2015年3月25日水曜日
「船団」俳句と批評―創刊号・・・
「船団」(南方社)・編集坪内稔典が創刊されたのは、奥付によると、1985年11月25日、三島由紀夫の憂国忌と同日である。当時は春・秋の年2回刊。その表紙には以下のように記されている。
今日もまた〈君〉と別れなければならない頃、死によって愛を、すなわち生の一切を停止させ、永遠の状態にとどめたいと願うのである。もちろん、その時、多くの人は死に直進せず、そうした思いを生の源泉としてかかえこむ。
坪内稔典は「日時計」から「黄金海岸」を経て、愚生等のまさに発表し俳句を書き続ける根拠を問い続けるべく、いわゆる俳壇的な俳句総合誌とは別の場を創り、発行し続けていた「現代俳句」を一区切りさせて一息入れていた頃、「未定」や「豈」もすでに創刊されて、しばらく経った頃のことである。
愚生は句を投じなかったものの仁平勝そのほかの人たちと同じように、坪内稔典を応援する心持ちで創刊時、「船団」の会員となった。
最近の「船団」を手にしていないので、何とも言いようがないのだが、創刊号の執筆メンバーはじつに魅力的だった。
例えば、評論に宇多喜代子「女流の系譜1」、夏石番矢「日本の詩学を求めて・その一」、倉橋健一「二つの『赤光』斉藤茂吉ノート。詩・川柳・小説からは荒川洋治・久保田寿界・高村三郎。エッセイに久々湊盈子「欠落の夏の日」、中村苑子「重信ノート1」、現代俳句評に坪内稔典・・・、と俳句から窓が開け放たれていた。
号を重ねて、しばらくしての連載には和田悟朗、池田澄子、島村正など、また作品欄には、白木忠、吉野裕之、小西昭夫、齋藤慎爾、澁谷道、糸山由紀子、北条巽、谷口慎也、窪田薫、乾裕幸、伊丹啓子、堀本吟、山上康子、武馬久仁裕、藤原月彦、新山美津代、内田美沙、高橋信之、柿本多映、藤川遊子、長澤奏子、大西淳二などなど、錚々たるメンバーだった。
もう、四半世紀以上前のことだ。
坪内稔典も若く熱い。彼の時代と言葉の根拠を問い続ける姿勢に、身銭を切って馳せ参じた多くの有名、無名の俳人がいたということでもある。
すくなくとも、戦後、かの社会性俳句運動や前衛俳句運動などをピークに、その後の俳句のシーンを、小さいながら自らの力をあつめ、集団的に新たに生み出されたエネルギーとしては、唯一のものだったろうと思う。
思えば、若さというのは、その生へのエネルギーのみをいうのではなく、何ごとかを真摯に透視しようとする姿勢をも合わせ持っている、ということなのだ。
いかなる意味でろうと、時代をするどく感受する天啓を与えられているのである。
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