2015年6月15日月曜日

厚見民恭没後20年偲ぶ会・・・





一昨日、6月13日(土)、京都・浄蓮寺において行われた厚見家墓参を済ませ(読経は宗派を異にするも、かつての仲間の花園・妙心寺の二名が行った)、車に分乗して、偲ぶ会の会場であるホテル・日航プリンセス京都に向かった。
没後20年の歳月もさることながら、愚生が京都を脱した(逃げた)のは21歳のときだから、厚見民恭をめぐる人々と会うのは、これが初めてという人もいる。それは仕方のないこととしても、数十年も会っていないと、最初はお互いの顔が分からない。そのうちに面影を思い出す。
変われば変わるものだが、話をすると昔の口調が甦って、たしかにコイツだと思う。
45年ぶりの歳月がそこにある。お前に会えるだろうと思って参加したという人もいた。
そのあたりの事情を汲んでかどうか、案内状の最後には以下のようにしるしてあった。

  つきましては、左記の厚見君の二十年忌を期して 残ったものが集い 鬼籍となった同志・諸兄を偲び 在りし日を語りて追善としたく存じます
  なお われらが一堂に会するのは此度が最後の機会と存じますれば各位万難を排してご参集いただけますよう 衷心よりご案内申し上げる次第であります
                                                  謹白

案内状は29名に送られ、、これが最後の会いまみえる機会と思った者、病いを得て止むをない者を除き25名が参集したのだった。
なかでも愚生にとっては初めてであったが著書『千本組始末記ーアナキストやくざ笹井末三郎と映画渡世』(最近、平凡社から再刊されたいう)で、厚見父子と笹井末三郎について書いた柏木隆法に会えたのは、奇縁と言わねばならない。 また、その弟子という青年・中川剛マックスは著『峯尾節堂とその時代』を持参し、席上、戦前の俳誌「懸葵」の大谷句仏や名和三幹竹のことを尋ねられたのは思わぬことであった。
厚見民恭(あつみ・たみちか)の父・好男は京都の戦前の労働運動史にその名を留めている。母は初であり、厚見民恭が亡くなったのちも数年は年賀状をいただいていた。厚見民恭がやっていた玄文社というのは、小さな印刷所兼出版社で、主に京大関係の教授のテキストを作ったりしていた。
愚生等の同世代からは、オッチャンと呼ばれていた厚見民恭は、同人誌などを格安で作ってくれていた。例えば「京大俳句」「集団不定形」「立命俳句」のちに「フェミローグ」など、そのオッチャンのおかでげで、誌上だが「京大俳句」の上野ちづこ(千鶴子)や江里昭彦をいち早く知ることができたのだった。まして、当時は一面識もなかった、「集団不定形」で当時の現代詩手帖の年鑑では、立派に詩人として載っていた堀本吟、そして夫君で数学の大学教授だった北村虻曳は、現在、「豈」の同人でもある。
印刷所の玄文社という名も、「玄」が「黒」を表すとわかるとその由来が納得できるのである。分厚い牛乳瓶の底のような眼鏡で速射砲のように話す本人は、周りの者たちはいざ知らず、穏健派アナキストと言っていたように思う。1945年生まれだったが、脳出血で一度倒れて半身不自由になったのちも、元気で、相変わらず速射砲のように語り、偏った食生活習慣を改めることはなかった。加えて「酒を飲む奴はアホや!脳細胞が一つづつ破壊されるやんで」と言って、ほとんどアルコールを口にしなっかった男である。それでも、二度目の脳出血によって49歳の若さで世を去ってしまう。年齢でいえば攝津幸彦と同齢だった。
その厚見民恭追悼集『黒い旗の記憶』(1997年、玄文社・厚見法文)を開くと、愚生は一句を献じていた。

   恭しく民を見ているあつき火や       恒行
      


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