2015年7月31日金曜日

高柳蕗子著『短歌の酵母』・・・



愚生は、短歌の門外漢である。それでも、たまに短歌を読んだり、短歌の雑誌を読んだりもする。
そのおり、短歌を覗き見る窓を幾人かの歌人をその窓に勝手にしている。例えば、「豈」同人の藤原龍一郎、また、福島泰樹、伊藤一彦、永田和宏などだったりするが、なかでも、高柳蕗子の短歌は、とびきり変わっていたし、その歌の才を感じたりしていた。もちろん高柳蕗子は高柳重信の娘であり、愚生が最初に俳句評論の発行所で会ったときは、高校生の頃であったかもしれない、という親近感も影響しているかもしれない。
すでに彼女には『高柳蕗子全歌集』(沖積舎)はおろか、評論集も数冊がある。さらに、このたびの『短歌の酵母』(沖積舎)は、現代の短歌をよく炙りだしてくれていて、なるほどそうかも知れないと思わせてくれる。
帯には「人間は言葉を醸す生物だ」「新しい歌論」とあり、おお、そうに違いないと思うのだった。その「まえがき」に以下のように記している。

 短歌は巨大で長大な「生命みたいなもの」と言える面がある。そして、その「生命みたいなもの」は、短歌に関わる人々に散らばって存在している。人間から見れば、人間の意識に偏在し、人という酵母菌たちに短歌を詠ませているのだ。つまり人と短歌は共生している。
 「短歌」という詩型は、人間とともに生きている。人が変化する限り、いっしょに変し続ける。

その興味のありどころとして、目次を紹介しておくので、すこし想像してみて下さい。

引用歌の解釈について

 1 みんなで育てるぐっちょんベイベー!潰れトマトの百年
 2 題材の後略
   〈時間〉の背後霊
 3 短歌の身体
   身をくねらせる短歌さん
 4 歌人は酵母菌
   醸すカモシカかもしれない


以上の歌論のなかの具体例としての短歌を、自ら作り上げたデータベース約6万2000首から選び出して具体的に論じているのだ。例えば「〈時間〉の背後霊」では天武天皇の歌から「絶え間なく降る〈時間〉」として・・・・。




2015年7月29日水曜日

山地春眠子『月光の象番ー飯島晴子の世界』・・・



『月光の象番』角川学芸出版は、宇多喜代子が帯文に記したように、「飯島晴子論でありながら、その域を超えた俳句論の展開の一書」というに相応しい。それは山地春眠子の俳句の評価の基準をつねに明らかにしながら、飯島晴子の俳句作品の評価が問われ続けているからでもある。そのことは「はじめに」で著者自身が以下のようにそのありどころを披歴していることからもうかがわれる。

 子規・虚子以後の、いわゆる伝統派の俳句は、基本的に、意味を伝達するように言語の機能を使うことで成立してきた。
 だが、言語は、必ずしも意味を伝達せずとも、それ自体が外界から独立したイメージを形成することがあり得る。それを一般には「詩」という。
 俳句に於て、意識的に、後者の「詩」が成り立つことを証明しようとしたのが、新興俳句・前衛俳句などの、いわゆる非伝統派の基本的発想であった、と私は思う。例えば

   頭の中で白い夏野となつていゐる       高屋窓秋
   蝶墜ちて大音響の結氷期           富沢赤黄男

がある。
 この二つの基本路線の差を、イデオロギーではなく言語論として、まず、認識しておいていただきたい。
 飯島晴子は、この二つの路線の差を十分に意識しつつ、どちらか一方のみを是とすることなく、自分自身の「句」をどういう言語によって書き付けるかを、生涯問い続けた作家であった。
 本書は、晴子の「問い続け」の軌跡を追うものである。
   
本著は、「鷹」に三年以上連載されたものが中心となっているが、その「鷹」での原稿の量は、誌面の都合もあって本著の三分の一につづめてあるというから、読者は、是非、本著を手にして読まれるにしくはない。飯島晴子の句作について、より具体的にその理解を深めることができると思う。「鷹」のすべての号の晴子掲載句と、句集との異同を記し、かつ巻末には、そのことごとくの句の索引、また各章の末には引用の注も記されている。今後にもし飯島晴子論を書こうとする者にとっては、逃すことのできない一書となることは疑い得ない。山地春眠子の晴子個別の句の評価にも触れたいが、直接あたっていただくのがいい。


                     飯島晴子原稿↑

横道にそれるが、本書「Ⅶ老いと向き合うー『儚々』」の章と時期は重なっていると思うが、平成2年の頃(翌年に飯島晴子は脳動脈瘤のクリッピング手術をしている)、愚生が編集人を務めた「俳句空間」第15号「平成百人一句鑑賞」ための企画に送稿していただいた飯島晴子の自信作5句は以下の句だった(写真上↑)。実際に鑑賞された句は晴子「初夢のなかをどんなに走つたやら」で、執筆者は妹尾健であった。
参考までにあげておこうと思う。

    寒晴やあはれ舞妓の背の高き          句集『寒晴』
    漲りて一塵を待つ冬泉                 〃
    男らの汚れるまへの祭足袋              〃
    初夢のなかをどんなに走つたやら        「俳句」平成二年一月号
    今度こそ筒鳥を聞きとめし貌           「俳句」 〃   七月号



