2015年7月31日金曜日

高柳蕗子著『短歌の酵母』・・・



愚生は、短歌の門外漢である。それでも、たまに短歌を読んだり、短歌の雑誌を読んだりもする。
そのおり、短歌を覗き見る窓を幾人かの歌人をその窓に勝手にしている。例えば、「豈」同人の藤原龍一郎、また、福島泰樹、伊藤一彦、永田和宏などだったりするが、なかでも、高柳蕗子の短歌は、とびきり変わっていたし、その歌の才を感じたりしていた。もちろん高柳蕗子は高柳重信の娘であり、愚生が最初に俳句評論の発行所で会ったときは、高校生の頃であったかもしれない、という親近感も影響しているかもしれない。
すでに彼女には『高柳蕗子全歌集』(沖積舎)はおろか、評論集も数冊がある。さらに、このたびの『短歌の酵母』(沖積舎)は、現代の短歌をよく炙りだしてくれていて、なるほどそうかも知れないと思わせてくれる。
帯には「人間は言葉を醸す生物だ」「新しい歌論」とあり、おお、そうに違いないと思うのだった。その「まえがき」に以下のように記している。

 短歌は巨大で長大な「生命みたいなもの」と言える面がある。そして、その「生命みたいなもの」は、短歌に関わる人々に散らばって存在している。人間から見れば、人間の意識に偏在し、人という酵母菌たちに短歌を詠ませているのだ。つまり人と短歌は共生している。
 「短歌」という詩型は、人間とともに生きている。人が変化する限り、いっしょに変し続ける。

その興味のありどころとして、目次を紹介しておくので、すこし想像してみて下さい。

引用歌の解釈について

 1 みんなで育てるぐっちょんベイベー!潰れトマトの百年
 2 題材の後略
   〈時間〉の背後霊
 3 短歌の身体
   身をくねらせる短歌さん
 4 歌人は酵母菌
   醸すカモシカかもしれない


以上の歌論のなかの具体例としての短歌を、自ら作り上げたデータベース約6万2000首から選び出して具体的に論じているのだ。例えば「〈時間〉の背後霊」では天武天皇の歌から「絶え間なく降る〈時間〉」として・・・・。




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