2015年6月28日日曜日

第39回現代俳句講座・・・

                                 
                                     柿本多映氏↑

昨日は、第39回現代俳句講座が、東京都中小企業会館に於いて開催された。
講演者は柿本多映と愚生。
テーマは柿本多映は「橋閒石俳句の周辺」、愚生は「高屋窓秋のこと」。87歳になる柿本多映とは、久しぶりの再会だったが、すこぶる元気で、美貌衰えずである。ただご本人は、長時間お座りになったままは、少し大変なのでということで、講演の順番は、本来の順番からすると異例だが、急遽、愚生が最後を務めることになった。
愚生の心積りでは、最初に話をして、あとは気軽に柿本多映の話を聞こうと思っていたが、その思惑ははずれ、かつ昼食を食べていなかったので、空腹を覚え、目の前に座っていた北川美美に干し葡萄ならあるといわれ、有難く頂戴をして、お行儀は悪かったが、その甘味で、気合いを満たして壇上に上がれたのだった・・・。
会場には、現代俳句協会員ばかりでなく、柿本多映についての評論を書き、後にその書籍の上梓の話もあるという角谷昌子、また仁平勝、鴇田智哉、「俳句四季」の西井洋子などの顔ぶれもみえた。突然だったが、愚生の若き日の友人(俳人ではないが)も聞きにくれていた(数年ぶりの再会)。
愚生の話はともかく、サプライズとして、高屋窓秋が不治の病の折笠美秋への見舞のメッセージが録音されたテープを福田葉子に提供してもらって、高屋窓秋の生の声を聞いてもらったことと、愚生が作らせてもらった高屋窓秋の最後の句集『花の悲歌』の原稿の初校から本になった際の決定稿作品の改稿部分49箇所を資料として提供した。例えば、●が原句、○が改稿部分の句。
高屋窓秋の句作の秘密を垣間見る思いだ。


    ●命絶ち倒れし木の香知れず           窓秋
    〇命絶ち倒れし木の香知れず

    ●粉雪や小さなに小止みなく
    ○粉雪や小さなに小止みなく

         ●砲弾に罪憂き十万億土かな
    ○砲弾に罪なき十万億土かな


   
   

2015年6月24日水曜日

団塊俳人新作8句競詠「俳句・7月号」・・・



「俳句」7月号は特別企画[座談会団塊トリオが語る「俳句未来」高野ムツオ・西村和子・岩岡中正]、また、団塊俳人・新作競詠として愚生を入れて18人。
急速に超高齢化社会を迎えつつある日本の現状からすれば、団塊世代こそはその元凶というべきなのだが、どうしても望みある未来を語らなければ、雑誌としての晴朗さに欠けるという皮肉な面が無いわけではない。
そして、今はそれぞれの道を歩んでいるとはいえ、若き日、山﨑十生、あざ蓉子、仁平勝、愚生は「豈」同人であり、あった履歴があり、かつ多行の高原耕治は、ともに「未定」同人であった時代もある。また久保純夫も戦無派集団「獣園」の仲間であったことを思うと、作品を寄せた総数18名のうち6人もの俳人、つまり3分の1がごく近しい俳人であった、ということになる。
よくもここまで生きのびたものだ、と思う。
中でも,仁平勝、高原耕治と愚生は師系はなし、かもしくは答えていない。師事したに近い先輩俳人はおのおのいたと思うのだが、どうやら、ついに、師という存在そのものを、まるごと抱え込むような関係に恵まれなかった、ということになるのかも知れない。他の俳人はいわば、みなさん主人持ちである(少し羨ましい気持ちもないではない)。
ともあれ、ここに俳句の未来があるかと問われれば、愚生をふくめて、そう明かるくはないグレーな感じの未来だけはあるようである。つまり、未来を語るには、少し老いの方が勝ってきているのだ。大きく開き直って「近頃私は、七十歳からが俳人としての正念場ではないかと思っている」と述べている山﨑十生のみが「百歳の団塊俳人」が目標とうそぶき、清々しい。ともあれ、一人一句をあげておこう。