                 フヨウ↑

2015年7月28日火曜日

工藤進「反逆の魂(たま)あるものは浮いてこい」(『ロザリオ祭』)・・・



工藤進句集『ロザリオ祭』(文學の森)。
跋は角川春樹。「マイセンに薔薇茶のひらくロザリオ祭」の句を挙げて、マイセンは「名実ともに西洋白磁の頂点に君臨する名窯である。工藤進の『ロザリオ祭』は、マイセンの紅茶茶碗に薔薇茶をひらかせた、という措辞が絶妙。まさに俳諧のモダニズムを開花させた、スタイリッシュな作品」と述べる。
工藤進の略歴を見ると句歴はさほど長くはないが、何もない愚生のようにではなく、受賞歴はかなり華々しい。それだけ、所属してきた結社では実力、期待度があったということにちがいない。現在は月間俳誌「くぢら」(主宰・中尾公彦)の編集長である。
いまでも、いわゆる俳壇では、草間時彦「甚平や一誌持たねば仰がれず」のご時世らしい。それゆえ、これから新しく俳壇にその位置を定めようとして立派な俳誌が鎬をけずっているようにも見受けられる。
周回遅れのランナーのような愚生には吐息がでるばかりだ。
ともあれ、いくつか句を挙げておきたい。

   蒼天に涸れぬ水脈あり鳥渡る         進
   千枚の田に千段の稲架襖
   閏月まだ見ぬ蒼き夜が来る
   キャンパスにさへづりの窓開きけり
   遺著となる書に風入るる日となれり
   春待つ日紅茶に薔薇のジャム溶かす
   楼蘭の空渡りくる涅槃西風
   天地のこゑが火となる原爆忌
   核灼けていまだ終はらぬ戦後かな
   天の奥天を鏡に朴の花






                オシロイバナ↑

2015年7月27日月曜日

佐藤鬼房「鳥帰る無辺の光追いながら」・・・


               鬼房「鳥帰る無辺の光追ひながら」↑

                 
少し前のことになるが、記しておこう。
関口芭蕉庵の庵主だった大場鬼奴多のことだ。
いつ頃だったか、庵主から「野菜倶楽部 Oto no ha Cafe」のマネージャ―(大場治巳)に転じたと聞いていたので、その店に必ず行くと言っていたのが、約束を果たせずにいたところ、偶然とでもいおうか、講談社野間記念美術館に「近代日本の洋画展」を観て、傍にあるこじゃれた茶店に入ろうと思った所が、そのカフェだった、というわけで、渡に舟の約束を果たしたのである。
聞けば、隣の野間記念館にも三年ばかり勤務していたらしい。
野菜倶楽部というだけあって、その日も御婦人方で賑わっていて、席が空いておらず少し待ったのだった。
カフェの一隅には、鬼奴多の趣味のコーナーと思われる書棚があって、さすがに句集は
お客さんの眼をはばかってか置いてなかったが、歳時記風の花の図鑑などは並んでいた。もちろん野間記念美術館と経営母体を同じくするらしいから、講談社発行の美術本はいくつもあった。
なかでは、大事に棚一段をとって額装された色紙が置かれていた。
大場鬼奴多は佐藤鬼房の弟子(「小熊座」同人)だったので鬼房の句の額だった(上掲写真)。
大場鬼奴多と最初に会ったのは、関口芭蕉庵で行われていた眞鍋呉夫の連句の会に浅沼璞に誘われて行った折だった、と思う。
もちろん、眞鍋呉夫がまだ句集『雪女』(冥草舎)を上梓する前のことである。
20年ほど前のことだろうか。

   セロ弾きは反骨のひと蒼鷹(もろがへり)       鬼奴多



                       ホタルブクロ↑

2015年7月26日日曜日

堺谷真人「全世界はや昏れてゐし昼寝覚め」(「豈」東京句会)・・・



昨日は猛暑。はやばやと暑さに少しぐったり。隔月ながら、恒例の白金台いきいきプラザに於いて、第125回「豈」東京句会が行われた。高点句をさらい、好調だったのは堺谷真人と羽村美和子だった。愚生はいつもの通り低佪しているのみ。
各人一句を挙げる。

    水切つて風生まれけり夏料理               堺谷真人
    仰向けの蟬蟬しぐれ聞いている              羽村美和子
    夕焼は太平洋の帰り道                   小湊こぎく
    風束ね手筒花火のおんな振り                早瀬恵子
    やるせなくかたつむり来て水滴              佐藤榮市
    流星やとりもどせない0のなか               岩波光大
    老人が手綱弛める大青野                 福田葉子
    日雷あばらにささり青の中                 大井恒行



                  サンゴジュ↑

2015年7月25日土曜日

「豈」創刊35周年(今月のハイライト「俳句四季」)・・・



「今月のハイライト」(俳句四季8月号)に発行人・筑紫磐井は以下のように記している

1980年6月、攝津幸彦ら十六人の同人によって「豈」は創刊された。それ以前、攝津は、関西で「あばんせ」「日時計」「黄金海岸」という雑誌に参加していたが、離合集散の末、攝津を編集発行人として創刊された。ただ攝津の性格もあり忘れたころ刊行されるという状況が続いた。一時は三年に一度しか出ないあり様であった。こうした体制の見直しは専門の編集スタッフを置くことから始まり、名古屋の中烏健二、その後東京の筑紫磐井が編集人tなり定期刊行に向けて努めた。順調な刊行がしばらく続いたのだが、そうした折、中心人物である攝津が1996年肝炎で急逝してしまった。「豈」の続刊の方針を決め、大井恒行、その後筑紫が発行人に、筑紫、高山れおな、そして大井が編集人という体制でめまぐるしく代わり、今日に至っている。

