「私の一冊」は自身の最新句集『花咲く機械状独身者たちの活造り』(港の人)をあげている。現俳壇で論作ともに精力的かつ、的を射た活動をしている関悦史の、句集の成り立ち、仕掛けを語ってじつに興味深い。挙げた最近作3句から以下に一句を挙げておこう。

  「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る     悦史




2017年5月23日火曜日

山口昭男「麦秋や土よりはがす鳥の影」(『木簡』)・・



山口昭男『木簡』(青磁社)、集名は以下の句から、

  木簡の青といふ文字夏来る     昭男

平成22年に「秋草」を立ち上げてから7年とあり、「あとがき」には、

 「秋草」七年の三百八十八句をまとめ、第三句集を『木簡』としました。(中略)
 これからも俳句における詩情を求めながら「秋草」と共にゆっくり歩んで行ければと願っています。

とあった。句は、波多野爽波・田中裕明門下らしく、おおむね平明である。それにしても、俳句の詩情というのはなかなか難しい。ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。

  薄氷の表の方が暗かりき
  白鳥小学校講堂青嵐
  冬の蝶水のあかりを嫌がりぬ
  指でよむ紙の表や秋の水
  吾が肝に鈴つけてみん朧の夜
  煤の紐見事に水を弾きをり
  足音のいまだをさなき時雨かな

山口昭男(やまぐち・あきお)、1955年神戸市生まれ。



2017年5月22日月曜日

関悦史「報道自由六十一位目借時」(『花咲く機械状独身者たちの活造り』)・・


           俳句ユニットSST(榮猿丸・関悦史・鴇田智哉)↑
          

御礼の挨拶・関悦史↑


           花束贈呈の宮﨑莉々香↑


          左後ろにちょこっと写っているのは、ふらんす堂・山岡有以子。
          関悦史・池田澄子・もてきまり、背後は愚生↑ 

 昨夜は渋谷のクラブマルヤマ59に於て、関悦史の二冊の著書『花咲く機械状独身者たちの活造り』(港の人)、『俳句という他界』(邑書林)の出版記念会が行われた。
 会場は子規庵のようにラブホテル街の一角にあり迷いながら、たどり着いたところに佐藤文香がいて、3階です、というので、エレベーターなく年寄りにはいい運動になる階段を登ったのだった。
会場はすでに人で溢れていたが、池田澄子、また関悦史の保護者だという、もてきまりが居て、久しぶりに駒根木淳子、山下知津子、四ッ谷龍、岸本尚毅、津髙里永子、鳥居真里子、対馬康子、西原天気、阪西敦子、村上鞆彦などにも会った。とはいえ、それ以外はほとんど、愚生の面識のない若い人たちで溢れていたのが印象的だった。
 俳句の時代も愚生に関係なく世代交代が勝手に進んでいるようで、すこし嬉しい気持ちになった。
 途中、俳句ユニットSST(榮猿丸・関悦史・鴇田智哉)のパフォーマンスと映像があって、面白く、楽しく過ごさせてもらった。

    皆既月食見上げわれらも供物なる     関 悦史
    ここに不意に線量機付き精米機建つ片蔭
    蟬氷痼(せみごおりひさしくなほらないもの)




  

2017年5月21日日曜日

高橋龍「作者(つくりて)は読者(よみて)をなげく秋の夜」(「人形舎雜纂」・続)・・



「人形舎雜纂」(高橋人形舎)は高橋龍の個人誌だが、その博覧強記には、いつも驚嘆している。高齢と病体をおしてなお軒昂に限りがない。それぞれの文は彼の来し方をも伺わせている。「あとがき」には、

 「親指聖母」と「対照的あべこべ」は、昨年夏以降に書いた。その後に句控『名都借』を編んだところで十一月の夜半に肺気腫と肺炎の併発で緊急入院。年末近く退院したが、酸素ボンベからチューブで酸素を吸入しての生活になった。しかし、『名都借』上梓して発送。年初からは「道行」始末、と「遠くて近きもの」を書き上げ、併せて句控「番匠免」をまとめた。三ヶ月に満たない日数なので共に不出来である。不出来といえば、むかし髙柳さんが、とにかく書け、結果については、不出来であると言えばよい。と笑って話されたことがある。(中略)
 以前、わたしは「季語」は催事=イベント。「季題」は儀式=セレモニー。とどこかに書いたが、さらにこの、様式化された自然を「季題」につけ加えたい。
 このようなもの、今後もだせるかどうか。それはわからない。
             平成二十九年四月一日