   浮葉とは言へども力みなぎれり         山﨑十生
   夏帽子行く先々の水の音             あざ蓉子
   死者生者闇をへだちて蟇             橋本榮治
   千年藤夜は千年の闇を抱く          名村早智子
   薄曇りつつ日の射すや蛇の衣          原 雅子
   てんと虫はなれて遊ぶ子のひとり        細谷喨々
   たらたらと水蜜桃を垂らす夜も         大竹多可志
   虹の屍(し)は石棺に容れ横たえる        高岡 修
   朴の花挿してまぎれもなき山気         辻恵美子
   集団的などてすめろぎのぞまず夏       大井恒行
   二人てふ気まづき間あり青林檎        柴田佐知子
   浅草で得し陶枕の夢のいろ           徳田千鶴子
   歩行者に天国があり夏来る           仁平 勝
   ゴールデンウィークひと日を考える葦に    伊藤伊那男
       母逝く
   息をせぬ静けさむつと夜の百合        山田真砂年
   絶倫や櫻の術が満ちており            久保純夫
   
   をろがみ畏るる
   無窮の絶巓
   無間の淵に
   懸かれる虹                     高原耕治 

   敬仰の波郷大足南風吹く             能村研三
    


    
                 カラスウリ↑
   

2015年6月22日月曜日

山内将史「山猫郵便」が終刊する・・・



山内将史「山猫郵便」の創刊号はいつぞや触れたことがあるが、「季刊俳句誌 山猫」と銘うたれていた。1990年夏、1990・4・27の署名のみである。途中は「山猫通信」ともあったが、愚生のなかでは、さしたる区別はなく「山猫郵便」も「山猫通信」だった。当初の形はハガキではなく、ホッチキスでとじられたA5判のコピー用紙であった。
終刊号は「247号/2015年6月20日」とのみで、大げさなものではない。
ともあれ、山内将史の通信は約25年間続けられたことになる。
最期は現「京大俳句」の中島夜汽車『銀幕』から「遠花火あれは怪かし鳥船か」の句と、山内将史「遠花火あれは海鳴りなんだらう」(山猫通信79号)の、いわゆる類想についてふれた内容であった。
その号の日付は2000年11月16日、山内将史の尊父の死に触れた内容だったという。





2015年6月18日木曜日

和田悟朗「瞬間はあらゆる途中蓮ひらく」(『疾走』)・・・


和田悟朗句集『疾走』は第12句集として400余句、平成23~26年までの句を収めるが、生前、纏められていた集であり、このたび上木された『和田悟朗全句集』(飯塚書店)の巻頭に収められている。編者は久保純夫・藤川游子。その『疾走』の「あとがき」の中には「宇宙に水はどれほどあるだろうか。われらの地球にも満満と水は充ちている」としたのちに、以下のように記している。

 ところが、、水は他の多くの物質と異なって、特異な「熱力学的性質」を持ち、とくにその温度範囲が、人間が安全に暮らしたい温度範囲となっている。そのために、厄介な気象を生じている。
 ーーそんなわけで、ぼくにとって興味深深の「愛する水」なのだ。

栞文は愚生の他に、橋本輝久・四ッ谷龍・妹尾健・高岡修・寺井谷子・久保純夫である。また「自筆・和田悟朗年譜」とあるので、「平成二十七年(二〇一五) 九十二歳 二月二十三日、肺気腫のため永眠」の項以外はすでに出来上がっていたのであろう。自身で全句集の装丁の色見などもして、了解されていたようである。そうなると、和田悟朗に、しばらくのわずかの時間が与えられていれば、本全句集の出来上がりを手にしていたはずである。
絶筆は、平成27年2月19日の次の句である。