以下、「俳句四季」掲載句より・・

    阿部定に時雨花やぐ昭和かな                筑紫磐井
    わが句あり秋の素足に似てはづかし            池田澄子
    ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ・列島されど愛国      大井恒行
    たんぽぽが死にたいと云う夕暮れだ            大本義幸
    落花生投げつけられる司会かな               岡村知昭
    石抛る石は吾なり天の川                   恩田侑布子
    体内模型のビル街吹きさらし                 川名つぎお
    初景色廃墟廃屋廃炉塵                    北川美美
    唐門前修羅お脇ゆくごんぎつね              救仁郷由美子
    打水のそこより竜の背骨かな                五島髙資
    羊が大きな夕焼のモロッコ                  小湊こぎく
    寸鐵も帯びず真夏の花ならば                小山森生
    唐橋の雨あがりけり夏燕                   堺谷真人
    
    いまいちど
    なんぢやもんぢやの
    奇をめぐる               酒巻英一郎

   蜥蜴の尾濡れた真昼が残される               杉本青三郎
   「母さん」と我を呼ぶなり蛇の衣                関 悦史
   古すだれ荷風の女ゐるやうな                 妹尾 健
   実南天みちかけみるみるゆうらしあ             高橋比呂子
   ざの ざこ の ぶんがく なのだ それで いい のだ  高山れおな
   あの世とは爽籟のなか鳥が鳴く                秦 夕美
   十六夜の影歩き出す宇治拾遺                 羽村美和子
   肉球に踏まれし領土の踏青や                 早瀬恵子
   空爆の昔や今や柘榴喰ぶ                   福田葉子
   大寒や明菜のこゑを耳の底                  藤原龍一郎
   ものおもうネコとならぼう秋の暮                堀本 吟
   しおり紐はさみ夜長をとじにけり                亘 余世夫
  


                                 モミジアオイ↑
                               
    

2015年7月24日金曜日

大石香代子「稲の花神も遺骨も柱なり」(『鳥風』)・・・



『鳥風』(ふらんす堂)は『雑華』(牧羊社)、『磊落』(ふらんす堂)に続く大石香代子の第三句集。平成14年から25年秋までの句から396句選んだという。
印象では後半の句のほうが良い。それを小川軽舟は帯文に「春惜しむ店の机にもの書いて」の句を引いたのちに、以下のように記している。

 香代子さんの句はどれもなつかしく、ほのかに寂しい。いつか失う予感を孕んでいるからだろう。だから一層なつかしい。家業の和菓子屋の机から顔を上げた香代子さんの行く道は、この句集から始まっている。

この始まった道の行く方にどのような句境がさらに開けるのか、楽しみではある。
愚生の献句とさらに好みの句をいくつか挙げておこう。

  大石に鳥風かおる代もあらね     恒行

  きはやかに夢見てよりの春の風邪   香代子
  蝸牛山巓の気と雲とあふ
  鳥雲に入ると帽子の中也かな
  春浅し水辺の鳥と樹の鳥と
  うすらひに塵泥(ちりひぢ)のあるさみしさよ
  地の鳩の何にせはしき花の昼
  蝶生まる文字はことばの影ならむ
  雪加鳴く割れてするどき石の稜(かど)
  九段坂下冬青空を鳥礫



  

2015年7月23日木曜日

谷佳紀「きれいなあなた腹の底から雪を話す」(「碧」第8集)・・・



「碧」8は海程神奈川合同句集2015(発行人・木村和彦)である。隔年の発行という。「海程」の地方支部はなかなか活発に俳句活動をしているのだろう。たしか北陸には「狼」という活きの良い雑誌も出されているように思う。
また、「海程」本誌7月号には、「海程」の同人でもない「豈」の筑紫磐井著『戦後俳句の探究』をめぐって「新詩学の可能性」と題して、岡崎万寿・田中亜美・柳生正名・安西篤の座談会が特集されている。次号8月号にも掲載されるらしい。もっとも金子兜太にほぼ焦点は合わされているのだが、筑紫磐井の論にも忌憚なく問題点が指摘されているので、有意義な内容となっている。

ここでは「碧」の中から、興味の動いた作家の幾人かの作を以下に挙げておきたい。

  きつつきの緑陰「終わりのない対話」      大江恒子
  ねむりては孔雀の刻(とき)をガラスペン     九堂夜想
  平然と海から上がる春の月            木村和彦
  天皇皇后月の国旗や偲ばれぬ         小松京華
  もう老人なんだからと梅雨の弱い雨      谷 佳紀
  ノミシラミ悉皆成仏朧月              佃 悦夫
  パチッと叩いてごめん蚊だか何だか      成田輝子
  日はこんなにも蓬ありけり            平田 薫
  留守の家「蜂います」の札吊しおく       三木冬子
  猫すーっと月下美人のうしろにいる      森田緑郎
  癌よ/Butterflyとして/冰らんか       游 火
   
余談になるが、かつて「碧の会」という、今は亡き多賀芳子の自宅(澁谷)で行われてい句会があった。何度か「来なさいよ!」と命令調だったがお誘いを受け、そこで多くの先輩俳人にお会いした。谷佳紀もそのうちの一人だった。さらに森田緑郎、原万三寿、小泉飛鳥雄、渋川京子、田村みどりなど多くの俳人にお会いした。
有難い思い出だ。


