2022年3月31日木曜日

高屋窓秋「ちるさくら海あをければ海へちる」(「俳句」4月号より)・・・


 「俳句」4月号(角川文化振興財団)、なかに、角谷昌子の連載「俳句の水脈・血脈ー平成・令和に逝った星々」がある。第11回の今回は、高屋窓秋。その冒頭に、


  かつて筆者は長谷川龍生から現代詩を学んでいたことがある。龍生は短歌的叙情を否定した小野十三郎に師事し、「帰りなん故郷へ」の俳句では困ると言った。そんな流星が評価した俳句が窓秋の〈ちるさくら海あをければ海へちる〉だった。落花は古来より日本人の美意識に適う対象で、窓秋自身、「日本人の心を詠った」句で、後年、特攻隊の劇映画に使われたと書いている。海と落花という「ありきたりの素材でありながら、イメージを強く喚起するのは、中七の「ば」の仮定法が単なる説明にならず、因果関係を越えて〈さくら〉が意志を持って散るようであり、単純な海と桜の構図と色彩対比が、なぜか不思議な時空を拓くからだろう。


 と記している。また、


 (前略)窓秋に境涯詠はないが、当時の句に〈海黒くひとつ船ゆく影の凍み〉がある。自身は逼迫した心のかげり」と自註したが、この影こそ時代の中の窓秋の孤影だ。「別れの言葉」に自分の俳句を「言葉が言葉を生み、文字が文字を呼ぶ、さうした形式主義的な僕の世界」と表した。この頃から窓秋の言葉を主体とする俳句の姿勢は変わらない。(中略)

  星影を時影として生きてをり  (「現代俳句」H11/1) (中略)

『花の悲歌』は窓秋作品の集大成にふさわしいイメージのラビリンスだ。最晩年の作品の〈星影〉とは星の光のこと。〈時影〉とは時の光の造語だ。この句の影と光は一体となり、宇宙全体を内包して生命の本質に迫る。初期の「白い夏野」は宇宙に変容し、とうとう「時影」の言語空間を出現させた。

 平成十一年(1999)一月一日、窓秋は硬膜下血腫のため死去。享年八十八。翌年の「未定」追悼号の三橋敏雄の言葉に「窓秋の俳句は読者を選ぶ」がある。静謐で透明感のある窓秋俳句だが、最短定型詩に魂を片室田作者の血の滾りが伝わってくる。十七音の膨張する宇宙の拍動をしかと受け止めたい。


 とあった。その後に「大井恒行氏(「豈」同人)に聞く」の角谷昌子によるインタビューがまとめられているのだが、それは直接本誌にあたられたい。ここでは、愚生の、20数年前の句を拾っていただいたので、感謝を込めて、それを挙げさせていただきたい。


  天に蒔く種のひとつは死後の我       恒行

  第三次世界大戦前走るつづける蟻の群

  空蝉の肉満月に転がれる



   撮影・芽夢野うのき「火の玉を投げろとさくら吹雪くなり」↑

2022年3月30日水曜日

筑紫磐井「眞葛原野干(やかん)の母を戀ひわたれ」(「俳句四季」4月号より)・・


 「俳句四季」4月号(東京四季出版)の中に、「いま推奨したい名句集」のコーナーがある。本号は、高橋修宏が「ー連作による擬史の試みー/攝津幸彦『鳥子』・大井恒行「本郷菊富士ホテル」・筑紫磐井『婆伽梵』」を執筆している。貴重なので紹介しておきたい。冒頭に、


 ここで紹介する三冊の句集は、日々の嘱目や諷詠でも、ましてや作者の境涯でもない。俳句形式と言葉による想像力だけを手掛かりに、ある特定の歴史的な時空を擬き描こうとするものだ。すでに蕪村による王朝想望の先蹤があるものの、それ以上に戦前の新興俳句の中で提起された〈連作〉という課題に対する、戦後世代によるひとつの達成を示しているといっても過言ではない句集たちである。


とあり、トップに紹介されているのは、攝津幸彦『鳥子』で、そこには、


 (前略)幾千代も散るは美し明日は三越

     南国に死して御恩のみなみかぜ

 当初、作品の半数ほどが「皇国前衛歌」のタイトルで発表されたように「皇国」、「歩兵」、「すめらぎ」、「民草」、「満蒙」「御恩」など大東亜戦争にまつわ言葉が多く用いられている。(中略)

 しかし、それらの言葉をあえて〈連作〉を構成する際に、いわば〈俳言〉として方法的に用いることによって、現実を体験した者には描かれることのなかった、言葉による戦前の光景を手に入れている。おそらく、体験にまつわる感情から自由であるがゆえに、ひときわノスタルジックに描くことも、その時代を象徴する言葉の核心が何であるかを発見し、演出するとさえ可能であったのではなかろうか。これらの作品に通底するアイロニーに満ちたリアリティは、戦後世代によって達成された連作の示標のひとつといえよう。(中略)

