2017年1月30日月曜日

越村藏「わたくしもわたむし(綿虫)も命明りかな」・・・



ブログの句は、越村清良著『教師「ん」とカリン』(深夜叢書社)の謹呈用紙に記されていた句である。その用紙には以下のように記されている。

 若年より文学をこころざし、
ようやく一作を得たように思いいます。
『教師「ん」とカリン』は、書かねばならぬ話でした。
あと幾つか、こうしたものを持っています。
命ある限り、書き続けようと思います。
 これまでのご厚誼、ありがとうございました。
 なお、本年より年賀状を失礼させていただきます。

  わたくしもわたむし(綿虫)も命明りかな   金沢。藏小宅にて

 平成二十九年一月

小説は母子生活支援施設にくらす少女の物語。舞台は北陸、パラグライダーの聖地。少女の夢はパラグライダーに乗り、ライダーたちの合言葉「日本海に向かって翔べ!」を現実のものにすること。
ところで、越村清良(こしむら・きよら)は1951年、石川県生まれ。俳人としての俳号は越村藏(くら)、かつてあった「俳句朝日」の編集長だった。その「俳句朝日」に自分の作品を一挙掲載して、心ある俳人から顰蹙を買ったことがあるが、本人はいたって平気で、他の俳人よりはいい句だったろうと言い、そう思っていた節がある。
あるとき、冗談とも思えない、戦後○○年企画、金子兜太、越村藏、愚生、それに何人かの俳人を加えて、12月8日の開戦日にパールハーバーで非戦のための句会をやろう、というものだった。愚生は、顎足付きで真珠湾吟行、是非行きたいですね。約束しましたよ、と即答したはずだが、その句会はいまだに実現されていないどころか、「俳句朝日」の方が命運尽きて廃刊になってしまった。

  花無ければたましいさみしからん

上記は、本文に挿入されている、小説の主人公・カリンの母が色紙にしたためた句である。



2017年1月29日日曜日

堺谷真人「捨印のやうな席あり日向ぼこ」(「豈」134回句会)・・



昨日は、隔月奇数月開催の「豈」第134回句会(於・白金台いきいきプラザ)だった。「豈」句会では珍しいことだが、ブログタイトルにした句に得点が集中し、最高得点句となった。
一人一句を以下に挙げておこう。

   別宇宙が呼ぶ銀河系のぼくを     川名つぎお
   帰思きざすまでをまどろみ鴨の陣   堺谷真人
   落椿身ぬちに記憶の戦火はも     福田葉子
   仮面動き滝きさらぎを落ちにけり   佐藤榮市
   寒夕焼すれちがってゆく昇降機    小湊こぎく
   待たされてゐる手にコートの釦穴   吉田香津代 
   風韻の炭あるところ母のあり      早瀬恵子
   枯蓮勧進帳に加えおく          羽村美和子
   人ぞ知る海ぞ知る地ぞ核の冬     大井恒行  



2017年1月25日水曜日

倉阪鬼一郎「猫に告ぐ深夜の我を尾行せよ」(『猫俳句パラダイス』未収録)・・



「豈」同人の倉阪鬼一郎が、『怖い俳句』『元気が出る俳句』と同様の幻冬舎新書から第三弾として猫句アンソロジー『猫俳句パラダイス』を出した。猫俳句のオンパレードである。とはいえ、倉阪鬼一郎自身の猫句は載っていないので、あえて、いくつかを、以下に『猫パラ』未収録句として紹介しておきたい。

    影ついに猫のかたちとなりて闇      鬼一郎
    白猫を撫でて出勤収容所長
    黒猫の眼に映じたる黒猫や
    月天心点心ひとつ猫の首
    猫ついに虎となるなり秋の暮
    風信や「古城の猫は生きている」

倉阪鬼一郎が猫好きなのは知っていたが、、というのも「豈」の忘年句会などに出席するときなど、いつも黒猫のぬいぐるみを肩に乗せて現れていたからである。それもあたかも自身の分身ででもあるかのような一体感のある所作だった。
本書は第1章「子猫パラダイス」、第2章「猫のからだ」、第3章「さまざまな猫たち」、第5章「猫がいる暮らし」、第6章「猫がいる風景ーキャット・ミュージアム」の構成になっているが、どのページからも自由に読めて、楽しめるように工夫されている。興味を持たれた方は是非ご覧いただきたい。
本ブログでは、膨大な古今の猫の句を紹介できるわけもないので、以下には「豈」同人(元同人含む)の一句を挙げておきたい。