2015年7月22日水曜日

松本邦吉「涼しさの星より星の生まれけん」(『しずかな人 春の海』)・・・



松本邦吉『しずかな人 春の海』(思潮社)。
もともとが詩人の松本邦吉だから、詩編の載っているのは違和感がない。ただ本著には句篇ともいうべき「春の海」も収められている。それも四季の配列をもって(しかも旧かな使い)。
帯には「二つの詩型の宇宙を自在に行き交い、新しい〈詩〉のありかを手探りする」とあったので、当面はその手探りを見続けていくしかない。
愚生は、俳句以外をよく知らないせいか、その俳句作品の語り得ない何かの部分を詩篇に見てしまうのだった。
それとあと一つ蛇足かもしれないが、二つの詩型は、韻文という同一ジャンルなのだと思ってみると、そこに差異を認めずに読むことができるのである。
なかでも最終篇の「手紙」には感銘した。最初の四行は魅力的かつ短律の俳句のようでもあった。

         手紙


   
    
     の                  光  の
           真空  の

    海

     きこえていない 音楽に(以下略)


句はいくつかを挙げておこう。

   マグニチュード9・0 木瓜まくれなゐ        邦吉
   ふくろふもふくろふの子も真白なり
   櫂あげて吹かるるままに花の下
   この色にはじまる世界唐辛子

そういえば、遠い昔、著書松本邦吉『星の巣』の発行所である書紀書林(1980年)は、確か、稲川方人、平出隆、荒川洋治などが出していた雑誌「書紀」があったのではなかったろうか(明白に覚えてはいないが)。
愚生の勤めていた吉祥寺駅ビルの書店の詩歌コーナーに置いたような気がする。




                                サルスベリ↑

矢野玲奈「をとこみな出払ひてをり打水す」(『森を離れて』)・・・



矢野玲奈句集『森を離れて』(角川書店)、序は有馬朗人。帯は星野高士。美しい装幀は夫君・松尾清隆。実に幸せな船出の第一句集の印象である。句も作者の等身大の良さがうかがえるような作品である。取り合わせなどという流行ものでない一物仕立ての句が多いのも良い。それを有馬朗人は「現代的知性と明るい抒情に満ちた、実に楽しい句が並んでいる」(序)という。そして有馬朗人の願う次なる新天地に向かう幸せはいかなる方向なのであろうか。
たぶん、日常にしっかり足を踏みおいて進まれるに違いない。

  矢の森を離れて玲としてならむ    恒行

いくつかの愚生好みの句を挙げよう。

  春の海渡るものみな映しをり     玲奈
  江ノ電の一駅分の時雨かな
  しめぢ飯炊きあがりたるふつうの日
  目印の鳥の巣いつも鳥をらず
  新蕎麦や客の着くたび席をつめ
  川の字の一画となる寝正月
  梅雨晴間一人遊びのトイピアノ
  笑つても泣いても息の白きかな




  

2015年7月20日月曜日

中村光影子「朝顔のからまる始終見えて病む」(『雲海』)・・・



中村光影子(なかむら・こうえいし)は1944年京都市生まれ、小学一年で山口県山口市へ移る。
1966年、大中祥生師と出合い弟子入りし雅号「光影子」を戴く。
1975年、赤尾兜子「渦」、同人誌「鷺」に参加。
2005年同人誌「ロマネ・コンティ」に参加。
2015年古希を機に『雲海』(私家版)出版。

などと、記された経緯をみて、いささか驚くとともに興味を抱いたのである。
というのも、山口県生の愚生が高校生の折に、毎日新聞・防長俳壇に投句したときの選者が誰あろう大中青塔子(祥生と改名)だった。
さらに、愚生は立命館の二部学生になって京都に住んだ折に、俳人を誰も知らなかったので、数回、大中青塔子にハガキに句をしたためて送ったことがある。
その折り返しのハガキに添削がほどこされていたこともあった。
愚生は1970年初頭には赤尾兜子「渦」に投句していた時期もある。また、「鷺」にはその編集発行人であった三浦健龍の計らいで高柳重信論を連載させてもらったことある(重信はまだ健在だった)。
三浦健龍は父を三浦秋葉といって飯田蛇笏・龍太「雲母」の同人だったと思う。
その三浦健龍は、いまどうしているのだろうか。
つまり、中村光影子は愚生のたどった俳歴の部分の多くに重なっているではないか。
ただ、愚生は以後、きちんと師をもつことなく、デラシネだったが、光影子は大中祥生を師と選んで現在も「草炎」同人として活躍されいるらしい。
本句集『雲海』には「草炎」現主宰の久行保徳が序を寄せ、解説を松原君代が寄せている。
いくつかの句を挙げてお礼にしたい。

    鰯雲溢れ盆地の葬始める          光影子
    今日だけの魔法使いよ春帽子
    父と子の花うらないや秋の果
    首太の義母見え隠れ菖蒲園
    薄氷やあの世との道開けてあり
    真っ直ぐに上げた子等の手夏来る
    蝉の穴覗くと別れより深き
    ポケットの穴から冬の星こぼれ
    バス停の先頭にいて冬日の出
    

終りに一言のみの苦言を.・・・本句集「冬の象 二十代」の章に、山口新聞・防長俳壇の青塔子選に入ったとあって「夜の潮目玉濡らさず泳ぐなり」の句が収められているが、先に鈴木六林男のあまりに有名な句「暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり」(昭和23年)があるのだから、しかもさすがに六林男の句の方に、軍配が上がる句なので、光影子の若き日の記念とはいえ、あえて掲載に及ばずともよかったのではないかと思う次第である。



    