   うす味の東海道の海しじみ汁         悟朗

気になる一句は、久保純夫の弔辞にあった「弁慶も六林男もたったままわれもまた」の句が、句集では「弁慶も六林男も立ったまま」であること・・。どちらも捨てがたいように思ったが、心の在り様の現われかたが少し異なる(和田悟朗が「われもまた」を自身が出過ぎだと嫌ったのかも知れない)。

ともあれ、このたびの全句集の開版を慶び、冥福を祈りながら、最新句集となるはずであった『疾走』からいくつかの句を挙げる。

        東北大震災
   空劫の大地の上に彼岸来る
   竜巻の脚垂れて来る亡き人よ
   本当は迷える地球夏に入る
   セシウムの減衰おそし燕来る
   鰯雲地球の水に流れおり
   太陽は動かず蝶は蝶を追い
   高齢は病いにあらず朴の花
   水中に水見えており水見えず
   メロン汁は命の水・最期の水
   泥まみれ爆弾浴びしわが終戦


                 
                 キョウチクトウ↑


2015年6月16日火曜日

藤井あかり「稜線の一樹一樹や稲光」(『封緘』)・・・



藤井あかり句集『封緘』(文學の森)、序句は石田郷子「水仙や口ごたへして頼もしく」。なかなか良い序句である。
1980年神奈川県生まれ。本年、第5回北斗賞受賞者にして、5年前には第1回椋年間賞受賞とあるから、多くの読者を共感させる安定した力はあるのだろう。愚生は北斗賞の選考委員の一人でありながら、その受賞に寄与することは出来なかった。その理由は愚生の自分勝手な新人賞に対する破たんするような初々しさを期待するという思い込みのせいで藤井あかりのせいではない。
こうして、一本の句集となれば、それはまた別の評価が与えられるだろう。
ちなみに、帯の句は、

     言の葉は水漬いてゆく葉冬の鳥     あかり

愚生等の年代、いやむしろ愚生の父にあたる世代、藤井あかりなら、さしずめ祖父の世代の読者を仮定すると「水漬いて」には「水漬く」を想起し、、たぶん「海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍」を想像する。そして、その季節は少なくとも冬ではない。作者はそれを知ってか知らずか、見事に「水漬いてゆく葉」と「冬の鳥」に転じて見せるのである。「言の葉は水漬いてゆく葉」は美しく、屍は省略されるが、無意識の通奏低音を奏でる、と読んでも誤読にはなるまい。あとは「冬の鳥」のありかだけだ。

*閑話休題・・・

   空蝉をもとのところに戻せざる        あかり

には、『封緘』を小脇にして、今日の昼過ぎ、阿部鬼九男氏宅を訪ねて、偶然にも短冊掛けに掛けられていた西東三鬼の空蝉の句「巌に爪立てゝ空蝉泥まみれ」の句に出合ったのだった。





話をもとにもどして最後に愚生好みの他のいくつかの句を挙げ、かつ一句献じようと思う。

   咲ききつてゐる苦しさの馬酔木かな
   君家に着きたる頃の雷雨かな
   群咲いてゐて鬼百合のまだ足りず
   会ふまでは人会ひたれば花カンナ
   風の音蜻蛉向きを変ふる音
   蝶々に雨の錘や秋桜
   

   水漬く葉を封緘にして藤あかり       恒行




   
   

2015年6月15日月曜日

厚見民恭没後20年偲ぶ会・(「恭しく民を見ているあつき火や」恒行)・・





 一昨日、6月13日(土)、京都・浄蓮寺において行われた厚見家墓参を済ませ(読経は宗派を異にするも、かつての仲間の花園・妙心寺の二名が行った)、車に分乗して、偲ぶ会の会場であるホテル・日航プリンセス京都に向かった。
没後20年の歳月もさることながら、愚生が京都を脱した(逃げた)のは21歳のときだから、厚見民恭をめぐる人々と会うのは、これが初めてという人もいる。それは仕方のないこととしても、数十年も会っていないと、最初はお互いの顔が分からない。そのうちに面影を思い出す。
 変われば変わるものだが、話をすると昔の口調が甦って、たしかにコイツだと思う。
45年ぶりの歳月がそこにある。お前に会えるだろうと思って参加したという人もいた。
そのあたりの事情を汲んでかどうか、案内状の最後には以下のようにしるしてあった。