とある。記した日が万愚節、これも高橋龍の流儀だ。ともあれ、綿密に調査された長文ばかりなので、あとは直接に本文にあたっていただき、ここでは「句控・番匠免」からいくつかの句を以下に挙げておきたい。

  初御空落日はやもはじまりぬ      龍
  春立つや願ひましては五円也
  蚊帳を出て袖を通すはよろけ縞
  初あらし場の闇時の闇かさね
  土下座して拝(おろが)む蛇の入る穴
  三橋忌松山心中(まつやましんじゅ)頬冠(ほつかむり)
    注:「松山心中」は松山在住の谷野予志から三鬼へ、
    三鬼から敏雄へ。部屋の明かりを消してろうそくの灯で歌う。
  二・二六東京マラソン雪降らず
  下腹部のYの字ゆるめ失禁(おもらし)
  お互いに見せあふ奥処ももすもも




2017年5月20日土曜日

岸本マチ子「うりずんのたてがみ青くあおく梳く」(『沖縄歳時記』より)・・



沖縄県現代俳句協会編『沖縄歳時記』(文學の森・2800円+税)、帯には、

 沖縄の季節感に即した歳時記 
 「うりずん」「若夏」など、沖縄地方特有の季語を含む2800の季語と、9000以上の例句を収録

★独特の民俗・文化ミニ解説(「屏風(ひんぷん)」「ニライカナイ」他)
★季語に新かな・旧かなのルビ★巻頭に季語の50音順総索引

とある。例をあげると、「うりずん・おれづみ・うりずむ・うりずみ」の説明には、

 琉球語の古語辞典『混効験集』によると「おれづんは(旧)二・三月麦の穂出るころ」とある。農作物の植え付けにほどよい雨が降るので大地の豊穣をもイメージさせる言葉であり、したがってうりずみは「潤(ウルオイ)積(ヅミ)が訛ったのではないかといわれている。

部立は春・夏・秋・冬・新年・無季。付録には、那覇の気象データ平年値/那覇と東京の平均気温/沖縄地方地図とともに・読みにくい地名などが掲載されている。

まるで、現代俳句協会70周年に合わせて、記念事業のひとつとして出版された印象すらもつ。たぶん数年を費やした労作だろう。

以下にその労作を編集した委員の一人一句を挙げておきたい。

  春空の真中にありて水になる    安谷屋之里恵
  後ろ手に通勤鞄花菜風       池田なお
  春ショール胸に匕首しのばせて  池宮照子
  揚雲雀電光石火の急降下      親泊仲眞
  葉桜の折れた伊江島激戦地     嘉陽 伸
  紙銭(うちかび)というあの世の銭の青火せり 岸本マチ子
  製糖の煙立ちたり春の潮      真喜志康陽
  虫出しの雷コーヒーはブラックで  宮里 晄



2017年5月19日金曜日

金行康子「ゲルニカの前に園児の夏帽子」(『母より』)・・



金行康子句集『母より』、エッセイ集『母より』(緑鯨社)は、二冊の文庫本仕様である。句集装画は駒井哲郎、エッセイ集装画は銅版画・彼方アツコ。句集名は、

  冬深むつくづく母より生れしこと   康子

句に因む。エッセイ集の方の「あとがき」には、

 平成十九年にエッセイ集『母をめぐる・・・』を出しましてから十年がたちました。母を見送りました。その前後の何篇かを残しておきたいと思い、緑鯨社の柴田さんにお願いを致しました。

とある。33編のエッセイが収められているが、「母をめぐる」の章は、とりわけ心に響くものがある。もちろん、他に「俳句・本・あれこれ」「くらしのなかで」の章もある。愚生は俳人だから、自然に「俳句・本・あれこれ」の章に目がいくのだが、桂信子についてや「俳人の生き方」の項では、瀬戸内寂聴のことに触れながら、ともに「春燈」の俳人であった稲垣きくのと鈴木真砂女について述べ、「どちらの人生に寄り添うか、と聞かれたら私なら稲垣きくのを採る」と言い、