   猫の子のもう猫の目をしてをりぬ        仁平 勝
   猫族ノ猫目ノ銀ヲ懐胎(かいたい)      大井恒行
   四月馬鹿子猫の舌のうまそうな         鳴戸奈菜
        四国見えず猫の舌あかあか           山本敏倖
   房総やどの猫も顔が大きい           川名つぎお
   礼服のこれは猫の毛マイ・ハウス       池田澄子
   大きくて大味の梨 猫は嗅ぐのみ       島 一木
   朧なり白猫ふつと消ゆるなり          秦 夕美
   黒猫に生まれ満月感じたり           長岡裕一郎
   初雷の大通り行くペルシャ猫          妹尾 健
   いのうえの気配なくなり猫の恋         岡村知昭
   天竺の血をひく竈猫なれば           青山茂根
   忘れ雪となづけし猫が見あたらぬ       藤原月彦
   青春は猫いつぴきに暮れにけり        筑紫磐井
   サンタ或いはサタンの裔(すえ)、我は牡猫 高山れおな
   春夏秋冬かきわけかきわけ輝く猫       早瀬恵子 

倉阪鬼一郎(くらさか・きいちろう) 1960年、三重県生まれ。



   

2017年1月24日火曜日

攝津幸彦「かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や」(『鳥子』)・・・



 
 石神井書林のカタログ100号をみていたら、「鳥子 ぬ書房 序高柳重信 初帯 背角少擦 摂津幸彦 昭51 10800」と出ていた。
攝津幸彦の生前、神保町の文献書院に入って句集の書棚を一緒に見ながら、自身の古本に付けられた値段を、他の俳人の句集より、値が高かったりしたら、オレの方が勝った、とか、あの人には負けたとか言って、冷やかしていたことを想い出す(弘栄堂で出した『陸々集』の売れ残りの在庫をどうしましょうか、贈りましょうかと相談したら、処分してくれ、その方が値段が上がるやろ~、とも言っていたなぁ)。あるいはまた、あるとき、愚生が書泉グランデでの抗議集会に参加している最中に、通りかかった攝津幸彦に会ったこともある。もう30年前くらいのことだ。文献書院は、現在も営業していて、店は娘さんが主になって漫画の同人誌やアニメの原画などを扱い、けっこう繁盛しているらしく、句集は隅の方で幾段かの棚に収まっている程度になってしまった。とはいえ、大塚の自宅兼倉庫には、いまだに多くの俳句関連書を蔵していて、主人の山田昌男は高齢ながら健在である(愚生はいまだにお世話になっている)。
詳しい内容は失念してしまったが、小西昭夫らがやっていた「花綵列島」で摂津幸彦特集をしたときに、たしか「『鳥子』で翔んだ」と題して愚生もつたない攝津論をかいたような気がする。
『鳥子』序の高柳重信は、以下のように結んでいる。

 だから、摂津幸彦の俳句は、俳句形式を簡便な計量カップのごとく使用しながら、早々と自信にみちて絶えず何かを掬いあげるというような、安易なものではない。むしろ、彼自身は、いつも不安げに躊躇しているが、ときおり、俳句形式の方が進んで姿を現わしたとでも言うべきものが、もっとも典型的な摂津幸彦の俳句であろう。摂津幸彦の俳句の幾つかが、それを実際に見るのは初めてであるにもかかわらず、奇妙に懐かしい感じをもたらすのは、そのためであった。 
 したがって、摂津幸彦の俳句は、或る意味で非常に俳句的である。それにしても、このうような作品に現実的に出会うまでは、これほど俳句的な俳句が、こんな非俳句的な環境と思われたところに存在し得るなどとは、よもや誰も想像しなかったにちがいない。
 しかし、本当にすぐれた俳人は、ただ一人の例外もなく、そのときどきの俳句形式にとって予想もしないところから、まさに新しく俳句を発見することによって、いつも突然に登場して来たのである。