  つきましては、左記の厚見君の二十年忌を期して 残ったものが集い 鬼籍となった同志・諸兄を偲び 在りし日を語りて追善としたく存じます
  なお われらが一堂に会するのは此度が最後の機会と存じますれば各位万難を排してご参集いただけますよう 衷心よりご案内申し上げる次第であります                                                                                                                                                                                                                                       
                                   謹白

 案内状は29名に送られ、、これが最後の会いまみえる機会と思った者、病いを得て止むをない者を除き25名が参集したのだった。
なかでも愚生にとっては初めてであったが著書『千本組始末記ーアナキストやくざ笹井末三郎と映画渡世』(最近、平凡社から再刊されたいう)で、厚見父子と笹井末三郎について書いた柏木隆法に会えたのは、奇縁と言わねばならない。 また、その弟子という青年・中川剛マックスは著『峯尾節堂とその時代』を持参し、席上、戦前の俳誌「懸葵」の大谷句仏や名和三幹竹のことを尋ねられたのは思わぬことであった。
厚見民恭(あつみ・たみちか)の父・好男は京都の戦前の労働運動史にその名を留めている。母は初であり、厚見民恭が亡くなったのちも数年は年賀状をいただいていた。厚見民恭がやっていた玄文社というのは、小さな印刷所兼出版社で、主に京大関係の教授のテキストを作ったりしていた。
 愚生等の同世代からは、オッチャンと呼ばれていた厚見民恭は、同人誌などを格安で作ってくれていた。例えば「京大俳句」「集団不定形」「立命俳句」のちに「フェミローグ」など、そのオッチャンのおかでげで、誌上だが「京大俳句」の上野ちづこ(千鶴子)や江里昭彦をいち早く知ることができたのだった。まして、当時は一面識もなかった、「集団不定形」で当時の現代詩手帖の年鑑では、立派に詩人として載っていた堀本吟、そして夫君で数学の大学教授だった北村虻曳は、現在、「豈」の同人でもある。
 印刷所の玄文社という名も、「玄」が「黒」を表すとわかるとその由来が納得できるのである。分厚い牛乳瓶の底のような眼鏡で速射砲のように話す本人は、周りの者たちはいざ知らず、穏健派アナキストと言っていたように思う。1945年生まれだったが、脳出血で一度倒れて半身不自由になったのちも、元気で、相変わらず速射砲のように語り、偏った食生活習慣を改めることはなかった。加えて「酒を飲む奴はアホや!脳細胞が一つづつ破壊されるやんで」と言って、ほとんどアルコールを口にしなっかった男である。それでも、二度目の脳出血によって49歳の若さで世を去ってしまう。年齢でいえば攝津幸彦と同齢だった。
その厚見民恭追悼集『黒い旗の記憶』(1997年、玄文社・厚見法文)を開くと、愚生は一句を献じていた。

   恭しく民を見ているあつき火や       恒行
      


2015年6月12日金曜日

前田吐実男「何から何までぐだぐだの年詰まる」(『ぐだぐだ是空』)・・・



前田吐実男句集『ぐだぐだ是空』(東京四季出版)は、句集名も面白いが、句もなかなか諧謔、皮肉なスピリッㇳのある近ごろでは、希なる句集である。
卒寿を迎える著者はまだまだ意気軒昂なのだが、さすがの強気も、一回りも若き妻・前田保子を亡くしての句には悲哀が満ちている。集中にひんぱんに登場する狸も、もちろん前田自身のことであろう。