    たびたびは狂えぬ花の咲きほこる  (大井恒行)

    わが祖国愚直に桜散りゆくよ

    月光のあふれる駅をまたぎけり

    夢とまぼろし合わせてもなお足らぬ愛   (中略)

 また、一句目の刹那、六句目のアイロニカルな情感、九句目の美的陶酔、十句目の絶唱など、このじだしへの作通主体の想いが、はからずも作者の肉声のような呟きさえも呼び出している。すでに失われた「菊富士ホテル」という舞台を通じて、ドキュメンタリ—とは一味異なる、作者の良き時代への切ない郷愁とアナーキーなロマン性に色取られた、どこか映画的な連作ではないのか。


 そして、三冊目は筑紫磐井の『婆伽梵』、ここではそれぞれから一句のみ抄出する。


  「みづかがみ」より

   化粧(けはい)して蛇に魅入られ水鏡     

   「鎌倉草紙」より

   緋縅の蝶吹上げよ那智の滝

  「青樓」より

   君不来(こず)がまたひぐらしと書き候

  「鹿鳴」より

   麗人をいざなふ僕の白手袋

   「帝国海軍」より

   八月の日干しの兵のよくならぶ  (中略)

 古代から近代へと構成されているものの、けっして大文字の政治社会史という野暮な史実の連なりではない。

 たとえば、「みづかがみ」のエロティックな異類婚、「維摩経」の秘教的な気配、「問答書」の切支丹の土俗性、「青樓」の遊女の恋、「雨月」の怪異譚、「鹿鳴」のスノッブな風俗など、ときに時代の表層に見えながらも、われわれ日本人の奥処に眠り続けてきた聖性や驚異、恐怖や恋情、さらには憧憬や幻滅さえ投げかけてくる、まさに精緻な歴史風俗絵巻と言えるのではないか。(中略)同時に「ばかぼん」という音の連なりによって、あの懐かしいギャグ漫画の主人公を想起させるユーモラスな仕掛けも感じさせるのだ。

 攝津幸彦のアイロニーとも、大井恒行のアナーキーなロマン性とも肌触りの異なる筑紫磐井『婆伽梵』は、俳句ゆえに可能となった過激な詩的アナクロニズムによる麗しい達成と呼べるのではないだろうか。


 と記している。本誌本号には、他にメインの特集「前衛俳句とは何か―21世紀の『前衛』を考える」ーがあり、堀本吟「前衛俳句ー今もさまよう」、秋尾敏「メタ・ポップ。進歩主義を超えて」、今泉康弘「相対性前衛論」、岡田一実「『前衛俳句』のいま」、川名大「前衛俳句の未来ーその可能性としての属性」、田中亜美「1922・1962・2022-時代の潮流を繋ぐ」、千倉由穂「無季でしか詠めなかった俳句」、西川火尖「臍の緒、凧の糸」、日野百草「新文芸の可能性」、堀田季何「前衛と新しさと」、森凛柚「二十一世紀の新しさについて」の論考があり、それぞれに読ませるが、堀田季何の論の結びを以下に記しておこう。


  キーワード、切れ、短さを持つ自在季自在律句は、(地発句と近代俳句が違うように)パラダイムとして近代以降の俳句とは別物である以上、前衛でなくても、新しいのは間違いない。現在、世界各地で進行、拡散中である。


 以下は攝津幸彦の句、

  

  前衛に甘草の目のひとならび     攝津幸彦

 


       撮影・中西ひろ美「友Aの記憶忌日となり暮春」↑

2022年3月28日月曜日

渡邊樹音「矢印に添わぬ意思あり草青む」(第35回・メール×切手「ことごと句会」)・・


  第35回・メール×切手「ことごと句会」(3月20日付け)、兼題一句は「印」、雑詠3句。以下に一人一句と寸評を挙げておきたい。


  矢印を吐き出している雉の喉         江良純雄

  春の庭親指姫が走り出す           渡邉樹音

  一時(いちどき)に受け取りぬ春の包むもの  渡辺信子

  寝足りし弥生の蕾は肩を組む         照井三余

  茣蓙敷いて花見の席の父の影         杦森松一

  平凡な景色絵にする春の雷          武藤 幹

  お生まれは戦後の昭和に〇印         金田一剛

  平熱が続く毎日沈丁花           らふ亜沙弥

  オミクロンプーチン花どきの鬱王か      大井恒行

   

