2015年3月23日月曜日
竹岡一郎「俳句とは詩の特攻である」・・・
まず、句集『ふるさとのはつこひ』(ふらんす堂)の装幀に触れておこうか。
表紙装画の逆柱いみりの斬新さもさることながら、その絵を十分に生かし見せようとする意志のためだろう、表紙に最低必要な題と著者名と版元のみともいえるシンプルで、いまどきの句集らしからぬ装いになっている。栞紐のかわりに、と思われる挟み込みの紙栞も見返しの遊びの絵の袖部分を断裁したものだろうが、これもなかなかの計らいである。各章のとびらにも逆柱いみりの挿絵が入る。装幀者は和兎。
さて、句集についてだが、このブログタイトルにした「俳句とは詩の特攻である」とは竹岡一郎の現在の俳句に対する答えであり、志である。これまで「俳句は文学ではない」「俳句は一本の鞭である」「俳句もまた詩である」など、そのつど色々掲げた俳人はいたが、さすがに「詩の特攻」とは誰も言わなかった。「特攻」の先にはおよそ待ち構えている死がそこにある。生還する(生きる)という前提は当初から失われている。それは自ら選んだとはいえ、それを強いた背景がある。たぶんそれらをひっくるめてすべてを撃ちたいのであろう。それが一縷の望み、いや、絶望こそが希望に転化するというロマンチシズムだとするならばそれもいい。
句集「あとがき」にある「俳句とは日本のなつかしい山河である」は、あえて向いあう風景を別にしているのである。風景とは何も懐かしいそればかりではない。むしろ、只今現在に地続きになっている何かなのである。だからこの句集には竹岡一郎が世界に挑んだ苦闘の成果と無残が書き留められている。
そしてまた、俳句に対するこの未踏への志こそは貴重である。
世のをはり焦螟の声聞き惚れよ 一郎
鳥の恋陸(くが)の形の変はる前
双六の上がり全面核戦争
牙祀られて不帰(かへらず)の里の朱夏
失はれし橋かをる日は凍死あり
よぢれ咳くこの一人こそ穹を糺す
鬼夭(わか)く帰雁の影を掬びけり
亀鳴けるほかはしづもる地獄かな
鬼ついに聖たらむと青き踏む
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