2015年7月19日日曜日

金子兜太の揮毫「アベ政治を許さない」・・・


                  揮毫・金子兜太↑



               静岡総がかり「戦争をさせない・9条壊すな」集会↑

昨日18日(土)「アベ政治を許さないーを掲げましょう」の文字を全国各地の行動のために揮毫したのが金子兜太。静岡在住の高校時代の同窓生から、そのデモに参加したとメールが届いた。
約2000人が集まったそうだ。地元・浜岡原発が近いので当然ながら原発再稼働にも反対している。福島原発をはじめ原発に使われる費用は、東京オリンピックにかかる費用などとは比べものにならないほどの多額の維持費や廃炉のための費用がかかる。何よりも核のゴミの処理方法はないのだから、国策は当然脱原発社会をめざすべきなのである。
愚生も久しぶりに昔の知り合いから国会前に誘われたが、当日は勤務のため、参加を見送った。




ところで、数日前に届いた芦田麻衣子個人誌「風幡」第19号には、矢内原伊作の詩「挽歌海に死せる者のために」を引いたのちに、以下のように書かれていた。

  矢内原先生が詩によって、切々と訴えられた戦争の犠牲となった年若き勇士らの嘆き、私も矢内原先生と一緒に戦争反対・原発反対と叫びたい。

  核列島微かな震え残る虫             麻衣子  



     
                                       二重虹↑

2015年7月17日金曜日

松本恭子「残菊やはげしきものを賜(はらわた)に」・・・



掲句は松本恭子16年ぶりの句集『花陰』(あざみエージェント)からの句。同時刊行のエッセイ集『ちぎれそうなりんごの皮の夜祭り』(あざみエージェント)。装画・題字なども松本恭子。
「あとがき」には「荘厳浄土賜わりし父の御前に捧げ、心からの哀悼としたい」とあった。句集名は、

  一匹の蜥蜴花陰で泣くらしき            恭子

からの命名であろう。エッセイ集もまた「尊き父母(ふも)の御前」に捧げられている。挿入されているアルバムをみると、父母は病弱と思われる松本恭子をよく支援していたと思われる。松本恭子にとってもある区切りのときを迎えているのかも知れない。
句集より、いくつか句を・・・
  
  鬱に入る花弁をあかく重ねしも
  日雷鏡のなかの大柱
  蝶の木に持つてゆきたき涙あり
  一切を宥して冬のさるすべり
  かの時のみづい世界鳥死せり
  家中の留守をひびかせ蝉の声
  残菊やはげしきものを賜(はらわた)






  

  

2015年7月16日木曜日

川名大へ・証人が証言する・・・



「未定」第99号(未定発行所・2015年7月)に川名大「筑紫磐井の執筆モラルを糺す」が掲載されている。その中で、あまり、有難くないが、愚生との電話でのやりとりなどで、わざわざ「(以上証人大井氏)などと記されているので、頼みもしない証言台に勝手に引き出されてしまった(裁判でいえば証人尋問がある前に勝手に証言台に、本人の了承もなく立たされたようなもので、証言拒否の権利も行使できず)。
川名氏の都合による論理展開のなかで、部分的に引用されるので、少し補足をしておかなければ、川名氏本人にも失礼にあたると思い記すことにした(ほんとは、このような時間的な経緯のやり取りは不毛なので、本論においての実りある川名大×筑紫磐井論争にして、俳句にとって有益なものにしてもらいたい)。
川名氏が「私は二股をかけたわけではない」と述べられていることに対しては、「二股をかけられたわけではないと思う」。しかし、もし、それが事実であったとしても川名氏が「二股をかけて何が悪い!」と筑紫に言ってやれば済んでしまうことである。
先ず、同誌の愚生の部分の「イ」に「大井氏より掲載可能だが発行は大幅に遅れると言われ」は、もともと、「豈」は年2回の発行予定なので大幅に遅れる(世間からみると大幅に遅れているようにみえるかも知れないが)という言い方は愚生はしない。川名氏へは電話をもらった時に(日時はメモしていないので忘却)、「豈」への川名氏の筑紫反論を載せることについては即答で了解をしている(発行人筑紫の了解も得ず・・)。
後日、再度、川名氏から電話があり、「豈」はいつ頃出るのかと聞かれたので、「半年後くらいですかね」と答えたら「それでは、遅いので、他の載せてくれる雑誌を探してみる」と言われ、さらに愚生は、親切に「もし、どこにも掲載されないのであれば、少し時期が遅れますが、「豈」へはいつでもどうぞ・・」と申し上げたのである。さらに月日を経て、「豈」の編集人のとして、筑紫磐井の新著『戦後俳句の探求〈辞の詩学と詞の詩学〉』(ウエップ)が出版されるのに合わせて、用意していた特集はしないことになったので、川名氏にはすこし待っていただくことになるが、、反論の掲載は「豈」の次号送りになりますと伝えた際に、川名氏からは他の雑誌に掲載されることになったので(「ウエップ俳句意通信」の名は出されなかった)、と言われたのである。いずれにしても両人の俳句評論における評価の論争の埒外にあることなので、忘却されて、俳句の本論での実りある論争の展開にされた方が川名氏にも有益だろうと思うのである(これまでの立派な業績をお持ちなのだら・・)。
他人事ながら言い添えておけば「モラルを糺す」とされた川名反論には、わざわざ筑紫磐井の本名を記されているのは、じつに執筆モラルに反していることである。また、「中学生でも見抜ける論理のすり替え」などいう言い方も品性のよいものではなく、差別意識が根底にうかがわれてかえって川名氏にマイナスに働いているように思える。
ここからは愚生の推論だが、この度の「未定」に掲載された川名氏の論文も川名氏自身の方から「未定」に持ち込み、心優しい未定発行人・高原耕治が了承したものであろう。
また、先日、川名氏から「所蔵『色紙』の売却について」という案内(A4)を川名氏から頂き「左記の色紙の購入の方は川名大までお知らせください」(業界価格よりは安い価格になっています。価格は商談に応じます。)とあったので、宣伝をしておくと、揮毫された句はいちいち記す余裕はないが、富澤赤黄男(複製)、高柳重信、三橋敏雄(6枚)、志摩聡、大岡頌司、寺田澄史、坂戸淳夫、岩片仁次、阿部鬼九男のものである。値段は8000円~18000円。赤黄男の複製をのぞいて貴重な真筆であろう。もし、詳細、ご入り用希望の方は直接、川名大氏までお問い合わせ下さい。