【寸評】

・「矢印に添わぬ意思あり草青む」ー大勢に流されないキャラか。はたまた単なる青二才か。下五の「青む」の解釈次第で味が変わるが、前者と考えたい(純雄)。

・「矢印を・・」ー雉の鳴き声を形にしてみたら「矢印」、というのは言い得て妙!やられました(信子)。

・「春の庭・・」ー庭にムスカリが咲いたと友に知らせるとムスカリは親指姫のこびとたちと言ったのだ(亜沙弥)。

・「一時(いちどき)に・・」ー曲者の春を宿す、様々なモノを一時に!持て余す!!「春を包むもの」が秀逸(幹)。

・「寝足りし・・」ー寝足りしがよくわからないのですが、球根の蕾たちかな。明るい句ですね(樹音)。

・「茣蓙敷いて・・」ー父の影は、現実の影であろうか(恒行)。

・「平凡な・・」ー19日の夜、春雷ともいえる雷を耳にしました。今までこ時期の雷は意識したことも聞いたこともなかったのですが、冬の雷とは違い優しい響きでした(松一)。

・「お生まれは・・」ー団塊世代の私、ズ~ット此れを遣って来ました(幹)。

「平熱が・・」ー退屈な毎日?それでも、沈丁花の甘く強い香りがするのだ(恒行)。


☆金田一剛の便りには、コロナも沈静化してきましたので、なんとか「集いの句会」に戻したいと思います。そこで、年会費とか規約(ほとんどありませんが…)を決めます。集いの句会にできるかどうか、4月8日に判断したいと思います」とあった。



★閑話休題・・野口る理「薄氷に壊れる強さありにけり」(「詩歌の森」第94号より)・・


 日本現代詩歌文学館・館報 第94号「詩歌の森」の巻頭は福間健二「詩を書く場所」、他に野口る理「敗北と詩」、斉藤梢「紙と鉛筆」、齊藤大輔「川柳は元気です」、今井恵子「全歌集と短歌史」などの記事があった。ここでは、野口る理の部分を引用しておきたい。


 (前略)さて、なぜ私は俳句を選んだのだろうと考える。すると、奇しくも今規格のテーマと重なる、高柳重信の「敗北の詩」という俳論を思い出すのだった。重信は「俳句を選択した動機の中に含まれている半ば無意識に似た敗北主義こそ、逆にさかのぼって俳句の性格を決定する重要な要素」だと主張する。そして俳句に限らず、「廃滅の寸前には、たいてい爛熟しきった頽廃的な美しい灯を守るための、ごく少数の人たちが存在する」とし、その守り人には「虚無的な敗北的な動機により、この俳句形式を進んで選択した少数の孤独な魂の持ち主」がふさわしいと言う。「その頽廃こそ、新しい芽生えの準備なのだ」と。

 重信の言葉を完全に首肯するわけではない。しかし、やはり敗北や孤独と創作には、深い結びつきがあることを、今企画を通して強く思い知るのであった。



     撮影・鈴木純一「プーチンのあの目で西を見てごらん」

2022年3月26日土曜日

今井鴨平「死の灰の微塵いづこに 胡瓜の青」(「川柳スパイラル」第14号より)・・


 「川柳スパイラル」第14号(編集発行人・小池正博)、特集は「今井鴨平と現川連の時代」、対談に飯島章友と平岡直子。門外漢の愚生には、今井鴨平は馴染のない名だった。小池正博「今井鴨平と現川連の時代」から、少し引用しよう(長文なので、本誌に直接当たられたい)。 


 昭和三十九年二月十日三時四十分、現代川柳作家連盟の委員長・今井鴨平は岐阜県内の旅先で倒れ、心不全のため急死した。「現川連」(げんせんれん)は現代川柳作家連盟の略称で、鴨平は創立当初から委員長をつとめた。鴨平が亡くなったという知らせは、各地の川柳人に衝撃を与えた。(中略)

 鴨平が川柳を書き始めたのは昭和十四年ごろで、「こがね」に作品を発表している。

  噴水の義憤暑さへ抗議する(昭和十四年七月号)

それまで鴨平は短歌を作っていたようだ。短歌から川柳への移行を彼はこんなふうに言っている。

 「僕は永らく短歌に精進した。そして短歌ほど民衆的な文芸はないと信じていたが、川柳は短歌より更に民衆的である」。(中略)

 すでに一九六二年の第六回総会(東京)で鴨平は「無形象」を廃刊して「川柳現代」を発行すると発表」、「川柳現代」は同年七月に創刊された。「川柳現代」は現川連としてではなく、鴨平個人の仕事として発行するというのである。即ち、革新川柳の雑誌を発行するときに、現川連という組織を背負うよりも個人として活動する方が動きやすいということだったろう。「現代川柳」誌は現川連の機関誌とは言うものの実質的には鴨平個人の負担によって発行されていたことが背景にある。(中略)

 山村祐の『短詩試論』は一九六〇年に、『続短詩試論』は一九六三年に刊行された。ここでは『続短詩試論』について金子・林田・高柳などの現代俳人が寄稿している。山村祐の著作、また今井鴨平の雑誌でなければできない企画であり、柳俳交流の視点からも重要である。髙柳重信の次の言葉は今でも響いてくるものがある。