同集よりいくつか句を挙げよう。

  亡母まだまひるの葱を刻むなり      幸彦
  ふりし旗ふりし祖国に脱毛す
  みづいろやつひに立たざる夢の肉
  南浦和のダリアを仮りのあはれとす
  幾千代も散るは美し明日は三越
  南国に死して御恩のみなみかぜ




2017年1月22日日曜日

江里昭彦「ひとり飯済み英霊の写真あり」(「ジャム・セッション」第10号)・・




「ジャム・セッション」第10号(2016年12月28日発行・非売品)は、江里昭彦の個人誌である。従って、小冊子ながら、誌面は隅から隅まで江里昭彦の姿勢、思考に貫かれている。「あとがき」には、

 ●「現代化学」という老舗の専門誌がある〔版元は東京化学同人〕。今年の11月号に、相棒の手記「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」が掲載された。(中略)
 学術語はそれほど出てこないし、理解しやすい文章なので、一読をお薦めしたい。

とあった。また、今号でもっとも興味深く読んだのは江里昭彦「大阪府警機動隊員の『土人』発言について(前)」である。あるいは、また「沖縄新報」を購読することになった経緯を「あとがき」に書いているのだが、その紙面から読み取れる沖縄の現状を分析する視点には多く教えられた。
その結びには以下のように記されてある。
  
 ●基地問題で安倍政権と正面から対決する沖縄が、ゆきづまり、うろたえ、疲弊していると見るのは、とんでもない誤りだ。
 人口増加と、好調な経済と、海外移民とのネットワークに支えられた活気と強気とが、現在の沖縄を特徴づけている。

ともあれ、以下に今号の俳句作品を挙げておこう。

    大虚(おおぞら)のヤマト運輸はずぶ濡れで        後藤貴子
    大西日 千二百秒母と会い                  中川智正
    神無月 腐乱はげしき神もいて                江里昭彦



2017年1月21日土曜日

田島健一「無限に無垢につづく足し算秋澄む日」(『ただならぬぽ』)・・



田島健一第一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)。集名は以下の句に因んでいよう。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ       健一

序は石寒太、加藤楸邨の系譜に連なる新派とみて、明瞭に、次のように記されている。

  無意味之真実感合探求
  新感覚非日常派真骨頂
                       石 寒太

現在、句、批評ともに期待されている気鋭の人である。批評意識の先鋭な分だけ、句はいっそう困難な道行を歩まざるを得ない予感がする。それでも、それを手放したら、序にある「新感覚非日常派真骨頂」が泣くことになる。従ってこの困難な道を引き受けるしかないだろう。そして、それは愚生などの手が届かいないところだが、それを田島健一は、確実に引き受けて進むだろう。
ともあれ、以下にいくつかの句を紹介しておこう。

  音楽噴水いま偶然のこどもたち
  戦争をしたがるド派手なサマーセーターだわ
  いちご憲法いちごの幸せな国民
  死も選べるだがトランプを切る裸
  さくら葉桜ネーデルランドのあかるい汽車
  紙で創る世界海月の王も紙
  噴水の奥見つめ奥だらけになる
  次のバスには次のひとびと十一月
  なにもない雪のみなみへつれてゆく
  何か言うまであるようでない冬日

「あとがき」にいう。

 俳句が俳句であることは難しい。
 それは自分が自分であることの難しさと似ている

田島健一、1973年、東京生まれ。


2017年1月20日金曜日

地畑朝子「武器捨てぬ人間愚か秋の雷」(『まつすぐに』)・・



地畑朝子『まつすぐに』(ウエップ)の集名は、以下の句からもものだろう。

   まっすぐに控え目に生き更衣     朝子

序文の酒井弘司は他にもある二句、

  まっすぐが好き冬欅並木ふりむかず
  まっすぐに今日のわたしへ日傘さす

を挙げている。「七十歳に手が届く頃から俳句を始め」(「あとがき」)たという著者だが、なかに興味をひかれたのは、前登志夫を悼み、偲ぶ句が三句もあったことである。

     歌人・前登志夫を悼む
  大和讃歌五月の空へ木霊せり
  前登志夫逝き五年の朝櫻
  朝ざくら登志夫の声す空耳か

前登志夫は、自らの歌を、たしか「魂の反響としての詩」と述べた歌人ではなかったか。その真摯な魂をこの著者はみているのだろう。
ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。

