2015年3月30日月曜日

佐藤獅子夫「満月や曲がりてねむる桶の鯉」・・・




                                 尺八の伴奏で、故郷の真室川音頭を歌う佐藤氏↑

昨夕は佐藤獅子夫句集『海坂』(書肆麒麟)に出かけた。円錐の会とかつて「握手」(磯貝碧蹄館)の仲間の皆さんの内輪でのお祝い会らしく和やかに終始した。
澤好摩氏の計らいであろう。冒頭の祝辞は高橋龍氏。
装幀・装画の河口聖氏、そして、故・糸大八夫人荒井みづえ、栗林浩氏らにも久しぶりでお会いした。
会場は、四谷三丁目の東京ガス四谷クラブで行われたので、地下鉄で四谷駅から中央線乗換の折り、ちょっと寄り道をして、四谷から市ヶ谷への土手の桜を眺めた。桜もさることながら、一層、目を引いたのは、土手一面に咲いていた 俗称・花大根、諸葛菜の淡い紫色だった。著莪の花、菜の花も多くあった。
そういえば、ふた昔ほど前になろうか、八田木枯の「花筵有情」という花見の席が市ヶ谷を越えて飯田橋土手で毎年行われていたことがあったな、と、ふと脳裏をかすめた。三橋敏雄、松崎豊、中田世禰、青柳志解樹、亀田虎童子、沼尻己津子など、そこでさまざまな人に会ったのも懐かしい。

句集『海坂』栞に澤好摩が「童心忘じがたく」と題して、「故郷出羽の風土と、少年時代の様々な体験の蓄積がいきいきとしてあり、実にしばしば句に登場してくる。まさに童心忘じがたく、といった感じなのである」と、また、「若き頃には三橋敏雄氏と同じ船で航海に従事したこともあり、後には会社経営をされるなど、多彩な人生経験を持たれている」とも記されている。

句集名は、「海坂(うなさか)に帆船消えて卯波立つ」から。結びにいくつか愚生好みの句を挙げておこう。

       おぼえたる言葉遊びを四月馬鹿          獅子夫
       鬼瓦抱きて転がる大西日
       太棹の一の糸より滝の音
       日の盛り一つ打ちたる古時計
       地吹雪や我だばひたすら石になる
       木枯や湯舟に遠き濤の音




2015年3月29日日曜日

岩波光大「徒に春分の芽を炒めたる」(「豈」句会)・・・



昨日は、隔月ながら第123回「豈」東京句会だった。
桜は三分咲き?くらいだったか。句会はほんの少し早めに切り上げていただいて、福田葉子・堺谷真人・山本敏倖さんと現代俳句協会総会懇親会に参加した。
会場の東天紅は新築なった建物で、眼前の不忍池の夜桜が一望できる変貌ぶりに驚いた。
二次会を少しの間、居酒屋へでもと「豈」の堺谷真人、恩田侑布子、高橋比呂子、橋本直、加えて、高野ムツオ、高岡修、武馬久仁裕、堀口みゆきさんらと12,3人でウロウロ、この人数では、あいにく上野界隈は花見客の流れであろうか、どこも満杯。探しあぐねて、高野ムツオ氏は泊まらず、仙台に帰るので、今夜は解散しましょうということにあいなった。愚生は、武馬、高橋両氏と近くの喫茶店に入ってお茶を飲んだ。

以下に「豈」句会の一人一句を挙げておこう。

    徒に春分の芽を炒めたる            岩波光大
    初音より次の音までのとのぐもり        鈴木純一
    大輪の画集とうとう落椿             小湊こぎく
    吹かれゆく男の余白雲珠桜(うずざくら)    早瀬恵子
    さらさらとむつききさらぎ過ぎて窓       佐藤榮市
    廃炉の中で増殖している朧           羽村美和子
    白昼を辞し暗渠へと花筏            堺谷真人
    鉄線化むらさき淡く長岡忌           福田葉子
    香水の輪郭脚色されている          山本敏倖
    鳥族と蝶族のいてまんじ飛び         大井恒行 


     