「しかし、本当に、この十七音前後の短詩型定型は、それが現代俳句であろうと、現代川柳であろうと、果して、そんなに信頼するに足る形式なのであろうか」

 この15号は特に充実している。髙柳重信の評論は重信の研究者でも知らない人が多い、貴重なものである。鴨平の目指していた「現代川柳」の総合誌はようやく実現されるかに見えた。けれども、終焉は突然やって来た。


 そういえば、愚生が現代川柳の時実新子など幾人かを知ったのも、高柳重信編集時代の作家作品欄であった。「今井鴨平作品抄」があるので、そこからいくつか句を挙げておきたい。


  風によろめいた沓の底がない         鴨平

  ポケットで成る 昨日のマッチである

  蟻の往路に遮断機の影がない

  匍匐してみんな思想のコマ切れを食べる

  せめてその墓穴 虹の起点とせよ

  雲の裂け目の それだけの光を咥える

  孑孑の屈伸 波紋とはならず


 ともあれ、本号より、本誌同人を中心に一人一句を以下に挙げておきたい。


  じゃあねって君が残したのは刹那      樹萄らき(じゅどう・らき)

  滅ぼした者に聞えるパピプペポ       西沢葉火(にしざわ・ぱぴ)

  ひとことの滞空時間 春眠す       清水かおり

  蝶々と球体を追いかけてゆく        畑 美樹

  新バージョン試すときには呼びにゆく    浪越靖政

  ゴキブリである 無論 名は無い      石田柊馬

  毛布にもきっと挽歌は沁みたはず      湊 圭伍

  振り向いた赤ん坊 蝶にたたかれて     小池正博

  行灯に小倉億人一首ゆれ          川合大祐

  電球の切れる間際に散るひかり       飯島章友

  右膝の断固きげんのわるい冬        一戸涼子

  スリッパの左右それぞれ夏と冬       悠とし子

  おきあがりこぼしとこぶしせちがらい    兵頭全郎


★閑話休題・・「現代川柳のこれからー『川柳スパイラル』創刊5周年の集い」・・


 「(前略)今夏に創刊5周年の集い(午前は川柳フリマ、午後は座談会と川柳句会)の開催を計画しました。川柳人だけでなく、短詩型文学にご関心のある方々のご参加をお願いします」とある。


・日時 2022年8月6日(土)11時~17時

・会場 北とぴあ 第一研修室(定員84名)

    東京都北区王子1-11-1 JR王子駅北口歩2分

・当日の予定 11時 開場:川柳フリマ

 *出店のご希望の個人・団体には机1椅子2を提供。参加費1000円当日徴。フリマ出店のお申込みは7月20日まで。

第一部 13時10分~14時 【対談】平岡直子vs暮田名

*投句締切

第二部 14時30分~15時20分 【座談会】飯島秋常・川合大祐・湊圭伍

第三部 15時50分~16時50分  川柳句 各題2句 「当たる」「外出」「お菓子」「逆流」「七七形式の句」「雑詠・自由吟」

・会費 1000円

・参加申し込み 小池正博まで 594-0041 和泉市いぶき野2020-8

                 tel/fax 0725-56-2895  



     芽夢野うのき「さくら吹雪くまでわたくしを匿え」↑

2022年3月25日金曜日

岡田恵子「反戦の詩魂の背中風光る」(『ハーブ系』)・・・

 

 岡田恵子第5句集『ハーブ系』(山河叢書34)、著者「あとがき」の中に、


 此の二年間のコロナ禍で世の中は大きく変わった。人との接触も思うように叶わず、今までに無く私も在宅の日が続いた。以前はヨガの訓練でインドへ、NPO活動でネパール、芭蕉の足跡行脚、四国八十八所遍路と、旅をしながら句を作ってきた。コロナ禍で旅もできなくなり、句作も変わらざるを得なくなった。普段の生活の中での気付きや新しさの模索は、感覚に頼ってきた私には難題だったが、訓練を余儀なくされ、新しい視野の発見に繋げてくれているのかも知れない。

 第三句集は東日本大震災の年だった。あとがきに、地震国日本が持続可能な社会へ舵を切ったと希望を持って書いた。第四句集では、遅とそて進まぬその政策に苛立っていた。そして現在、地球温暖化タオ策としての脱炭素社会に向けて世界が動き出した。日本はその対策の一つとして原発を組み込み始めた。コロナ前まで、毎年友人の住む福島を訪ね、復興への果てしない歩みを目の当たりに見てきただけに落胆している。希望の持てる未来を願っている。


 とあった。この伝でいくと、著者は、先月24日から始まったロシアのウクライナ侵略戦争に、たぶn、胸を痛めておられるであろう。ともあれ、以下に、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。