  手庇の離るる風の夏に入る
  梅雨の蝶吾もきらめく雨のあと
  大樹いま囀りとなり応えけり
  ごつごつの柚子君考えすぎたのか
  すこし老いすこしかたくな茄子を焼く
  


  

2017年1月19日木曜日

谷川晃一展「森の町・朝の光」(ギャルリー東京ユマニテ)・・・


                                             「牡牛と歌手」2013 の案内ハガキ↑

先に神奈川県立近代美術館 葉山で開催されていた谷川晃一・宮迫千鶴展「陽光礼賛」には、事情ゆるさず行けなかった。わが家からは、一日日帰り旅になるので現状では、一日中家を空けることが難しいのだ。それゆえ今回の東京での個展には、案内状(ギャルリー東京ユマニテの展示2016年~2017年1月21日)を頂いた時から、是非とも行かなけれなならないとおもっていたが、これも明後日21日が最終日である。
ともかく、今日は渋谷の漢方内科・渋谷診療所に一ヶ月分の煎じ薬をもらいに行かなければならない日なので(愚生や愚妻の煎じ薬を調合してもらうのに一時間半くらいはかかる)、その待ち時間をぬって会場の京橋まで取って返したのである(銀座線で乗れば20分くらいだった)。
実は、「豈」のデカルコマニーの表紙絵・風倉匠と谷川晃一氏は友人だったという。
それを知ったのは、谷川晃一氏が俳句の小冊子を出されたときに「豈」を贈り、その返信に、「豈」の表紙絵の風倉匠は、懐かしい友人だったとしるされていたからだ。
その風倉匠が亡くなってからはや9年が経とうとしている。愚生はよく知らないが、1960年代の前衛美術家たちネオ・ダダの活動盛んな時代、赤瀬川原平などともに、同時代の仲間だったのではなかろうか。
谷川晃一、1938年、東京生まれ。



                      ユズリハ↑

2017年1月16日月曜日

荒井芳子「酸葉噛む戦後の空も今の空」(『柚の蕾』)・・・




荒井芳子句集『柚の蕾』(文學の森)、集名はかの古沢太穂に評されたという、

  ふくらみてふくらみきりて柚の蕾       芳子

からの命名である。「道標」、「新俳句人連盟」ひとすじらしいから、社会詠に真骨頂があろうかと想像したが、自然詠も率直でいい。それは、

 諸角先生は常々「対象をよく見る」「把握した対象を身体に浸透させてから表白する」「感じる」そして必ず「勉強しなさい」とおっしゃいます。高齢となり少しづつ薄れ行く感性に、きつい坂を登る苦しさを覚えますが、希望を失わず進みたいと思っています(「あとがき」)

と書かれていることが、日々修されているからだろう。そして諸角せつ子の序句は、

   米寿いま柚子の実あまた芳しく      せつ子

ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  ひらがなで「へいわ」と書く子流灯会       芳子
  藁塚(にお)棚田このこの島かくれきりしたん
  非武装地帯板門店に萩こぼれ
  七日数えて大屋根の雪痩せにけり
  父親に抱かれて遺影卒業す
  瘤抱いて天空に枯れプラタナス
  冬天へ赤芽ふやしてブルーベリー

荒井芳子、1928年、栃木県生まれ。



2017年1月13日金曜日

柏田浪雅「鉈彫も木屑も佛雪ばんば」(『螢火の塔』)・・・



柏田浪雅句集『螢火の塔』(角川書店)。著者は「老いの遊み」であった俳句が近年、自己構築の様相を呈してきたと、「あとがき」に次のように記している。

  事は三年前の「岳」入会をもって始まります。俳句を始めたあとは、「冬浪」「古志」「ランブル」と結社を変わり、自身の弱みの克服を目指して参りました。その時々の主宰を始め会員の方々には大変お世話になり、心豊かな日々を過ごさせて頂きました。この場を借り感謝申し上げます。

と、気配りの人らしい。それは集中の、

  踏鞴踏(たたらふ)むこと多き性海鼠噛む      浪雅

の句に触れた序文の宮坂静生がその人となりを以下のように記していることからも伺える。
  
  柏田浪雅の体型は見るからに堂々としている。風貌にも眼力がある。その大きさ、鋭さが俳句に現れる。まず作品がちまちましていない。小手先の捻りがない。真正面から持てる力をぶつけるように作品を掬い挙げる。そして、大らかなモラリストとしての人間的な安心感を接する人に与える。