2015年3月26日木曜日

水之森果林「手袋をぬぐ仕草らも春めいて」・・・



水之森果林句集『虚空曼陀羅華=花鳥風月への鎮魂歌(requiem)』(「金亀子」社)から。総句数50句からなる手作りの句集だが、各句には、すべて前書が付されている。ブログタイトルの「手袋をぬぐ仕草らも春めいて」にも「誤解(misinterpretation)」の前書が置かれている。従って、当然ながら前書と句は対応している。そこに表現者の述志がみえる。が、それはそれで、かなり読み手の想像力を限定してくる。以下に少し抄出しておこう(英語が苦手なので、なるべく表記が簡便な句を例に・・)。

          欺瞞(deception)
   暮れる陽(ひ)も我もわすれた鰯雲           果林
          絶望(despair)
   落葉ふむ少女の目に焚く落葉を
          洗脳(brainwashing)
   松過ぎて思い出したるわらべ唄
          断腸(broken heart)
   山羊の目に宿る日永のきのうけふ 

     
近いうちに同人誌「こがねむし」(年2回発行)を創刊するらしい。その誌名は「虚子翁の『金亀子擲つ闇の深さかな』(明治41年作)と『金亀子擲つ闇をかへし来る』(昭和7年作)から頂いた」としたためられている。
ちなみに水之森果林は椿寿忌(4月8日)生まれだともいう。「あとがき」の最後は「無謀とは知りつつ、それでも鎮魂歌として、深海に眠る彼らに捧げたいと思います・・・・合掌!」と結ばれている。


                    ハナモモ↑

2015年3月25日水曜日

「船団」俳句と批評―創刊号・・・



「船団」(南方社)・編集坪内稔典が創刊されたのは、奥付によると、1985年11月25日、三島由紀夫の憂国忌と同日である。当時は春・秋の年2回刊。その表紙には以下のように記されている。

 今日もまた〈君〉と別れなければならない頃、死によって愛を、すなわち生の一切を停止させ、永遠の状態にとどめたいと願うのである。もちろん、その時、多くの人は死に直進せず、そうした思いを生の源泉としてかかえこむ。

坪内稔典は「日時計」から「黄金海岸」を経て、愚生等のまさに発表し俳句を書き続ける根拠を問い続けるべく、いわゆる俳壇的な俳句総合誌とは別の場を創り、発行し続けていた「現代俳句」を一区切りさせて一息入れていた頃、「未定」や「豈」もすでに創刊されて、しばらく経った頃のことである。
愚生は句を投じなかったものの仁平勝そのほかの人たちと同じように、坪内稔典を応援する心持ちで創刊時、「船団」の会員となった。

最近の「船団」を手にしていないので、何とも言いようがないのだが、創刊号の執筆メンバーはじつに魅力的だった。
例えば、評論に宇多喜代子「女流の系譜1」、夏石番矢「日本の詩学を求めて・その一」、倉橋健一「二つの『赤光』斉藤茂吉ノート。詩・川柳・小説からは荒川洋治・久保田寿界・高村三郎。エッセイに久々湊盈子「欠落の夏の日」、中村苑子「重信ノート1」、現代俳句評に坪内稔典・・・、と俳句から窓が開け放たれていた。
号を重ねて、しばらくしての連載には和田悟朗、池田澄子、島村正など、また作品欄には、白木忠、吉野裕之、小西昭夫、齋藤慎爾、澁谷道、糸山由紀子、北条巽、谷口慎也、窪田薫、乾裕幸、伊丹啓子、堀本吟、山上康子、武馬久仁裕、藤原月彦、新山美津代、内田美沙、高橋信之、柿本多映、藤川遊子、長澤奏子、大西淳二などなど、錚々たるメンバーだった。
もう、四半世紀以上前のことだ。

坪内稔典も若く熱い。彼の時代と言葉の根拠を問い続ける姿勢に、身銭を切って馳せ参じた多くの有名、無名の俳人がいたということでもある。
すくなくとも、戦後、かの社会性俳句運動や前衛俳句運動などをピークに、その後の俳句のシーンを、小さいながら自らの力をあつめ、集団的に新たに生み出されたエネルギーとしては、唯一のものだったろうと思う。
思えば、若さというのは、その生へのエネルギーのみをいうのではなく、何ごとかを真摯に透視しようとする姿勢をも合わせ持っている、ということなのだ。
いかなる意味でろうと、時代をするどく感受する天啓を与えられているのである。