   俺猫だと深夜に亡妻(つま)の置き土産         吐実男
   亡き妻が座っておりぬ菊膾
   亡き妻の着物にすがる冬の蠅
   花虻も亡妻(つま)もごちゃごちゃほたる袋の中
   保子の宵待草よ今宵は何処へ行ったやら
   保子が落ちて来たかと思う藪椿  
   亡き妻の薔薇カルメンが炎えている
       七月二十日 保子の三回忌を修す
   熱帯夜敷かれた尻を懐かしむ
   
さらに、社会的な関心も衰えることを知らない句群もある。

   天高し原発ゼロも馬の耳
   げじげじよ俺にナンバー付ける気か
   三猿にされてたまるか憲法記念日だ
   
とはいえ、きわめつきは「癌共闘へまっしぐら」の章かも知れない。

  生きて一年だとさ大寒に念押され
  余命一年蝋梅に俺狼狽す
  蛇穴を出て癌共闘へまっしぐら

昨年8月に肺癌を告知され、その余命一年がもう少しでくる。救いは「抗癌剤(エレッサ)が劇的に効き、後は自宅静養」(あとがき)でこうし句集上梓の運びとなったようで、愚生は、抗癌剤のもっともっと劇的な効果があることを期待し、見事、卒寿の坂を登り切ってほしいと祈念している。

  俺が俺の句碑に焼香花の下
  風が出て益々光る枯芒
  極月や巨大三日月魔女の鎌



                  クリの花↑
  

2015年6月9日火曜日

武馬久仁裕「白桃はチェルノブイリを夢想する」・・・



現代俳句文庫『武馬久仁裕句集』(ふらんす堂)は、武馬久仁裕の句業を一望するには、よく彼の相貌を伝えていると思う。たった一作品だが、多行の俳句やテーマによる連作の句(こうしたスタイルの句数の限定されたなかには収めにくいものだが)を収め、かつ『集外集』(三句集以後未収録作品)として、最近作と思われる未刊行句集のかたちを創っている。そして、ただ一枚だが「諸仏は、わずがに首を傾げ、現世の憂いを消し去ろうとしていた。二〇一一年七月、ポロブドール」の添え書きのある彼のデッサン。ほかに「小川双々子の俳句と言葉」「雨と軍港」という評論を収録。というわけで、一冊のコンパクトなスタイルの一集にしては、彼の多才ぶりを思わせる一本になっていて、じつに手頃だ。
解説はかつての双々子師の同門であった山本左門と歌人の依田仁美。その解説でも指摘されていることだが、武馬久仁裕の散文もまた見事なもので、第三句集『玉門関』は「散文と俳句との見事なコラボレーションの成立である」(山本左門)としているあたり、この文庫においては、その散文が十分に読めないのは少しさびしい。
彼の実業の顔は、黎明書房社長(師であった小川双々子の後を継いで)である。「船団」会員でもある彼は坪内稔典「船団」の著作もいくつか出版している。愚生も『教室でみんなと読みたい俳句85』(黎明書房)では、ほとんど愚生の自由に書かせていただいたことを思い出す(願わくば一冊でも多く売れれば彼に少しでも報いられるのだが・・・)。
彼はほかに「船団」ホームページの書評欄担当の一人で、この選書もなかなかいい。最近知ったのだが、自身でもホームページ「円形広場ー俳句+ART」をやっている。
武馬久仁裕(ぶま・くにひろ)、1948年愛知県生まれ。

    何という遅い歩みだ春・昭和          久仁裕
    大空に脳中の春絞り出す        
    春の道歩き疲れた獏と会う
    階段を上がる人から影となり
    玉門関月は俄に欠けて出る
    「地理学家珈琲館(ジオグラファー・カフェ)に俺はいるぞ。」と双々子
    セシュウムの野にひっそりと秋の雨
    初夏の男女は二足歩行する
    光年の先の私の秋桜
    遠ざかりつつある鶏は死ぬだろう