   湘南のとぼける波や春立てり

   午後のティー青き秋思に刃を入れる

   坂上がる月の奴隷になっており

   夏の河ヨガの聖地に火の匂い

   コロナ禍の鎮守の森のかたつむり

   蟇気合いの臀部動かざる

   新米食むシベリア帰還兵の兄

   みかん山伊方原発稼働せり

   九条の麻酔が切れる冬の海

   ドローンの下の密会秋の空

   

 岡田恵子(おかだ・けいこ) 1954年、香川県生まれ。



    撮影・中西ひろ美「花終るもうすぐ了るとてやさし」↑

2022年3月24日木曜日

すずき巴里「ひらがなの手紙をもらふ春をもらふ」(『櫂をこそ』)・・


 

 すずき巴里第2句集『櫂をこそ』(本阿弥書店)、著者「あとがき」の中に、


 (前略)私事では、三十五歳で設立した保育園を三十周年の折に息子夫婦に継承、順調な歩みにより創立四十周年を祝うことが出来ました。

 また、保護司拝命十年の任期も無事務めあげ安堵致しました。

 第二句集を編むにあたり、三六二句を並べますと、これまでに送り出した多くの園児たちのこと、更生に寄り添った対象者のこと、俳句仲間のこと、そして家族たちのあれこれが懐かしく皆々、幸多きことを祈るばかりです。


 とあった。集名に因む句は、「ろんど」三代目主宰を継承した折の、


   櫂をこそもて月光に漕ぎ出でな       巴里 


である。ともあれ、愚生好みに偏するが、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。


   憲法記念日を園児に問はれたる

   兄に「信」姉の名に「和」や終戦日

   凍て星の数を尽くしてしづかな木

   春の星大きくマララ・ユスフザイ

   春昼の地下鉄パリへ行きさうな

   望郷や風花消えてまた湧きて

   野菊の墓までを素秋の川渡る

   サンタクロース鳥居おさむを出してみよ

   僕らの夏私らの夏消えて夏

      松山東子さんとお別れ

   その先の花野に行つてしまはれし

   枯木星星の迷子を預かり中

   

 すずき巴里(すずき・ぱり) 1942年、中国南昌市生まれ。


★閑話休題・・現代俳句協会幹事会「ロシアのウクライナへの侵攻についての声明」・・


 現代俳句協会幹事会は、去る3月21日、質的には全く違うが、昭和36年の現代俳句協会からの分裂、俳人協会の創立の際に声明を発して以来2度目、60年ぶりの声明を出した。終日、リモートによる議論の末に決定したという。文中に「私たちはウクライナ、ロシアに俳句を通して多くの友人がおり、今後も絆を大切にしていきたい」とあるので、連絡のとれるウクライナ・ロシアの俳句愛好家の皆さんに直接文書メールなどで是非届けてほしいと思う。


   ロシアのウクライナへの侵攻についての声明

  ロシアによるウクライナへの侵攻は、ウクライナの主権と領土を侵害するものです。まして核戦力部隊の動員にまで言及したことは、人類として越えてはいけない一線に踏み込んでおり、強く非難します。 

人びとの生命、財産が損なわれ、表現の自由や活動の自由が著しく阻害され、深刻な危機に瀕している現状を憂い、一刻も早く武力の行使が停止されることを切に求めます。

  私たちはウクライナ、ロシアに俳句を通して多くの友人がおり、今後も絆を大切にしていきたいと思っています。すべての人びとが生命と生活の安全を保障され、不当な差別や迫害を受けることがないよう願ってやみません。

        2022321

   現代俳句協会幹事会



     撮影・鈴木純一「コブシたち今年も全員野球ですな」↑

2022年3月22日火曜日

志賀康「幼年はわが手暗がりに居直りて」(「LOTUS」第49号より)・・


 「LOTUS」第49号(発行人・酒巻英一郎)、特集は、1「多行形式の論理と実践(評論篇Ⅱ)と2「志賀康句集『日高見野』評。特集1の執筆陣は、丑丸敬史「切れるキレ、紡ぐキレ」、江田浩司「歌人が多行形式の俳句を読むこと」、未補×斎藤秀雄「〔対談〕一行という多行」、松本光雄「上田玄『雨滴』短評ー現前の詩学」、高橋修宏「酷薄なる詩型ーある回想から」、酒巻英一郎「絶顚の虹のかなたに」。特集2「志賀康句集『日高見野』評」の同人以外のからの寄稿者は、山本敏倖「神はすでにそこにいた」。ここでは、高橋修宏による論をを少し紹介しておこう。

  

 (前略)一方、多行形式に表記されたタイポグラフィ(活字)は、言うまでもなく近代以降の活字印刷術と決して切り離すことはできません。その意味からも、多行形式の俳句は紛れもなく近代という時代から生み落とされたフォルムです。 (中略)