                 オシロイバナ↑

2015年7月14日火曜日

大屋達治「酒近く鶴ゐる津軽明りかな」(自註現代俳句シリーズ『大屋達治集』)・・



大屋達治は昭和27年4月1日、芦屋市生まれ。「天為」初代編集長にして「豈」同人。
『大屋達治集』(自註現代俳句シリーズ・俳人協会)では、すべてに句の読みのためのルビと約60字ほどの自註がついていて手頃に著者の句の世界をうかがい知ることができる。例えば、掲出の句の自註は、以下のように記されている。

   酒近く鶴ゐる津軽明りかな              昭和四八年作

 つがる、から、つる、を引き出し、鶴のつく銘柄が多いことから、酒、を連想した。俳句を、言葉から造り上げるという、はじめての経験をした。

このとき、大屋達治は21歳である。本書では小学校6年生の時の句が巻頭に置かれている(ほぼ制作年順)。句は「せせらぎや蝶がとびこむ家の中」で親戚の磁器工場で皿に焼くと言われて書いた即吟の句だそうだ。早熟な少年である。この句の翌々日には長良川鵜飼に一族で連れられて行ったときの、子どもたちには手花火が用意されていたという。「くらい水すきとほらせる花火かな」。

愚生は、大屋達治とは「豈」同人として長い付き合いになるが個人的な事情には、まったく疎い。
次に揚げる句から「私の(房州)遍歴はこのころにはじまる」というほど、以後は、たしかに房州を訪ねた際の句が多い。「ときをりは海(うみ)をほとばしる寄居虫(ごうな)かな   昭和六一年作」。本書に収められているのは第五句集までの作品からの三百句である。つまり、著者の16年前までの作品である。その後の二千句ほどの句があるそうだが、いずれ第六句集として編まれるに違いない。
他のいくつかの句を挙げておこう。

    三鬼死すわが十歳の誕生日          平成四年作
    日はれどあふみはかすみ端午かな      平成七年作
    空蝉の冬なほ縋る浮御堂            平成七年作

この句には「現せ身」と「憂き身」が句の中に隠されているのだと、いう。

   白味噌の椀の洛中しぐれけり           平成八年作
   仲秋の巒気(らんき)のなかの遠野かな     平成八年作


                シモツケ↑
   
               

2015年7月12日日曜日

「天為」25周年300号記念祝賀会・・・


                有馬朗人主宰と実行委員長の対馬康子↑

昨夕は「天為」25周年300号祝賀会(於・帝国ホテル)だった。午後から有馬朗人主宰の記念講演「日本の詩・世界の詩」、そしてシンポジウム「天為のコンセンサス」川本皓嗣・横井理恵・西村我尼吾があったが、それらは失礼して、祝賀会のみに出かけた。久しぶりに「天為」初代編集長で、「豈」同人でもある大屋達治にも会うことができた。その大屋達治に『大屋達治集』(俳人協会・自註現代俳句シリーズ)をいただいた(べつの機会に紹介したい)。その見返しに署名された一句は、

    有住なる洞は迷宮水の秋          達治

祝賀会はごくコンパクトに、一時間半ほどで終わり(6時半)、用意された同ホテル4階の二次会(この方が長時間)に多くの方々が流れた。二次会では、片端から一言ずつ挨拶する機会を与えられたのだが、「豈」発行人・筑紫磐井は「『天為』は25周年だが、『豈』は今年35周年です。号数はわずかに57号ですが、・・」と切り出して感嘆ともつかぬ溜息と笑いを誘った。
ともあれ、かつて攝津幸彦存命中にわずかな期間「豈」同人だった福永法弘にも会った。他の「豈」同人では恩田侑布子に会った、。
ちなみに「天為」記念大会の天賞はその日、中国・延安から出席したという若いが流暢な日本語を話された董璐(とうろ)。その作は、

   柳芽吹く渭水に近き酒屋かな        董璐

当面「天為」は。「俳句」を世界無形遺産への登録を目指して、有馬朗人を先頭に活動するとのこと・・・。

因みに、愚生のテーブルには、右に上田日差子、左に浦川聡子と両手に花。高柳克弘、神野紗希が並んでまるで結婚式のようだと声が漏れた。他には、愚生が「俳句界」の折に選考委員にお願いした守屋明俊(たぶん、初めてお会いした)、さらに本井英、仙田洋子、松尾隆信の各氏だった。
そうそう、二次会では、愚生、20歳代のときの同人誌「未定」の創刊同人で一緒だった小林恭二とも澤好摩を巡って少し話が弾んだ。