                 ネムノキ↑
   

2015年6月8日月曜日

「信濃俳句通信」30周年記念俳句大会・・・



昨日は、日帰り強行軍となったが、松本の美ヶ原温泉・ホテル翔峰で行われた「信濃俳句通信30周年俳句大会」に出かけた。
送迎のバスの方に聞いたら、その日の朝は寒く、土地の言葉で「みずしも」(水霜?)になったと仰っていた。
送迎バスのなかで久しぶりの櫂未知子、山口亜希子にあった。
「信濃俳句通信」の主宰は佐藤文子。かつて現代俳句協会青年部において何かとお世話になった。佐藤文子の師は穴井太「天籟通信」。「信濃俳句通信」には、今、「草の罠ー穴井太伝説ー」が連載され、6月号で5回目を迎えている。興味を以って読める穴井太評伝である。

   ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠        太
   
従って現在の代表・福本弘明も遠路九州から駆けつけていた。その「天籟通信」は創刊50周年を迎えるということだった。穴井太が亡くなって18年が経つという。
愚生は若き日、自分の勤めていた書店の棚の中から、穴井太『ゆうひ領』(牧羊社)を買ったことを思い出した。
ともあれ、30年前に七人の女性で立ち上がった「信濃俳句通信」がその歳月とともに地元に密着した活動をつづけ、いまでは子どもから高齢者まで多くの会員を有する会になっことにお祝いを申し上げる。


     まんさくのはなのへのへのもへじかな     文子

記念講演は「私と週刊新潮の絵」と題して成瀬政博(横尾忠則は11歳年長の実兄だそうである)。
アトラクションでは、木村流大正琴の演奏と八汐亜矢子の唄、その一つに佐藤文子作詞の「裏町慕情」を佐藤文子と一緒に唄う(写真上)というサプライズも用意されていた。



2015年6月5日金曜日

高原耕治「蛇 起ちて/蛇山を見き//大西日」(『四獣門』)・・・



高原耕治が『虚神』(沖積舎)に続く第二句集『四獣門』(書肆未定)を十五年ぶりに刊行した。一貫して多行の俳句を書いてきた彼が発行人を務める同人誌「未定」はいまや多行俳句に特化した同人誌となっている。多行俳句を書く作家を有する同人誌は、ほかにも「鬣」「円錐」「LOTUS」「豈」などがあるが、多行形式の俳句のみを追究している同人誌は「未定」以外にはないだろう。
しかも、もし難解という評言を許されるなら、高原耕治の多行俳句は、他の多行俳句の作家たちに比べてもとりわけ難解である。たぶん、それは、「俳句の《存在学》的開放」という志向に加えて、作品そのもののに自動律を思わせる演劇的な身振りの調子が感じられるためかも知れない。
空(クウ)と零(ゼロ)と死霊などが繰り返される言語とともに、この第二句集が「《宇宙腦》に献ず」と掲げられていることからも、それらの事情の一端はうかがい知れよう。愚生には到底及ばない世界である。
とはいえ、先人たちの句業を契機として書かれたであろう句群もかなりあるので、それらの手がかりを獲られれば作品の起伏は以外にも愚生に微笑んでくれるときもあるのである。
例えば、

   (クウ)の空(クウ)なるかな
   《宇宙開》
   さざめき消ゆる
   〈汝〉と〈我〉                    耕治
  

   この道が
   死んで観てゐる

   雲に鳥


   金魚絶えたる
   路地裏や
   ががんぼどもの
   似非故郷

以上の句などには、安井浩司、芭蕉、三橋敏雄、攝津幸彦などを即座に思い浮かべられるだろう。
いくつかの句を以下に記しておこう。四獣とは広辞苑に青竜・朱雀・玄武・白虎の四神とあった。