 たとえば一行棒書きによる俳句が、いかに慣習的(コンペンショナル)なものであっても、そのこと自体は同時に、われわれにとって、或るひとつの外部性として歴史の側から贈与されたフォルムであることを否定できません。しかし、多行形式の俳句とは、そのような歴史から贈与されたフォルムのまま歓待するのではなく、ふたたび各々の作者の内部において解体/脱構築しなければ、ついに成立しえないフォルムでしょう。(中略)

 けふも陸風

 あすは不陸の

 陸玉よ

酒巻英一郎「阿多(原字には多に口偏あり)唎句祠亞」は、すべて三行表記の作品。これまでも頑なに三行表記作品のみを発表しつづけてきた作者らしい、ついに未完のまま完成へと向かいつづける奇蹟の作品群ではないでしょうか。言うまでもなく三行表記とは、容易に一行棒書きに回収されてしまうフォルムです。しかし、そのような危うさに耐えながら、かろうじて均衡を保っている慎ましいフォルムは、他の三行表記の作品に決して紛れることのない静かな言語的強度と、すでに言葉の名人芸とも、マニエリズムとも呼びうる佇いを感じさせます。  


 と記され、至当である。この言に偶然にも対応していると思われる酒巻英一郎の玉文末尾の部分も合わせて記しておきたい(原文旧仮名旧漢字)。


  さて、いよいよ以て多行俳句私感を述べるべきなのか、否か、大いに途惑つてゐる。誰も彼もが軒並み絶望を語つてゐて、どれが一体ほんたうの絶望だかわかりやしない。こんな時はいつそ、一片の夢を語ることこそが一番絶望的なのに違ひない。絶巓の虹の彼方に、さらにその奥に、当分、いや是は死ぬまで使へる手かも知れないぞ。いや待て、ひよつとして夢と絶望の語法をとり違へてしまつたのかも知れない。しかし憂ふるなかれ、多行俳句形式においては日々慢性的革命状態が持続してゐるのだから。


 とあった。ともあれ、以下に一人一句をあげておこうか。


 秋の夜をイルカのために八胞海      熊谷陽一

 提灯のともしび遠き破獄かな       三枝桂子

 月ひとつ降りてきそうな棺かな      無時空映

 大花野まづ白雲を招きけり        丑丸敬史

 ぬばたまの残像すでに我も星も      奥 山人

 な愁いそ九十余歳の余白へ川       小野初江

 わらび山翁と童分けられず        表健太郎

 蝶を放(ひ)る星見の忘却術ならん    九堂夜想 

  

 かざはなに

 汝と我と

 あはせても              酒巻英一郎


 饒舌にならぬと融ける薄氷        志賀 康

 戦前に傾いてゆく岨の月         曾根 毅

 かなぶんの朔日生きてさかあがり    高橋比呂子

   如水を続けて濁りがどんどん薄くなりやがて透明に

   なる、そんな死を迎えられれば。

 処方箋は「降雨」とのみそして花韮に   古田嘉彦

 倍音の出会う水際や青岬         松本光雄    



     芽夢野うのき「ナデシコや大和撫子行方は知れず」↑

2022年3月21日月曜日

河原枇杷男「野菊まで行くに四五人斃れけり」(「外山一機の/俳句のまなざし」より)・・


  東京新聞3月19日(土)夕刊の俳句時評欄「外山一機の/俳句のまなざし」に、「遠くを見据えた2人」と題して、


 今年一月、安井浩司が亡くなった。昭和十一年に生まれた安井は寺山修司らの「牧羊神」などを経て、昭和三十年代後半から四十年代にかけて「琴座」「俳句評論」「ユニコーン」などに参加し、独自の俳句表現を確立していった。

  キセル火の中止(エポケ)を図れる旅人よ  

  大鶫ふところの毬中(あた)るべし

  有耶無耶の関ふりむけば汝と我     (中略)

 安井の道行きは、それゆえ孤独なものであった。ただ、そんな安井にも、友人と呼べる存在があった。河原枇杷男である。

   身のなかのまつ暗がりの蛍狩り    (中略)

河原は昭和五年に生まれ、安井と同じく「琴座」「俳句評論」に参加した。見えざるもの、聞こえざるものを執拗に形象化する河原の句に安井は「地獄性」をかんじつつ、彼を「友人」と呼んだ(「行く方に就いて」、愚生注:『海辺のアポリア』邑書林、平成二十一)。ここには「遥かに遠いところ」を見据える者だけが分かち合えた切ない友情がある。その河原の追悼記事が今年「鬣TATEGAMI」(第八十二号)に掲載された。記事を執筆した林桂によると、河原はすでに平成二十九年に亡くなっていたという。

 もっとも、河原は平成十五年に上梓した『河原枇杷男全句集』(序曲社)をもって俳句との訣別を宣言していた。「近距離のものを射る」遊技場と化した俳壇に、河原の居場所はすでになかったのだ。

 