 今、二人のどちらかと珈琲を飲むとしたら私は稲垣きくのさんにする。きいてみたいことがあまたある。想念の中で冷めた珈琲をひとくち啜る。窓外は、雪がますます激しい。

と記すあたりは、著者の好奇心のありようを窺えて興味深い。エッセイも句も良く、金行康子の生き方をよく表現していよう。句集の序文は山本つぼみ(「阿夫利嶺」主宰)、その句集のなかからいくつかの句を以下に挙げておきたい。

  喜雨一刻まさかの時の荷はふたつ    康子
  風耽は賢治の俳号桜降る
  冬深み尾のあるものを愛しめり
  水芭蕉まだ花でなく葉でもなく
  冬の夜足音までが母に似て
  パリにテロけふ黄落のすさまじき
  遠霞異国となりしままの島
  針穴に春待つひかりとほしけり 

金行康子(かねゆき・やすこ)1950年、北海道新十津川町生まれ。




2017年5月17日水曜日

前川弘明「小春日の女神は青い笛を吹く」(『緑林』)・・



前川弘明第5句集『緑林』(拓思舎)、著者「あとがき」に以下のように述志されている。

  俳句を詠むということは、基本的に有季定型という俳句の器に依って詩を書くということであるが、詩の心はいつも俳句の器から溢れようとする。だからそれを堪(こら)えなだめつつ器のなかに収めようとするのだが、なかなか思うようにいかないときがある。そのようなときは詩の心のために定型の器に少々の余裕を許して俳句を書く。とにかく、作品は通俗であるまいとおもう。そして平明でありたい。

愚生のようにすでに詩心枯渇している者にとっては、いささか羨ましいような気のする心ばえである。その意味では、ブログタイトルに挙げた「小春日の女神は青い笛を吹く」は、いまだ若々しい詩心溌剌たるものがある。通俗におちいらず、句に深みがあり、かつ平明であることは実に難しい。
句集名となった「緑林」もただに木の葉青々として、青い林ということだけでもなさそうである。前川弘明なら、中国史書による窮民を緑林山に集め群盗となった、こともまた示唆しているのではなかろうか。詩心には善のみが宿るわけではない。しかし、この緑林の群盗には義賊のにおいもしないではない。
ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておきたい。

   大根洗う地球の暗闇から抜いて    弘明
   寒林を出る水滝になりにゆく
   なんじゃもんじゃの花咲き被爆者我が住む
   金雀枝やどこへともなく人の列
   雷鳴がピアノの上を通りけり
   葉先まできて空蝉になりました
   林檎紅し今朝のちからにて掴む
   眠るまで止まぬつもりの雪がふる

前川弘明(まえかわ・ひろあき)、1935年長崎市生まれ。




   

2017年5月16日火曜日

「日本はもう戦争はしないのよ・・・」(佐々木通武『影絵の町』より)・・



佐々木通武・短編小説集『影絵の町ー大船少年記ー』(北冬書房)、19編の短編が収められている。「あとがき」には、戦後の幼少時代を過ごした町が舞台になっているという。そして、「想像の息を吹き込み、発酵して湧き出た気体にくるんで、ふうわりと今の世に浮かべてみたい、そんな気持ちがあったように思う」(「あとがき」)と記している。
 そのうちの一篇「11、ふりさけみれば」には、百人一首の安倍仲麻呂「あまのはらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも」の札をとるためにのみ、少年は集中する。結果として他の札をまったく取れないのだ。
 ある時、半島の東側に面している軍港の記念館に遠足で行き軍艦に乗る。その軍艦にまつわる英雄譚を聞く度に、自分もいつか死ななければならないと思うと、怯えを感じる。その時の母の話が「日本はもう戦争はしないのよ・・・」の言葉なのであるが、それでも作中の少年には怖いのだった。その結びは、

 「あまのはら・・・」
 と聞こえた瞬間だけは体が瞬時に反応した。「あまのはら」の「ら」まで声がいきわたる前に、彼は「はあい」と大声を出して威嚇し、周りを押しのけて一気に札をはじいた。この勝負、負けるわけはなかった。
 当然かれは、百人一首で勝ったことはない。