  〈我〉てふ異名の
  存在の
  のれんたなびく
  四獣門

  嗚呼 未完の
  《虚體》に
  言霊の黥(すみ)
  彫らむかな彫らむかな 

  われ〈われいろ〉なるか
  雨
  葱いろの
  葱畠



                  タイサンボク↑                             


2015年6月4日木曜日

菊地麻風「沙羅の花ひと日の花と咲き白し」・・・



本日、6月4日は麻風忌。菊地麻風は昭和57年80歳で他界し、今年は満33回目の忌であると嶋田麻紀「麻」5月号の後記に記してあった。その菩提寺の万昌院功運寺は牡丹園で名高かったという。菊地麻風自身は昭和3年より、渡辺水巴に師事し「曲水」同人。昭和23年には「曲水」雑詠欄選者となっている。
愚生が塚本邦雄の『百句燦々』で知っている齋藤空華「十薬のまだ一つ花十歪む」の『齋藤空華全句集』を編んだ一人が菊地麻風なのであった。

  旅三日夜目にも白く牡丹散る       麻紀

「麻」編集長の松岡敬親は、少し変わった人物のように思える。芭蕉は芭蕉でも「芭蕉革命ー芭蕉キリシタン類族説への道ー」が連載されていて、博覧ぶりと独創的な見識には驚くばかりだ。また、「俳句これから」というのも敬親独特に見えて、実にまっとうなことが述べられている。引用したいがとても長くなるので、興味のある向きは「麻」誌を手に入れて読まれるとよい。その松浦敬親は1948年愛媛県生まれ、1994年から俳誌「麻」(主宰・嶋田麻紀)編集長とあった。その編集の在り様における誌面の使い方も普通の結社誌とは少し違うように思う。
例えば「坂口昌弘著『文人たちの俳句』を読む」の書評?が庭野治男をによって微に入り細に入って、その一冊のために7ページ強にも及んでいる。しかも末尾には編集長の評についてのコメントが付いているといった具合で、誌面全体のバランスをものともしない風情なのだ。それを自由にさせている主宰も太っ腹というか、エライと思わせる。



                  ジュウヤク↑

2015年6月3日水曜日

榎本好宏「松蟬のそのころほひや沖縄忌」・・・



沖縄忌は、6月23日、本土より早く、本土決戦前に米軍に占領され、沖縄戦が終結した日で沖縄慰霊の日とされている。
榎本好宏句集『南溟北溟』(飯塚書店)の「あとがき」に、

父は昭和十八年、アリューシャン列島のアッツ島で戦死している。叔父はと言えば、終戦間際の沖縄で亡くなった。両方の戦とも、玉のように美しく散る意の「玉砕」なる美辞が冠せられた。

と記されている。榎本好宏は昭和十二年の生まれだから、今でいえば小学生に上がったばかりの年頃である。

「おりしも今年は終戦から70年」。ついにさきの戦争の後遺を生きている著者がいる。
いくつかの句を以下にあげておこう。

   氷柱垂るこの橋に兵送りしよ          好宏
   わたしらに永井隆よ八月よ
   暦繰ることの気怠さ八月に
   干菜吊る誰も還らぬ日本海
   畦を塗るシベリア還りとも呼ばれ

その他の感銘句をいくつか・・

   水馬なんにもしない日の大事
   虫干しや今年も母のもの捨てて
   聞き耳を立ててもはろか秋祭
   海に掌を合はす三月十日けふ
   死者に沓履かせて麻の衿合す
   数え日の話したりなき母帰す


                    