2015年3月24日火曜日

岡田耕治「日本国憲法の蛇穴を出る」(「香天」38号)・・・



「香天」の誌名は、岡田耕治の師・鈴木六林男の「荒天」に通じていよう。その岡田耕治の最近の多作ぶりは、「花曜」同志だった久保純夫の多作ぶりをも同時に想起させる。今号でも「香天」の代表作品として75句「日本国憲法」、特別作品15句「テレパシー」を合わせると90句程発表されている。これほどの句数が毎号発刊のたびに発表されているわけだから、愚生のような、俳句を作らない俳人と揶揄されているような者からみれば驚嘆に値する作句数なのである。
思い起こせば、岡田耕治は愚生ともども戦無派集団・「獣園」(1970年創刊)の同人だったことがある。久保純夫・土井英一・城喜代美・中川雅善・さとう野火・北野真輝などという青少年が同人だった。
彼のその後についての詳しいことは知らないが、岡田耕治のデビュー作は「稲車うしろはだれも来ぬ夕焼」。彼が15歳のときだという。今手元に偶然のようにある「獣園」16号(1975年6月25日)の特別作品15句「無名風土」の評を土井英一が次のように記している。紹介しよう。

 この特別作品における言葉遣いもどこかにハンマーで打ちかいた岩のようにゴツゴツしたところがあって措辞も豪胆である。言い澱んだりしない。少々強引でも言い切ってしまう、あるいは言い放つ。ディオニュソス的精神をよろこぶ現代にあって彼は敢然とアポロン的精神で立ち向かうようである。
 第四、五、六、八、十五(「大量の椎茸をもぎ尿白し」「菊揺らしシーツとりこむ夕べかな」「花疲れ少女らにある鼻の穴」(百合の芽に遊ぶ子臭いだす湿地」「混まぬバス暗(やみ)に充ちいたり花の下」)の抒情のとどめ方、粗削りだが重い。逆に第三、七、十三句等(「やわらかき婆かしこまる露天風呂」「長靴の少女絵帽子水あそび」「脱ぎし靴すぐ屑となる春の浜」)等はこの作り手にしては凡庸の部類に属するであろう。ともあれ将来大なりと感じさせる作品である。

昭和29年生まれの岡田耕治、その若き日、21歳の時のことである。すでに「海程」「花」の同人でもあった。そして今、40年前の土井英一の評言の見事な的中度、慧眼を思う。岡田耕治の俳句の書き方は不変であり、その将来への占いも当たった。

   テレパシー鯨の肉を食べてより            「テレパシー」より
   クッキーの匂いをさせて歌留多読む
   糠床に一夜沈みて初わらび
   老人に勇気ありけり朱欒剥く           「日本国憲法より」
   朝まで点る電球悟朗逝く
   あふれ出す手応えのあり春の水  
   日本国憲法の蛇穴を出る



2015年3月23日月曜日

竹岡一郎「俳句とは詩の特攻である」・・・



まず、句集『ふるさとのはつこひ』(ふらんす堂)の装幀に触れておこうか。
表紙装画の逆柱いみりの斬新さもさることながら、その絵を十分に生かし見せようとする意志のためだろう、表紙に最低必要な題と著者名と版元のみともいえるシンプルで、いまどきの句集らしからぬ装いになっている。栞紐のかわりに、と思われる挟み込みの紙栞も見返しの遊びの絵の袖部分を断裁したものだろうが、これもなかなかの計らいである。各章のとびらにも逆柱いみりの挿絵が入る。装幀者は和兎。