 ところで、記された著者略歴によると、1944年現中華人民共和国北京市鉄匠胡同に生まれ、戦後引き上げて鎌倉市大船に住むとある。愚生が彼を知ったのは、職場の争議の際の相互支援の一環で、他の争議団支援行動をしていた現場だ(愚生は充分に支援したとは言いがたいが・・)。すでにその頃柴田法律事務所の解雇争議を数十年にわたって、たった一人で戦っていたのが彼、佐々木通武だった。その一部始終は『世界でいちばん小さな争議ー東京中部地域労働組合・柴田法律事務所争議記録編集韻会編ー』に纏められている。その長い解雇闘争(約40年間)の合間に、彼は句集を数冊(一冊には短歌も入集している)上梓している。
 確か第一句集が『監獄録句(かんごくろっく)』(私家版・2000年刊)、1998年刑事弾圧を受けて逮捕拘留されたときのものである。三冊目が『反射炉』(私家版・2007年刊)、その短歌篇には、

  いつよりぞ反テロ戦争きいたふうまがふかたなし治安弾圧    通武
  翔ぶことのなき鳥の年明け初むる確定判決その先の生

がおさめられている。因みに『監獄録句』からは、詞書のある句を記しておこう。

      ここでは差し入れのバラの棘も凶器として削り取られる
  棘なきも茎りんとして香る薔薇

      二番目の死刑執行
  また一人縊りし獄の冬朝餉

当時は、わが国における死刑制度反対運動もけっこう推進されていた時期だったように思う。




  

2017年5月15日月曜日

金子敦「月の舟より降りて来る銀の猫」(『音符』)・・



 金子敦第5句集『音符』(ふらんす堂)、栞文は杉山久子、金子敦とは四半世紀にわたり俳句文通を続けてきたという。それがいまだに続いているのはもちろんだが、金子敦の句稿には通し番号が振ってあって、現時点で五百八十になっているのだとか(「あとがき」によると)。どうやら金子敦という人は実に義理堅い人らしい。猫好きだというから猫の句はあるのは当然としても、杉山久子によると自称「スイーツ王子」、音楽好きでもあって、義理堅くそれらの句を多く収載している。
集名となった「音符」や音符を想像させる句だけでもけっこうある(いくつか挙げる)。

  封緘は音符のシール春隣          敦
  音符揺れ音符と触るる聖樹かな
  つくしんぼスタッカートで歌ひ出す
  三拍子で弾んで来たる雀の子
  白南風や楽譜に大きフォルティシモ
  春きざすメトロノームのアンダンテ
  まんさくやト音記号に渦いくつ
  巴里祭や楽譜の柄の包装紙
  丸刈りのボーイソプラノ星祭
  カスタネットまでたんぽぽの穂絮飛ぶ

  
 ブログタイトルに挙げた「銀の猫」は、著者にはめずらしく幻想的な句であろう。愚生は猫好きというわけではないが、かつて二十代の頃に「猫族ノ猫目ノ銀ヲ懐胎ス」(『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』所収)と詠んだことがある。つまり猫には銀が良く似合うのだ。
ともあれ、以下には愚生好みの句をいくつか挙げておこう。

  膨らんでより風船の揺れはじむ
  十二月八日やシュレッダーの音
  酢の物に少しむせたる朧かな
  定員は妖精ふたり花筏
  湯豆腐に湯加減をちらと訊いてみる
  独り占めか一人ぼつちか大花野
  鉄条網ひとつひとつの棘に雪  

金子敦(かねこ・あつし)1959年、横浜市生まれ。



2017年5月14日日曜日

江田浩司「老人カラ死二二ユクベシ子供ラハ美シイ日本ヲ担ウノダカラ」(『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』)・・



 江田浩司『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』(思潮社)は、集名にあるように様々な試み、仕掛け、それを意匠とするなら、その意匠に目もくらみそうだが、とりあえず、詞書の付された短歌作品としてブログタイトルにした作品を挙げた。章題「敵ハ米国(アメリカ)」の「近未来戦争(敬老篇)・・・私ノ戦争・姥捨テ隊出撃ス」から、

    赤紙は高齢者からやつて来る。
  老人カラ死二二ユクベシ子供ラハ美シイ日本ヲ担ウノダカラ    浩司

 また、別の一冊「北冬」NO.17(北冬舎)の江田浩司の連載「《主題》で楽しむ100年の短歌§「友情の歌」9」には、彼の郷土の敬愛する俳人として西東三鬼の友人の死を悼んだ句も紹介されていた(短歌と俳句の表現の差異が際立っていると・・)。それは篠原鳳作と石橋辰之助への追悼句、一句ずつを以下に孫引きする。