そうだと思う。愚生も年に一度だが、現代俳句協会年度作品賞の選考委員会で会う顕彰部長としての柏田浪雅の姿が髣髴としてくる。
以下に句をいくつか挙げておこう。

   寒林のどこかを掃いてゐるらしく
   雷を食うて大魚となりにけり
   ひやひやと夕日のなかへ柩押す
   父来るやこの世かの世と木の葉降り
   逝く父に子の画きたる秋の馬

柏田浪雅、昭和17年、宮崎県生まれ。





「岳」つながりで、序文を書かれた宮坂静生の句集『噴井』(花神社)から、以下にいくつか句を紹介しておきたい。
今回通読して強く思っことは、句集『噴井』には社会的メッセージの込められた句が実に多くあった、ということだった。それは現在只今の社会的な状況、世界の在り様を反映してのものだ。それはまた、有季定型翼賛型の句への叛乱でもあろう(地貌がそれを支えている)。
その宮坂静生は昭和12年、長野県生まれ。

      鷹柱あれば草柱も
   草の絮舞ひ立つこれぞ草柱
   干し幻魚(げんげ)とは面妖な冬の貌
   冬の象に揺られ三橋敏雄かな
   泣いた戦後運動靴のない九月
      宮崎進展(神奈川県立近代美術館葉山)
   捕虜収容所(ラーゲリ)の夏黒パンは死の軽さ
   斑猫や人類遠くまで来過ぎ
   怒りゐて鶴凍鶴になりきれず




2017年1月12日木曜日

遠山陽子「いつか来るその日のやうな秋夕焼」(「弦」39号)・・・




明けましておめでとうございます。
年賀に替えて「玄」39号をお届けいたします。

と扉にある。「弦」は遠山陽子の個人誌。三橋敏雄の評伝を書き発表するために発行し続けられた。『評伝 三橋敏雄』が刊行されたのちも発行し続けられている。今号にも「三橋敏雄を読む(2)」で三橋敏雄『眞神』の作品が取り上げられている。それには、

 しかし『眞神』は敏雄自身が満足していなかった全句集以後八年間をかけて、主題と手法の見事な転換を見せた句集である。ここにおいて三橋敏雄が三橋敏雄として初めて確立した句集であると私は見ている。

と結ばれている。前句集とは『まぼろしの鱶』である。

  撫でて在る目の玉久し大旦     三橋敏雄『眞神』より
  鈴に入る玉こそよけれ春の暮
  たましひのまはりの山の蒼さかな





他には、遠山陽子、中村裕、佐藤文香で「悟空句会」というのをやっているらしい。命名は三名が申年生まれだからという。句会から一人一句を以下に挙げておこう。

   背高きまま老いたれば花の見ゆ     陽子
   全館空調冬のシベリア鳥瞰図       裕
   イヤフォンの土まで垂れて葛飾区    文香 




2017年1月10日火曜日

攝津幸彦「南国に死して御恩のみなみかぜ」(『俳句に憑かれた人たち』より)・・



松林尚志『俳句に憑かれた人たち』(沖積舎)は、現代俳人を大正一桁世代(林翔・阿部青鞋~津田清子・高島茂)、大正二桁世代(成田千空・楠本憲吉~金子皆子・鈴木石夫)、昭和一桁世代(飴山實・穴井太~折笠美秋・友岡子郷)、昭和二桁世代(宇多喜代子・安井浩司~西川徹郎・攝津幸彦)、に分けて47名が論じられている。また、付録として6名の俳人(富澤赤黄男、瀧春一など)と「『縄』『海程』『ユニコーン』前衛の虚と実と』」を、「ユニコーン」(昭和43年5月創刊~45年4号で終刊)の同人の一人であった松林尚志ならではの子細な分析が読みどころだ。
ブログタイトルに攝津幸彦の句をあげたが、本著の最後に収載されている俳人としては主要な3句を挙げての出色の攝津幸彦論である。何よりも1930年生まれ、昭和一桁世代である松林尚志による精緻、かつ説得力ある論であることが嬉しい(若い世代にも批評の眼がよく行き届いている)。この「南国」の句を含む「皇国前衛歌」の10句について以下のように記している。