さて、句集についてだが、このブログタイトルにした「俳句とは詩の特攻である」とは竹岡一郎の現在の俳句に対する答えであり、志である。これまで「俳句は文学ではない」「俳句は一本の鞭である」「俳句もまた詩である」など、そのつど色々掲げた俳人はいたが、さすがに「詩の特攻」とは誰も言わなかった。「特攻」の先にはおよそ待ち構えている死がそこにある。生還する(生きる)という前提は当初から失われている。それは自ら選んだとはいえ、それを強いた背景がある。たぶんそれらをひっくるめてすべてを撃ちたいのであろう。それが一縷の望み、いや、絶望こそが希望に転化するというロマンチシズムだとするならばそれもいい。
句集「あとがき」にある「俳句とは日本のなつかしい山河である」は、あえて向いあう風景を別にしているのである。風景とは何も懐かしいそればかりではない。むしろ、只今現在に地続きになっている何かなのである。だからこの句集には竹岡一郎が世界に挑んだ苦闘の成果と無残が書き留められている。
そしてまた、俳句に対するこの未踏への志こそは貴重である。

   世のをはり焦螟の声聞き惚れよ               一郎
   鳥の恋陸(くが)の形の変はる前
   双六の上がり全面核戦争
   牙祀られて不帰(かへらず)の里の朱夏
   失はれし橋かをる日は凍死あり
   よぢれ咳くこの一人こそ穹を糺す
   鬼夭(わか)く帰雁の影を掬びけり
   亀鳴けるほかはしづもる地獄かな        
   鬼ついに聖たらむと青き踏む
   



2015年3月20日金曜日

林桂「反歌 母と / 父死後の八日目にして米を搗く」・・・



林桂第七句集『雪中父母』(鬣の会)は、扉にも「父母に捧ぐ」と記されたように、亡き父母に捧げられた句集である。亡き父母に捧げられてはいるが、元は父母生前に刊行を意図された句集であった。
「なにもかも間に合わなかった」(「あとがき」)のである。その「あとがき」によると、「本集は、二〇〇二年二月から二〇一四年一〇月までのほぼ十三年間に発表した二十編、百四十二句を纏めたものである。『黄昏の薔薇』『銅の時代』『銀の蟬』『風の國』『はのの絵本りょうの空』『ことのはひらひら』に続く第七句集である」。
とりわけ、肉親にかかわる句がそのテーマ別に編まれているのは、当初からの意識的な表現行為を句集にまとめてみせる林桂の生きようをよく現しているようにも思える。家族をふくめ一人一人の人との関係性をかけがえのないものして、生きてきた証でもあるように思う。
とかく、いい加減に生きてきた愚生の及ぶところではないのはまだしも、愚生のなしうるところではない。
句集には多行形式の句も一行形式の句もあるが、表記には総てルビがふされている。
いくつかを挙げたい(ルビを割愛して・・)。
   
         反歌 母と
    父死後の八日目にして米を搗く    桂
    


    夏草とならざる
    夢を
  
    海の父  

        10人読んだら3人はわからないといい。2人は「すげえ!天才だ」といい、残り5人は
        途中で寝てしまうだろう。いいのだ寝ても、前衛とはそういうものだからである。
        齋藤美奈子「朝日新聞」
    空蟬や詩人のマッチ箱の闇                  

    春の空冬の帽子を紺色に
    
    母に寝て
    露けし
    朝の
    花擬宝珠



                        ユキヤナギ↑

2015年3月19日木曜日

「誰も知らない屋根裏の鶴の村」(西川徹郎自選句集『少年と銀河』)・・



1200ページに及ぶ大冊・西川徹郎論集成『修羅と永遠』(茜屋書店)が刊行された。
帯には「〈17文字の世界文学〉実存俳句の提唱者西川徹郎の俳句革命50年記念論叢 日本文壇・詩歌壇・思想・哲学界の第一人者73名による西川徹郎論の歴史的集成」とある。
惹句の通りその質量は圧巻であることは間違いない。
西川徹郎を知るに便宜なのは、加えて西川徹郎自選句集「少年と銀河」(自選811句)、西川徹郎自選歌集「空知川の岸辺ー十代作品集」(自選282首)、さらには、第1章「永遠の少年 其の一」に収載された論考が、先の『幻想詩編 天使の悪夢九千句』(茜屋書店)を評する筆者9名、平岡敏夫、野家啓一、倉阪鬼一郎、稲葉真由美、俳人では遠藤若狭男などによる書下ろしの力作ぞろいだということであろう。
その他の論考の多くの再収録は、帯にあるような各界著名人のものであるが、吉本隆明、菱川善夫、笠原伸夫、清水昶、立松和平、松本健一、佐藤鬼房、三橋敏雄、阿部完市、和田悟朗、攝津幸彦など、すでに鬼籍に入った人もかなりいる。
また、資料編として西川徹郎の評論、エッセイもある。