     鳳作の死
  葡萄あまししづかに友の死をいかる     三鬼
     悼石橋辰之助
  友の死の東の方へ歩き出す

 江田浩司のあと一つは、同号に掲載された北村太郎の詩「『春影百韻』を読む」。第18回「北村太郎の会」の講演録なのだが、この詩が連句の形式で書かれているという、その読みが展開されていて、じつに興味深かった。ひるがえって江田浩司の作品の書法のいくつかにもこれらの伏流があるのではないかと思わせた。
ところで、今号の「北冬」のメインの特集はなんと言っても、中村幸一責任編集「わたしの気になる《沖ななも》-」である。
 愚生はかつて坪内稔典の「現代俳句」で「短歌と俳句のシンポジウム」開催の際のスタッフとして沖ななもに接したことがあるが、その後のあまたの著作の刊行や活躍について、つまびらかには知らなかった。ただ、彼女が句作をしていることも聞いたことがあるような気がするが、今号の特集ではそれらしいことには触れられていない。
ともあれ、以下に三首を挙げておきたい。

 空壜をかたっぱしから積み上げるおとこをみているいる口紅(べに)ひきながら
 ただいまと言えば家内(やぬち)に何やらが動けりおまえもさみしかったか
 胃カメラは年齢相応を映し出す化粧も整形もとどかぬところ      沖ななも

江田浩司(えだ・こうじ)1959年、岡山県生まれ。




  

2017年5月13日土曜日

金田洌「洋装の聖地ミラノは春隣」(「夢座」175号)・・



「夢座」175号(発行人・渡邊樹音)、かなり前のことになるが、「夢座」が毎月のように吟行をしていた時期がある(愚生も奥多摩吟行に一度だけ参加したことがある)。今号には谷中吟行の記事「谷中の”や”」があるが、その吟行の回数をみると本誌の号数より倍以上に多い。「夢座 三六二回 吟行会」とあった。
まずは国立西洋美術館、ロダン作「地獄の門」前に集合したらしい。

  春風に鳩舞い降りる地獄門    金田 洌
  地獄の門出てアウェーの青き踏む 渡邊樹音

東京藝大通りを抜けた「吉田屋酒店記念館」では、 
  
  一斗瓶の太めの尻が春に酔う   照井三余

徳川慶喜の墓では、

  奥津城の解説給う木の芽時    鴨川らーら

川上音二郎碑では、

  オッペケペー右にねじれる櫻の木  銀 畑二
 
「ゆうやけだんだん」付近では、
  
  谷根千や錻力ぶらりの初櫻    城名景琳
  梅残るひなたぼこぼこ歩く人   佐藤榮市

 と、なななか楽しそうである。
 また,読みどころをいえば、江里昭彦「放哉はわれわれの同時代人」(【昭彦の直球・曲球・危険球】㊻)。放哉が最晩年、短期間に三千句を書き、一日に2通の手紙を書いたことを「自由律俳句はツイッター、散文ブログだった」と仮定して、そこに切実な承認欲求を見、かつ、食生活の現実を現代人と比べ、以下のように記しているのは、意外に正鵠を射ているかも知れない。

  放哉が日記風に記した食生活は、現代のあちこちに散見される光景である。試みに『入庵日記』のお粥を、コンビニエンス・ストアのおにぎり、あるいは菓子パンに置き換えるなら、その途端、われわれの周辺にいる生活困窮者の食事風景が目の前に出現する。栄養がまったく顧慮されない、決まりきったパターンの食生活という点で、放哉の孤独な食事と、現代の生活困窮者のそれが、ぴったり重なり合う。敗戦ののち、日本人が達成した高度経済成長の成果は、いったいどこへ行った?
 〈承認欲求〉と〈貧窮〉のふたつの問題が交差する場所に、尾崎放哉は立っている。だから、放哉はわれわれの同時代人なのである。

以下は同号よりの一人一句。

   仮面動き滝きさらぎを落ちにけり    佐藤榮市
   うちのんはつないでおすえ沈丁花    鴨川らーら
   二日目の朝の無言も冬の旅       太田 薫
   雪かきに墓地へ 何もせず合掌     照井三余
   菜のはなの陸海空へ引き入れり     城名景琳
   夜桜の可憐なピンク思わず喰う     金田 洌
   春風邪の二人が休む立ち話       江良純雄
   朧夜を使い切ったら帰る家       渡邊樹音
   オッペケペー前世現世を吹渡る     銀 畑二