                クワの実↑



2015年7月11日土曜日

北大路翼「首吊りの木に出る道や花の雨」(『天使の涎』)・・・




                                         最上段右側白シャツ・北大路翼↑

昨夜は、新宿風林会館斜前、Hで行われた「北大路翼君を羽ばたかせる夕べ」だった。会場は、にぎやかで熱気に包まれていた。幾人かの人たちに会った。例えば、久しぶりの佐藤明彦、山﨑百花、箭内忍に西原天気、佐藤文香、松本てふこ、そして「豈」の中村安伸、つい先日の愚生の講演に顔を見せてくれた北川美美、また、歌人の江田浩司、詩人の森川雅美、愚生が現俳協新人賞の選考委員だったときの受賞者・近恵などなど・・それに、『天使の涎』(邑書林)の社主・島田牙城には、大事な話も直接できた。
会は百人近くはいただろうか。地味な俳人諸氏よりも、『天使の涎』に集った様々な人たちの祝福であたたかく盛り上がった。句集収録句は2000句、吐き出した句が一年一万句というから、愚生には到底真似ができない。
生き方そのものが俳句というわけである。生即俳句、そして、参加者の中には、いかがわしくも女装と俳句という、どこか哲学的かつ風俗的な思考がささやかれてもいた。
「女装や俳句でも世の中を変へられることをいつまでも信じよう」(「感謝にかへて」)
ともあれ、北大路の俳句形式が新しくなっている訳ではない。五七五の形式にのせて(旧かなで書かれ、新かな使いでないのが、ぺダンチックで、少し気に入らないが)、それなりの言葉の秩序を創り出しているのだ。それは、まさしく北大路翼の生即俳句の面白くも興味あるところだろう。締めの言葉は、

  世の中はさみしいことであふれてゐる。
  棄てれば虚しく、受け止めれば悲しい。
  どちらもできない奴を不良と呼ぶ。


北大路翼 1978年神奈川県生まれ。2010年朧の頃から新宿に毎夜出没。現在、新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」取り纏め役、砂の城城主にして、佐藤文香の師匠。

  六人で一人を口説き百千鳥           翼
  お姫様だつこで春野へ行かないか
  仮設便所でできる体位や祭混む
  強姦のやうな診察蝉時雨
  靴下を脱がうとしないけど全裸
  寝たままで扇風機まで行く方法
  冷房車乗り続けても降りても死
  悲しみを悲しみで消す星月夜
  四トン車全部がおせち料理かな
  初雪の町に聖帝十字陵
  自殺者を無視して進む文化祭




 

    

2015年7月10日金曜日

大関靖博「読んでゐる新聞に来て猫昼寝」(『大夢』)・・・



大関靖博第五句集『大夢』(ふらんす堂)はコンパクトながら1ページ五句立て、約400句を収める。彼には重厚な評論集も多い。しっかりした歩みを感じさせる。それでも内面には俳句の修羅を抱え込んでいるのだ。それが、たぶん「最近大愚とか大拙とかいう言葉に心がひかれる」(あとがき)とつぶやかさせているのではなかろうか。俳句発心以来五十五年というから、愚生と同齢にしては、比べるまでもなく愚生よりは早熟だったと思われる。「夢であるならせめて大きいものであったらと願っている」という。
最初に大関靖博に会ったのはいつの事だろう。にわかには思い出せないが、かれこれ三十年くらいにはなるのではなかろうか。あるいは、それ以上かも知れない。信頼している俳人の一人だ。
「轍」を主宰している。1948年千葉県生まれ。

   仏壇に桔梗も混ぜて供へけり              靖博 
   蛍火や未来はひかり過去は闇
   更衣世界は変らねばならぬ
   露の玉地球と海を宿しけり
   起きるとは限らぬけれど冬眠す
   左義長や命は火より火に還る
   啓蟄や無欲恬淡無為自然   




2015年7月8日水曜日

橋本照嵩写真展「子守り唄のふるさと」・・・などなど・・


                橋本照嵩氏↑

1970年代のモノクロームの、まだ、地方にふるさとらしさが残っていたいた頃の写真展である。
木曾の馬や赤ん坊を背負った子どもの写真が胸をうつ。ギャラリーは「ZEN FOTO GALLERY」(六本木駅すぐのピラミテビル2F、~7月25日まで)。
在廊中の橋本照嵩に久しぶりにあった。愚生よりほぼ10年ほどは年上の写真家で、写真集『瞽女』や、とりわけ愚生には『小野十三郎写真集』が懐かしい。かつて朝日グラフの俳句特集の写真では、齋藤愼爾とのコンビで多くの俳人を撮った人でもある。9月には、故郷の石巻で、ちあきなおみのカセットコンサートを開催すると言っていた。




ここ数日、愚生にしてはけっこう出かけた。順番に記すと、この人もまた十数年ぶりにお会いするシャンソン歌手・竹内弘道。亡くなられた母上の介護をきっかけに、その道では、そうとうに活動をされているようで、かつての便りには、介護についての相談事があれば、いつでものるよ・・と言っていただいていた。
その人のひとり舞台「Casablanca 逃げる人」(中目黒GTプラザ)。映画「カサブランカ」(原作は「みんなリックの店にやってくる」)とシャンソンでたどるヨーッロパ大戦渦中の人々の物語である。





そして、昨夜は、俳句四季「七夕まつり」での俳句四季大賞・渡辺誠一郎『地祇』、特別賞・大牧広『正眼』、新人賞・宇志やまと、奨励賞・根木夏実などの懇親会に出席した。

    影の数人より多し敗戦忌           渡辺誠一郎
    正眼を通す梟には勝てず           大牧 広
    点描のやがて一面花の塵          宇志やまと
    すがれ虫月光の味知っている        根木夏実