西川徹郎は。「豈」の創刊同人でもあった。攝津幸彦の葬儀、攝津幸彦全句集刊行時の偲ぶ会にも遠路、旭川から駆けつけてきてくれた。西川徹郎の激越な文章からは想像もつかない、いわば僧侶らしい、礼儀正しい人だという印象だった。
6年ほど前だろうか、愚生が「俳句界」に勤め始めたばかりの頃に、不定期だが、俳壇では異端、異貌の巨人俳人を特集する企画があって、その一回目が西川徹郎だった。
旭川空港にカメラマン・赤羽真也(本著の口絵写真)と二人で降りた時は、数日前の初雪が少し残っていた(旭川空港へは現代俳句協会青年部シンポジウムで降りて以来、二度目だった)。
インタビューを終えて翌日は、新城峠、黎明舎など西川徹郎の原郷を案内してもらった。
インタビューの場所は西川徹郎文學館だった。現役俳人で個人文學館が建設されたところをみると、地元の名士の一人だったにちがいない。
その孤高・異貌の巨人俳人特集も、二人目の加藤郁乎をもって中断した(しかし、想い出深い体験をさせてもらった)。


                マンサク↑

2015年3月16日月曜日

3月の庭のお知らせです・・・ 首くくり栲象

                                           世田谷美術棺 ↑

首くくり栲象(たくぞう)。かつての名は古澤栲(たく)だった。
武蔵野美術大学の近く,、恋が窪にあった彼の家で、愚生は仁平勝に初めて会った。もうかれこれ40年近く前のことになるのだろうか。あだ名はジミーだった(ジェームス・ディーン)。
仁平勝はまだ俳句界には登場してなかった。
その後、仁平勝は『花盗人』の句集をもって、愚生が勤めていた吉祥寺弘栄堂書店に来た。
喫茶店でお茶を飲み、二、三人の若い俳人を紹介した。坪内稔典、攝津幸彦、そして・・・。
ほどなく仁平勝は「現代俳句」(ぬ書房)に「発句の変貌」を書いて俳壇デビューを飾った。
その頃、タクさんは、美大の授業のための男性ヌードモデルをしていた。
「女性はいいんだ。たいしたポーズもとらなくいいい」
「男は無理なポーズを要求されて、じっとそのままいなくちゃならない」
「キツイヨ・・」。

いま、そのタクさんは、庭劇場という自宅の舞台で、乙女椿の咲く木にぶら下がっている。
彼から、3月の案内メールが来たので、勝手に転載して、皆さんに披露する。
毎月案内をいただくが、前書きがいつも愚生をうならせているのだ。


3月の庭のお知らせです    首くくり栲象

「に」の力
空をみるには仰げばよい。手をかざせば、山はほどよい具合で望められる。私は海を車窓で眺めるのが好きだ。しかし触れるとなるとどうだろう、山は山肌までゆかねばならない、空は雲の所在まで訪ねねばならないだろう。どんよりと曇ったいちじつ、電車の小旅行を思い立った。私か住む南武線の谷保駅から立川へ、中央線で八王子に。そこで横浜線に乗り換えて橋本へ、相模線で茅ヶ崎駅。茅ヶ崎で踵を返し、東海道線で東京駅へ、中央線に乗り換え谷保駅の真向かいに位置する国立駅まで、三時間ほどの行程ぐるりと巡る計画でした。谷保駅から二時間ほどで茅ヶ崎駅に到着した。改札口の人波を眺めているうちに猛烈に海と出くわしたくなった。見るだけなら熱海行の車窓で充分だ。触れたいのだ。駅前地図で海を確認し、一直線に延びる眼前の路を足早に二キロか三キロ歩いた。海岸道路を横切り、ネットを被せた防風林をぬけると、そこに海は居た。右手に日没、左手に江ノ島らしき島がどんよりとして居座っている。わたしは吸い込まれたように波に近づき、人間を忘れたかのように、海に人差し指を浸けた。