  

2017年5月10日水曜日

飯田龍太「一月の川一月の谷の中」(『季語は生きている』より)・・



 筑紫磐井『季語は生きているー季題・季語の研究と戦略ー』(実業公報社、1000円+税)において、掲出の飯田龍太の句を本書第2章「季題・季語戦略ーその論理」結びに、以下のように述べている。

 最後に、視点を現代に移そう。戦後俳句の代表作とされている次の句は太陽暦の採用によって生まれた明治新季題「一月」の名句である-江戸時代の該当する季題は「正月」であった。一月は正月と違って本意も何もない新季語であるー。しかも、「一月」の季題以外そこに何もない、実際いかなる描写もないのである。(中略)
 これがまさに《本質的類想句》なのである。そして、多くの季題たちが、このように優れた俳人によって《本質的類想句》として発見されることを待望しているのである。

    一月の川一月の谷の中    飯田龍太

この「一月の」句について、筑紫磐井は、その第一評論集『飯田龍太の彼方へ』(深夜叢書社)では、

 「一月の川」は、内容的には全く当り前(空虚)で形式だけで保っている作品であるがゆえに俳句の固有性を説明できるだろう。そして呆れるくらいの類型的表現と一層の空白性をもつがゆえに虚子の「帚木」の句を凌いで俳句の独自性を発揮しているのだ。それは自然の匂いも甲斐の風土も感じさせないゆえに虚子に優った一瞬を龍太に与え、それはまたいともたやすく「三月の川三月の谷の中」「極月の山極月の甲斐の中」といくらでもパロディを作り得るゆえに独創性を感じさせるし、月並で怠惰な俳句作法だからこそ龍太をよき教師たり得させるのだ。

と、類型といいながら、逆に俳句形式の有している典型的な姿を描いて見せたのだった。
 愚生は、「豈」の発行人である磐井のものは、当然ながら敬意をもって、目についたものは読んでいるのだが、「出典」を示した「俳句文学館紀要」は読んでいないものの、愚生には、四半世紀に及ぶ彼のモチーフとテーマを改めて知る一書となった。
 それにしても巻末に付された句集、評論集などの出版物の数をたどるだけでも、しかも、その多くが、俳誌などに発表されている雑文を拾い集めたものではなく、すべてが書下ろしに近い著作ばかり、その膂力には目をみはるものがある。
 もし、現在只今において、個人での著作集や全集が新に編まれる俳人がいるとしたら、その量・質を具えているのは彼をおいてはいないように思われる。
 ただ、願わくば、それらの『筑紫磐井著作集』『筑紫磐井全集』が日の目をみることがあれば、レイアウトや校閲をきちんとできる出版社から出ることを望みたい(そうすれば、もっと読みやすい書ができあがるにちがいないからだ)。

 ともあれ、季語と季題をめぐる問題や、日本で初めての太陽暦歳時記は何であったかなど、これまで流布されてきたものの誤謬に対して、資料を渉猟し、調べなおし、新見解をいくつも打ち立てている。「まえがき」の注に、

 我々はもはや、季語の法則の下で牧歌的な俳句を作ることはできず、季語それぞれの主体的法則・戦略論理の下でしか俳句は作れない(もちろん、そこには無季という主体的法則も含まれる)。季語を否定するつもりはさらさらないが、現在、季語の主体的在り方は作者がそれぞれに考え、決断しなければならない問題なのである。そして、これら全体を含めて、「伝統」と呼んでいいのである。

と、心ばえも記している。

 思えば、現代俳句協会が50周年記念事業のひとつとして編纂し、画期的だった太陽暦、生活実感にもとづいた、「無季」の項目を建てての『現代俳句歳時記』(平成11年刊)の「歳時記編纂委員」に俳人協会から唯一名を連ね、制作協力したのが筑紫磐井だった(歳時記は、毀誉褒貶を極め、旧弊たる陣営からは猛反駁をうけたが・・)。