                ツルニチニチソウ↑

2015年6月2日火曜日

神田九十九句集『星屑の湖』・・・



神田九十九(かんだ・くじゅうく)句集『星屑の湖』(株式会社ミューズ・コーポレーション)は右ページに多行の句と左ページに、その句が英訳の三行として記されている。総数23句(英訳付)と手頃な句数で読みやすい。他に、「俳句は、いま」と題された辻田源美のエッセイ(「口語俳句協会報2010第5号からの転載)が収められている。
「あとがき」によると世界俳句協会編『世界俳句』(2008第4号~2015年第11号)に掲載された作品から自選された作品である。
神田九十九は1923年香川県生まれ。本名・正康と略歴にあった。

     壺底から
     ひと筋の水
     洩れだしてゆく
     麦秋                                                九十九

     From the bottom of a pot
           a trickle of water leaking out -
          harvest of wheat

         夏雲
    群れ立ち
    白い骸を
    抱きおこす

    Summer clouds gather
         raising the white corpse
         in my arms



                 ビヨウヤナギ↑

2015年6月1日月曜日

渡辺忠成『新陰流入門』・・・



三週間ほど前のことに遡って再再度になるが、別のことを書いておこう。その折の段ボールの中にこれも全く所在不明で失念していた本が入っていた。
それは、渡辺忠成著『新陰流入門』(新陰流兵法転会出版部)とその父上の渡辺忠敏著『柳生流兵法口伝聞書』(新陰流兵法転会)である。
渡辺忠成は、かつて愚生が新陰流兵法転(まろばし)会に学んでいた頃の先生である。
愚生は、今ではもう全く稽古をしていないが、30歳前後の7~8年ほどは熱心とはいえないが、学んでたのだ。安易といえば安易だが、サラリーマンで一週間一、二度位なら運動不足の解消になるかと思ってはじめたのだ(当時の海燕書房・勝野幸男に誘われた)。愚生の職場で何人かが入会し、支部が出来るくらいの人数になったこともある。その端くれにいて、天狗抄の位まではいただいた記憶もある。その後、一所懸命に修行を積めば、位は天狗の奥、内伝、印可、免許皆伝となるはずだが、愚生は俗事にまみれて結局は新陰流を辞めてしまった。
当時、愚生がもっとも稽古をつけてもらったのは、すでに師範代格で、現在は言語学者にして批評家の前田英樹であり(すでに若手の有能な武道家だった)、また現在は、別流を起している「刀禅」老師?の小用茂夫である。
古武道なので〇〇段という呼称はなかったが、稽古を積み修練すれば、すこしずつ位が上がって行く。例えば小転(こまろばし)の位を先生から伝授されるときに、たった一度だけ伝授される秘伝の技がある。いわば、勝ち口の伝授である。つまりその刀法を究めれば、相手の打ち込んでくる太刀筋に勝ち乗ることができる、というものであった。
簡単に今風に言ってしまうと、映画などでよく出てくる柳生兜割りであるが、愚生等はその太刀法を転(まろばし)打ちとして伝授された。
下段、中段、上段の各位(くらい)ごとに伝授される内容は違っていた。もっとも、究極の教えは無刀の位であり、「ゆめゆめ争うことなかれ」だったように思う。争わずに勝つのである。
もっともこうした、口伝中の秘伝として伝えられてきた剣の道は、戦国時代を経て(戦国時代は相手を確実に死に至らしめるための実用の方法を口伝することであった。何しろ多くは出血多量による失血死なのだから・・)、やがて戦国の時代も終り、江戸時代の平和な時代を武士階級が生き抜くために武士道という思想が生み出されることになるのだ。
その転会は、いまや日本のみならず、外国にも支部をもつほどに大きくなっているらしい。
ともあれ、渡辺忠敏(愚生が入門したときはすでに亡くなられていたが)が『柳生流口伝聞書』を著したのは、「はしがき」によると昭和47(1982)年、七十七歳の時である。明治27年栃木県生まれ。小学時より神道無念流を学び、大正6年、尾張柳生の新陰流十九世・柳生厳周に入門し、新陰流二十世・柳生厳長の補佐役を務めたとある。



                    ヤマボウシ↑