                   フウセンカズラ↑

2015年7月5日日曜日

荒井みづゑ「片蔭を行き片蔭を帰り来る」(『絵皿』)・・・



荒井みづゑ句集『絵皿』(書肆麒麟)は、著者自装。荒井みづゑは故・糸大八夫人である。初めて知ったのだがフレッミシュ織絵画作家であるという。そして、「円錐」同人である。
作品は、眼前にあるごく普段の光景を静かな気息で描いている感じの句柄である。飾らない良さがにじみ出る感じの人という印象だったが、たがわず、本句集にも、誰の跋文も推薦文も、帯文もなくそのままさし出され、置かれているような感じである。その約しさがいい。
まさに糸大八にのみ師事したということでもあろう。愚生等にとっても糸大八の闘病生活はいささか長かったという思いがある。その闘病を励ますために「円錐」同人諸氏は糸大八句集『白桃』(糸大八句集刊行会、2011年)を刊行した。それは、同時に夫人・荒井みづゑの献身的介護を少しでも励ましたいという祈りでもあったように思える。
ともあれ、いくつかの愚生好みの句を挙げて、今後の荒井みづゑの健勝を祈りたい。

      かたまつて男あらはる花辛夷       みづゑ
      かたちなき水美しき忍冬
      小さき荷こしらへてをり鳥雲に   
      焼きたてのホットケーキに冬の蜂
      啓蟄の鴉に首を傾げらる
      玄関の高きに登る冬の蠅
      焼なすび絵皿にまさるいいお色      



                  ナツハギ↑


2015年7月4日土曜日

曾根毅「啞蟬も天のうちなり震えおり」(『花修』)・・・



曾根毅第一句集『花修』(深夜叢書社)は装幀(高林昭太)・装画(奥原しんこ)の美しい句集である。集名の由来は、世阿弥の『風姿花伝』からとあり、彼の師である鈴木六林男主宰の「花曜」の修学期間への思いもあるという。
第4回芝不器男新人賞受賞作も収められている。従って、栞文には芝不器男新人賞の選考委員各氏の稿が寄せられている。西村我尼吾は「本句集は人類が経験した震災に対する精神史の一部を占めるものでる」と述べている。他には大石悦子・坪内稔典・対馬康子・城戸朱理・齋藤愼爾。
曾根毅は昭和49年、香川県生まれ。LOTUS同人。平成23年、第23回現代俳句新人賞佳作奨励賞受賞と履歴にあったが、確かこの時、愚生も現代俳句協会の新人賞の選考委員を務めていたように記憶している。無記名で行われる選考は、もちろん、その決定後に氏名が係りから知らされる。
その時、3・11に仙台港に出張で来ていたという曾根毅は、震災直後の残された応募期間にその句作品を創ったのであろう。震災句を巡って選考委員の間で、いくばくかの論議がされた。そして、現代俳句協会選考委員としては、新人賞としては初めて受賞作なしを決定したときであったと思う。しかし、現俳協として、まったく何もしないのは応募者の今後の励みにもならない、ということで、特別授賞の佳作奨励賞を考えた。応募者の中での相対的な評価では実質的に新人賞相当である。

    くちびるを花びらとする溺死かな        毅
    憲法と並んでおりし蝸牛
    夕ぐれのバスに残りし春の泥
    水吸うて水の上なる桜かな
    ロゴスから零れ落ちたる柿の種
    明日になく今日ありしもの寒卵
    羽抜鶏からだを熱くしていたり
    夏の蝶沈む力を残したる
    三界のいずれを選ぶ油照り
    祈りとは折れるに任せたる葦か



                 ノウゼン↑

2015年7月1日水曜日

打田峨者ん「刳(ク)り舟に遠流(ヲンル)のミイラ 天の川」・・・



打田峨者ん第二句集『楡時間ー「組曲類」』(書肆山田)の光景は、いわゆる現俳壇に流通している俳句の景色とは違って見える。第一句集『光速樹』(書肆山田・2014年)は、彼の二十六年にも及ぶ句歴にもかかわらず、どこかに五・七・五と言葉の軋みが多く蔵されていたが、その後の一年で上梓された第二句集では、五・七・五と言葉の関係をより、緩やかだがより緊密に展開し、読者へのその世界の理解度を深めるのに功を奏していると思われる。
「あとがき」に以下のようにある。

  組曲ー即ち連作並びに群作を編むということは、私見によれば、構造物としての重層的な“余白の肉叢(ししむら)”を創り出すことに他ならない。
 俳句はほとほと“省略”と“飛躍”の表現態ゆえ、必ずや何がしかの、濃き又淡き余白を自づから醸し出す。もとより偶発的・結果的に発生するというような事ではなく、言わば“本質的・戦略的余白”とでも名づけうべきであろうところのもの。

挿画は、これまた俳諧者、詩人、ゑかき〈打田峨(たかし)〉という履歴にある自身の作である。
いくつか句を「楡時間》四季《巡礼の斧」「球春地平線」より、書き留めておこう。

     恩愛や栄螺(サザエ)のわたの深みどり
         偽典
     「見上げれば銀漢を突く磔刑樹」
     負ひ来たる父なる夕焼 楡のまへ  
     後逸と見るや韋駄天 猫柳
     草野球。荒野(あらの)。すぐろ野。若草野。
     生還す 併殺くづれの春の午後
     永き日のセカンド・ライナー拝み捕り

     片膝つき 出を待つ次打者 おぼろ月

打田峨者ん(うちだ・がしゃん) 1950年東京生まれ。無所属。句歴27年。


                ハンゲショウ↑