筑紫磐井(つくし・ばんせい)1950年東京生まれ。




2017年5月8日月曜日

若林波留美「春の虹銃眼からも見えますか」(『霜柱』)・・



若林波留美第5句集『霜柱』(東京四季出版)の集名は、

  地の鹽に遭ふまで伸びる霜柱   波留美

の句に因む。「あとがき」には以下のように記されている。

 『霜柱』の題は、拙句の一部から採りました。日本人の美意識の底には「無常観」があり、花吹雪や紅葉が代表的ですが、朝日に溶ける霜柱もそれを感じます。厳寒の土を割つて伸び、人に踏まれ、陽が昇ると煌いて消えて行く、その姿が好きです。晩年が近付いてゐる私に、ふさわしい題かと思つております。

また、「紫」主宰の山﨑十生によると、

 若林波留美は、「紫」に於いても五本の指に入る俳歴がある。「紫」の主宰であった関口比良男に師事したのが、昭和三十一年であるから、かれこれ六十年の俳歴ということになる。

という。また、

 巧い作品よりも「強い(こわい)作品」の書き手として、若林波留美は、今日の俳句の世界で屹立していいる「信じられる」俳人といえよう。

と称賛を惜しまない。ともあれ、その手強い作品の中から、いくつか愚生好みの句を挙げておきたい。

   おほぞらの順(まつろ)ふまでに獨樂澄めり
   遠心分離されしは笑ひ涙かな
   八方が見えて回転椅子孤独
   冬林檎凛然と桂信子逝く
   氷点は神の体温雪きらめく
   口閉ぢし屍(かばね)のあらず空襲忌
   ことば無きものへ原爆忌の驟雨
   折鶴のはじめは平ら敗戦忌
   天高き日なり上野に象が着く

若林波留美(わかばやし・はるみ)昭和12年、埼玉県生まれ。




*閑話休題・・・

愚生の勤務先に回覧されたものがあった。
「弾道ミサイル落下時の行動について」(上掲写真)だ。
愚生がまだ体験したことがないことのシュミレーションが記されたあった。
〇屋外いる場合→できる限り頑丈な建物や地下街などに避難する。
〇建物がない場合→物陰に身を隠すか、地面に臥せて頭部を守る。
〇屋内にいる場合→窓から離れるか、窓のない部屋に移動する。

なぜ、そうした行動をとる必要があるのか、についても答えが書いてあった。 
いわば、有事のときの対応だが、府中市からのお知らせです、とあったので、皆さんご存知なのだろうか?と思ったのだ。愚生は、新聞、テレビもあまり見ない方(見る時間がほとんどないのだが)なので、世の中、こんなことになっているのかと、ちょっと驚いたのだ。戦争前夜のようといっても許されよう。

        十二月八日錆びざる木綿針     若林波留美



   

   

2017年5月7日日曜日

山本つぼみ「依知といふ沃野はろけし夕焼雲」(句碑除幕式・阿夫利嶺20周年祝賀会)・・


           山本つぼみ「阿夫利嶺」主宰・句碑↑


                      八幡城太郎句碑↑            

本日、町田市にある方運山・青柳寺において、山本つぼみ「阿夫利嶺」主宰の句碑除幕式と創刊20周年祝賀会がホテルラポール千寿閣に於て行われた。
山本つぼみの師は八幡城太郎、城太郎は青柳寺の住職(神部宣要)でもあり、「青芝」を創刊し、日野草城に師事した。また、青柳寺には城太郎と交流のあった文人たちの碑、墓がかなりある。山本つぼみ句碑は、その師・八幡城太郎(日翁)の句碑「くわんのんの慈眼無量の秋の風」と径をはさんで建立された。師弟句碑だ。

  依知といふ沃野はるけし夕焼雲  山本つぼみ

依知(えち)は山本つぼみの生地の名であるが、いまはその地名が失われている、という。
除幕式の時間までに境内にある句碑、墓地には石川桂郎句碑「昼蛙どの畦のどこ曲らうか」・墓と並んで真鍋呉夫と父真鍋天門の墓があった。

                                                        石川桂郎句碑↑
                                    
                                        真鍋天門・呉夫(点魚)と右は石川家(桂郎)墓↑

 午後からの20周年祝賀会では、宴たけなわの頃、突然一言をもとめられたので、打座即刻、駄句ながら、とにかく晴れ女と言われているらしいので、以下の句を山本つぼみに捧げた。

  阿夫利嶺の山のもとにて晴れたるつぼみ  恒行


そして寺の入口近くには武相困民党発祥の地の碑↓があった。