 とあった。愚生は、河原枇杷男には会っていない(たぶん)と思うが、安井浩司には、幾度かお会いし、秋田の家にもお邪魔したことがある。ただ、はっきりといつが最初であったかは覚えていないのだ。今、手元にある「未定」第70号・1996年11月(特集 安井浩司)の自筆年譜によると、「1983年(昭和58)、難病の折笠美秋を北里大学病院に見舞う。日本海中部地震あれど無事。七月に高柳重信の突然の死去。夏石番矢『猟常記』出版記念会に出席」とあったので、ここで、お会いしているはずである。というのも、夏石番矢の記念会は、高柳重信の告別式の日と重なり、告別の後に、皆、喪服のまま、夜のお祝いの出版記念会に駆けつけていたからだ。その意味で、伝説的な記念会になった(たしか渋谷の中華料理店であった)。ただ愚生は、高柳重信の葬儀にはついに行かなかった。それもあって、高柳重信は、いつまでも死することなく、愚生の胸に宿っていた。その後悔があって(つまり、死者に会い別れる葬儀は、生者のためのケジメと断念の儀式だとうことに気づく・・)、折笠美秋の際には、葬儀に伺ったことを、今も覚えているのだ(3月の雪が舞っていた)。 その後も、1984年(昭和59)、銀座「タカゲン」画廊の絵画+俳句展や「未定」10周年(88年・昭和63)、永田耕衣旭寿の会(90年)などで、出会っているはずなのだが、記憶に無い。結局、直接挨拶し、言葉を交わすことがなかったので、覚えていないのだろうと思う。あるいは、愚生の記憶力がいつも欠落し、無いせいなのかも知れないが・・・。

 その安井浩司最終句集『天獄書』(監修・酒巻英一郎 金魚屋プレス日本版)は、生前に企画され、句稿は出来、上梓予定だったが、間に合わなかった。いまは、句集と同時刊行を企画された『安井浩司読本』(同前)との上梓が待たれる。


       或る闇は蟲の形をして哭けり     枇杷男

  創世記這い出で来たる蛇女       浩司(未刊『天獄書』) 



   撮影・中西ひろ美「野生とはちがふ勁さを見せてあげる」↑

2022年3月20日日曜日

各務麗至「この石は琥珀のつぶて春のくれ」(『天地』)・・


  各務麗至増補版定本句集『天地』(詭激時代社)、その「覚書:に、


 六百三十五句。 

 小説の叙述の研究を示唆され、行き着いたのが俳句だつた。私的には、平明はべつにして俳句とは言はずに言へる省略と豊穣を知つた初めての経験であつた。

 作句期間は、昭和五十年代の後半に始まり、平成十八年までの二十数年間。平成十六年に二百句ほどの追悼句集「風に献ず」を編んだのだが、今回の順序入れ替へや破棄したもの、多少手を入れたものーその編を先頭に置き、

 再び追想の、三橋敏雄、麻生知子、そして、わが母へ加へた増補版定本句集とした。(中略)

 若い頃からの、儲けを度外視してくれた馴染みの印刷屋も高齢で廃業を余儀なくし、私は発表手段を失つてゐた。角川の「短歌」及び「サンデー毎日」の、塚本邦雄撰の投稿歌句とその私淑に始まり、老母の永眠まで作句につきあつた。

 その間、俳句関係のへの参加が、暫く小説から離れた原因ともいへなくもないが、俳句以後の作風の変化は単に年を重ねただけではなささうである。

 俳句も亦、私を炙り出すに相応しい一篇の私小説になつた。


 とあり、冒頭に献辞が置かれている。それは、


  貴作「風に献ず」篇のこのたびの一連はひとつの到達

  を示すもの活字印刷で見るとまたちがつた緊張感が

  伝わつてくるやうに思はれます

  ともかく俳句は(俳句にかぎりませんが)他に紛れることのない

  独自性を目ざすことが大切でよいわるいはその後の問題

  と考へます

    句集「風に献ず」扉 三橋敏雄芳翰墨蹟より


 とあった。集名に因む句は、 


   母なくて天地の境見うしなふ      麗至


 であろう。ともあれ、集中より、愚生好みになるが、いくつか挙げておきたい。


   雁喘ぎ喘ぎ流離の暮色かな

   その底はまだ覚めやらぬ雪解川

   木枯しの天には見えず地を走る

   身の丈の塩絶ちがたき薄暑かな

   梅雨の闇きらりと花が散る戦争

   敏雄逝く軒下雀にぎやかに

   慟哭す波羅波羅童子不思議童子

   鳶の空風のかたみとなりにけり

   母似ゐて父似数へる秋まつり

   太陽の及ばぬさきの力かな

   戦歿の骨ありやなし霜柱

   戛戛と昭和尊し去年今年

   動かざる永遠はなし晩夏光

   戦前戦後見えゐて見えぬ蓮根掘る

   母の死に重なる眠り水中花

   夕顔やその先のなき八十九

   凡百の耳埒もなし蚯蚓鳴く




★閑話休題・・各務麗至「たまきはるいのちのけはひ一夜庵」(「戛戛」第139号)・・


 句集『天地』に同送された「戛戛」139号・140号。「戛戛」の発行日は、未来の3月25日(139号)と4月15日(140号)となっている。急ぎ旅である。139号は、小説・エッセイの再録で三橋敏雄・池田澄子・三橋孝子・遠山陽子・各務麗至(ー四国風韻抄―)など。140号は小説集である。その「あとがき」に、