●開催日と開演時間
〇3月25日(水曜)夜7時開演
〇26日(木曜)夜7時開演


〇開場は各々十五分前
〇雨天時も開催
〇料金→千円
〇場所→くにたち庭劇場
◎庭劇場までの道筋
中央線国立駅南口をでて大学通りの左側を一直線に歩き、二十分ほどで唯一の歩道橋に出ます。そこを左折する。右側は国立高校の鉄柵で、鉄柵沿いに歩いて三分ほどで同高校の北門に到達します。その向かいの駐車場(赤い看板に白抜き文字で『関係者以外立入り禁止』の文字が目印です)に入って下さい。左奥で、木々の繁みにおおわれた、メッシュシートで囲まれた、平屋の中が庭劇場です。
なお国立駅と向かい合っています南武線谷保駅からですと、谷保駅北口をでて国立駅方面へ大学通りを直進。七分ほどで唯一の歩道橋に着きます、こんどは右折し、以下国立駅からと同記述です。
  首くくり栲象 

電話090-8178-7216
庭劇場:国立市東4-17-3

http://ranrantsushin.com/kubikukuri/index-1.htm
http://ranrantsushin.com/kubikukuri/keitai/



2015年3月15日日曜日

「文字の美ー工芸的な文字の世界」日本民藝館・・・



日本民藝館を創設したのは柳宗悦(やなぎ・むねよし、1889~1961)。雑誌「白樺」創刊に加わり、民芸運動を提唱実践した、という辞書的なことくらいしか愚生は知らない。
その民芸館でいま「文字の美ー工芸的な文字の世界」展が開催中である。民芸館の辛夷の花も咲き始めていた。
パンフレット解説文によると、柳宗悦は、

 美しい文字は個人の性(さが)を超えていることを挙げています。ここでの個人とは自我を指します。自我に執着すればそれは作為として敏感に反映され、美から遠のくと述べました。従って個人に属さない文字や社会共有の公的な文字は、より美と交わりやすく、また、非個人の文字が美しくなる要素は、伝統への帰着や文字の間接化であると説明しています。(中略)
 ちなみに個人の文字を書いた代表には、中国・東晋時代の王義之を引いています。しかし義之の書が漢代や同じ六朝期に刻まれた碑文の美しさに及ばないこと、くわえて義之から書の堕落が始ったことを指摘しました。

と記され、あるいは、

美しい書にはどこか模様としての美しさがある。此の意味で凡ての美しい書は工藝的に美しいと云っていい。文字に工藝化が来ないと美しくはならない。美しければどこか工藝的な所がある。

とも述べているようです。


理屈はどうあれ、展示されていた拓本や陶器、染め織、紙布などに表された文字には静謐でありながら、ごこかに人間の営みの痕跡が留められているように思えた。

  辛夷はや咲くばかりにて空あらん      恒行





2015年3月11日水曜日

「呼べど帰らぬ片白のふね海や山」恒行・・・




本日、東日本大震災からまる4年が経つ。「震災とフクシマ」をどのように掘り起こすのかをいまだ語れず、見つけられずにいる。
もちろん、現実的、具体的な展望としては、地球上からすべての原子力発電所の廃棄という選択は未来への在り方を含めて(それが核兵器の保有と結び付いてもいるゆえ)、実現するのが人としての義務であろうことぐらいは確信できる。
かつて高屋窓秋は長い話の最後には、いつも原爆と平和について語っていたことを思い出す。そのたびに愚生はああ、新興俳句の人なんだなあ・・とわけもなく思ったものだ。寺井谷子は窓秋のことを、ミスター新興俳句と言っていた。
ともあれ、本日14時46分、愚生の働いている府中市グリーンプラザでも同時刻に黙祷を捧げた。
もちろん、自然発生的ではない行為だった。数日前、東日本大震災4周年追悼準備室というところから、ご担当者各位として内閣府大臣官房発の事務連絡が届いたことによる。