 千代に続いた皇国のために散る美しさを歌う一方、ワルツに興じ、今日は帝劇、明日は三越というような銃後を示す。そのような時代をなつかしく再現すればするほど諷刺は痛烈さを増す。幸彦は決して告発し、批判するわけではない。一所懸命に生きた人たちと時代を再現するだけである。そのことが自ずから国家や人間への問いかけとなっている。

また、他の個所では、安井浩司との関連において、攝津幸彦の「『すでに、彼は言葉で俳句を書くのではなく、俳句で言葉を書いているのかも知れない』」という浩司論も鋭い」と述べた後に、

  考えてみれば、浩司は決して言葉を弄ぶのではなく、言葉に君臨する司宰者の趣さえある。幸彦は浩司との違いを意識したからこそ、真剣に浩司に迫ろうとしたのだと思う。幸彦は浩司に寄り添うような作品をいくつか残しているので、二つだけ挙げておきたい。
   厠から天地創造ひくく見ゆ        浩司
   永遠にさそはれてゐる外厠       『陸々集』
   法華寺の空とぶ蛇の眇(まなこ)かな  浩司
   法華寺の厠正しき暑さかな       『四五一句』
 幸彦が浩司を学ぼうとしたことが、この浩司語彙の摂取だけからも窺えよう。

句集、詩集、さらに数多くの評論集を出している松林尚志の筆には、愚生はいつも教えられることが多い。そして、それらの論への信頼をあつくするのだ。「あとがき」にも偽りがない。

  最近の俳句界は裾野が広がり、余技としてひねる程度でも仲間入りできるレベルの盛況ぶりで、結構なことであるが、一句にできるだけ思いを込めようと骨身を削った人がいたことも知ってほしいと思う。私は文学としての詩を志した人を多く取り上げたつもりである。

松林尚志(まつばやし・しょうし)、1930年長野県生まれ。


                    ミツマタ↑

2017年1月3日火曜日

大本義幸「輪はふしぎなにもないけどのぞきみる」(年賀状より)・・




                 府中・大國魂神社↑

どんな苦境のときにも大本義幸は意気軒高に思える。大本義幸は攝津幸彦の盟友だった。彼の記憶は、いつも伝説化されてイメージされているのだろう。その記憶を正しく回顧して、仁平勝は「豈」59号に特別寄稿「大本義幸を肴にした極私的回顧談」を書いてくれた。
その大本義幸の句集『硝子器に春の影みち』(沖積舎)刊行の2008年の時点で、大本義幸の年譜には、

2003(平成15)年、4月胃癌手術のため吹田済生会病院に入院、胃の五分の三を切除。
 04(平成16)年、4月、咽頭がんのため下咽頭を全摘出、小腸を移植。肉声のすべてを失う。
 05(平成17)年、7月、食道がんのため内視鏡にて切削。
 07(平成19)年、舌癌手術のため京都、竹田医院に入院。

などとあってすでに四度。その後、大腸、肺がんなどを患ったようにおもったが、愚生にはいつものことながらおぼろで正確な記憶はない。ただ今回の賀状欄外に「ガン、NO.7になりました」と記されてあったので、えッ7度目のガン?と思い、読みかえした。
そして、以下のような記述に接したのだった。

 (前略)このひとに、腹に五本の点滴を差し込む、肺癌の抗癌剤投与をみせていただいた。読んでくれ、白内障でみえないのだと○○○○さんはよく言った。これが加齢黄班変性症発見の原点なのだ。これからわたしには三〇回の抗癌剤投与が待っているのだが。
                                         2017.1.1 

励ましも何も言えない。ただ、今回もまた大本義幸はこの事態を乗り切るはずだ、と信じている。
攝津幸彦夫人・資子の賀状には毎年、攝津幸彦の句が掲げられている。
今年は、

    天心に鶴折る時の響きあり           幸彦

だった。今年、攝津幸彦は没後21年、生誕70年、存命であれば古稀を迎える。



                 大國魂神社のウメ↑

2017年1月1日日曜日

大井恒行「夜明けには遠き鶏鳴 海や山」・・・






新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
人にはひとしなみに山も谷もおとずれるように出来ているようです。
ならば定型を自在にして、少しでも心の不自由にならないように過ごし、臨機応変になりたいと思うのみです。
すべての皆さんのご健勝とご多幸を祈念いたします。