愚生は一句を献じた。

       呼べどもどらぬ片白のふね海や山      恒行




 
*閑話休題・・・・・

「里」3月号は特集「佐藤文香『君に目があり見開かれ』の開かれ方」で上田真治、堀下翔、喪字男、田中惣一郎に佐藤文香新作俳句と詩が掲載されている。それぞれの論はそれぞれに興味ある評だった(興味のある方は直接に・・)。佐藤文香の「スキー」と題した新作俳句は、表現としては実はどれも現代仮名遣いの方が良いように思えたが、変わらず歴史的仮名遣いで書かれているのは、その違和感を大事にしているのかもしれないとだけ感想しておく。
それよりも、愚生を注目させたのは、「里俳句会 本拠地移転のこと」という告知であった。3.11から、兵庫県尼崎市南武庫之荘に移るとのことであった。メールアドレスは不変とあるので、邑書林も移転してしまうらしい。

「豈」次号57号も4月下旬には出る(なんせ、邑書林発売元ですから)予定である。


                ジンチョウゲ↑

2015年3月7日土曜日

オン座六句「万国旗」の巻(垂人連句会)・・・


                  左端懐手が捌き・浅沼璞氏↑

「オン座六句」の連句と言ってもご存じない方もおられよう。
この連句式目の創業者の浅沼璞(あさぬま・はく)が今回の捌きである。
浅沼璞は『可能性としての連句』(ワイズ出版)をはじめ『「超」連句入門』(東京文献センター)などの著書とともに自らを連句人(レンキスト)と称しているが、『西鶴という鬼才』(新潮社)など四冊の西鶴論をもつ若手の論客でもある。
かつて、句集『雪女』を上梓するかなり前の眞鍋呉夫(天魚)を愚生に引き合わせたのも彼である。
そのお蔭で、その日、愚生は天魚捌きによる初連句を体験した。もうふた昔も前のことになろうか。

とはいえ、愚生は、連句の式目はおろか、「オン座六句」の式目にも明るくないので、以下に、彼の創業の式目を掲げて参考に付し、当日の連句の二連までを記しておきたい(全体はたぶん「曳尾庵(えいりあん) 璞」のホームページや「垂人(たると)」(中西ひろ美・広瀬ちえみ発行)に掲載されるはずであるので、興味のある方はそちらで・・・)。
巻かれた日時・場所は、3月5日(木)、下神明駅前地下の喫茶店「とろんそん」(奥が句会場用のスペース)。

   「オン座六句六ヶ条」

①一連六句を基礎単位とし、やれるところまで連を継ぎ足す(序破急を鑑み、三連以上を理想とする)。
②第一連は基本的に歌仙の表ぶりに則る(短句の四三調も第一連のみタブー)。
③途中、自由律の連を定め、長律句(二十音前後)と短律句(十音前後)を交互に付け合う。
④月・花・恋に加え、「六句」の洒落として氷・岩(石)・ロックミュージックを任意詠み込む。
⑤常に三句目の変化を狙うため、同じ題材を三句続けない(同季や恋も同じ)。
⑥最終連の予測がついたら、五句までに花の座をもうけ、挙句でわざと打越し、一巻のエンドマークとする。

第一連
   万国旗ゆれて春めく船出かな         広瀬ちえみ
 春   千載一遇願ふ三月                浅沼ハク
    馬たちの世間話を聞き取らん           鈴木純一
      輪ゴムのように伸びちぢみする       ますだかも
 ☽  むら雲のまたも近づきたる既望        中西ひろ美 
 秋   墨を使はぬまヽ秋の暮              大井恒行

第二連
    ザ・カフェとのみ書かれしカフェの止り木に     高岡粗濫
 恋   口説き上手はニッカがお好き            加藤 澪
 恋  天秤を掛けるに迷ふ下心                  ハク
 石    本日限り墓石(ぼせき)のバーゲン          ちえみ
 夏  八ヶ岳遠くにありて合歓咲けり                かも
 夏    鮎の尾鰭のみなもとを向く                純一

第三連
    背の筵たひらに鳴らす枇杷法師             ひろ美
 R    危機「パラノイド」ブラックサバス            純一 

取りあえず、愚生による一足先の公開はここまで・・・・後は捌き・璞の最終決定稿までお待ち下さい。
その日、捌きのよんどころない事情による時間制限もあって、巻終ったのは第四連(自由律の連)まででした。適宜の連で終わらせることができるのも、まあ、「オン座六句」の自由さでしょうか。


                       河津桜↑

2015年3月4日水曜日

大本義幸「死者はみな君の記憶を徒歩(かちわたる)」(俳句新空間no.3)・・・



めでたく「俳句新空間」no.3が出た(「豈の会」発行・発行人、北川美美・筑紫磐井)。ーBLOG俳句空間媒体誌ーということになっている。本誌「俳句空間ー」よりも、発行ペースが少し早いので、やがて追いつかれそうである。とはいえ、愚生の命の方がたぶん一足速いだろうなぁ・・。
参加者86名とは、すでに本誌「豈」を凌駕している(めでたい)。
全員の句を紹介したいが、それは無理なので、「平成二十七年新春帖」から一人一句を以下にあげておこう。

   こっちとそっちのこがらしごっつんこ       網野月を
   ほ、ほ、っ君は螢ホスピタル           大本義幸
   ぽっぺんのぽっぺんと鳴る夕べかな      神谷 波
   風花の神主一行橋わたる            坂間恒子
     醜の秋手の鳴る方へ行きたがる 鬼房
   四方の手を鳴らされ鬼の身の裂ける     佐藤りえ 
   国破れても滅びても若菜摘           仲 寒蟬
   雪女吾をひきかへに山下りぬ          中西夕紀
   餅花を定座に風をいざなへり          秦 夕美
   春の夜の山川呉服店点る            福田葉子
   冷たしよ草の青さもその丈も          ふけとしこ
   原罪にまぎれ込みしが猫じゃらし       堀本 吟
   ショベルカーブルドーザーに風花す      前北かおる
   人に添ふ冥きところに雪降り積む       真矢ひろみ
   きぶくれて国の自壊の音の中         もてきまり
     ねがはくば花のしたにて春死ん そのきさらぎの望月のころ
   手術中の灯は消えドアが二月尽       夏木 久 
   初鏡切株も宇宙も 谺              豊里友行
   一流であつてはならぬ俳の道         筑紫磐井
   重詰の中は仕切られ都かな          北川美美


2015年3月2日月曜日

秦夕美「雛の夜のみだりがましきお菜箸」(『五情』)・・・



『五情』(ふらんす堂)は秦夕美の第16句集である。個人誌「GA」発行人にして「豈」同人。句集の他にも句歌集、句文集、エッセイ集に『火棘ー兜子記憶へば』『夢の柩ーわたしの鷹女』『赤黄男幻想』など多くの著作を持つ。このたびの『五情』の装丁もシンプルながら見事である。四六版変形ながら手にとれるほどによい大きさ。グリーンのクロスの表紙に句集名と著者名は金の箔押し。本文の文字色はグリーン。「あとがき」によると「辞典にある五色は、青黄赤白黒で、緑は入っていない」とのことで文字のインク色は緑を選んだのだそうである。
ちなみに、「五情」は喜怒哀楽怨のことで、眼・耳・鼻・舌・身の五根が情識を有するという。秦夕美が六十年抱え込んでいたという言葉なのだ、という。どうやら喜寿の記念の上梓のようでもある。
多才・多彩な人である。
部立ては四章、これも「喜びの冬」「怒れる春」「哀しき夏」「楽しむ秋」と喜怒哀楽を表わし、「怨」を抜いている。自身、こうした仕掛けを楽しんでいるのであろう。
どのようにも表現できる技と力をお持ちだから、どの句を挙げてもよいが、以下にいくつかを記しておきたい。

       鶴舞へり夕日を抱く形して                  夕美
       菱餅のまだとヽのはず道の駅
       鳥食みや小石にまじる雛あられ
       その角のあるがたふとし冷奴
       露草に吸はるヽ星の名残かな
       死神はいかな匂ひぞ豆の飯
       秋波にはとほく色なき風の先
       あの世とは爽籟のなか鳥が鳴く