 「戛戛」第百四十号をお届けします。先の「静かな海」だが、

発行日を無視して百三十七号の姉妹号のように同時刊行したが、今回も同様に序数だけを考慮していただければ、と。

 というのも何だか何を無闇に急いでいるのか気にはなるが、

「静かな海」と、いうなら、それより古い作文初期の頃の作品をと思ったのだった。

 今号の三作、雑多に書き散らした中のどうしても棄てるに捨てられなかった当人がいうのも何だが、若き作文初心者の恐れや畏いもの知らずの擱筆作である。(以下略)


 とあった。ここでは、「四国風韻抄」から一句ずつを挙げておこう。


  山上に御座す宗鑑 一夜庵     三橋敏雄

  春日遅遅こらえて永き長き橋    池田澄子

  巨いなる砂の銭形瀬戸の春     三橋孝子

  鯛鮓や静座の漱石胡坐の子規    遠山陽子

  幽溪のこの距離羨し春の人     各務麗至



      芽夢野うのき「花辛夷母と八つでさようなら」↑

2022年3月19日土曜日

安井浩司「廻りそむ原動天や山菫」(「安井浩司『自選句抄 友よ』)・・


 

    救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(14ー1)


        廻りそむ原動天や山菫       安井浩司


 ジェイムス・ジョイスなどの訳者である柳瀬尚紀の著書『日本語は天才である』(新潮社)が二〇〇七年に出版された。安井七十一歳の第十四句集『山毛欅林と創造』が刊行された年である。安井浩司句集と柳瀬尚紀訳書が、日本語の宝庫であり、ルビも文字も日本語のすばらしさであり、日本語が、天才であることに驚嘆し、この年以後、安井の俳句の語に対して随分と考え方が変わった。

 難解であると感じる安井の句は、つまり日本語の豊かさを十分に駆使した結果の我々の未見の言葉に出合うからである。辞書等々で調べれば知り得る日常的な言葉と、日常を超えた日本語が組み合わされた俳句なのである。だから、安井の俳句は一般的な俳句であり、基本は五・七・五の音数によって書かれた俳句なのである。そして、五七調、七五調などの律による詩のリズムは、句の意味を介せずとも、すぐに俳句としての親しみを感じさせてしまう。つまり、俳句を詩のリズム(日本語の律)から考え、俳句は詩であるとすれば、キリスト教文学の最高峰とされる叙事詩『神曲』の「原動天」として、読み解ける句なのかもしれない。

 ところで、風人の風のたよりに運ばれてきたのだが、安井浩司の遺句集が、俳人酒巻英一郎等によって、秋田の雪どけとともに進められるとのこと。その句集名に『天獄書』と印されている。やはり、ダンテなのだ。『神曲』「天国篇」と「地獄篇」に対しての『天獄書』。いや、昭和六十三(一九八八)年の『汝と我』を第一巻とする『句篇・全』六巻に、『烏律律』(刊行)、『天獄書』(未刊)、八句集・「全」に対しての『神曲』であると言ってよいだろう。

 廻りはじめる。叙事詩『神曲』「天国篇」の最高天である〈至高天〉のまわり(・・・)を次の第九天である〈原動天〉が廻りはじめる。そして、「山菫」がある。

 菫は『万葉集』から、

  山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉

 西行「古郷の昔の庭を思い出でてすみれつみにくる人もがな」まで、「菫摘む」と詠われてきた。「菫摘む」詩の象徴から、「発見する」詩の表現へと芭蕉は「山路来て何やらゆしすみれ草」の一句をなした。安井もまた、掲句で「すみれ」を発見する。詩の世界の象徴と俳句の季語の同事であることを・・・。つまり、俳句は詩であるという安井の思想が書き出された一句であると言える。

   ◇ーーー◇

 それにしても〔安井浩司〕の俳句は不思議な俳句である。もう金輪際、読みたくないと思

えたり、俳句に現われた思想を学びつくしたいと考えたり、自由自在な俳句と言語の詩心に魅了されたりする。

 しかし、それ故の個的な思いを離れ、安井の願いを伝えたい。

『句篇・全』六巻の『宇宙開』の後記へと、「精神のコスモロジーが、そのまま俳句未来の礎の願いを」句集名に込めたと安井は記しているからである。安井以後の俳句世代へ、筆者のつたない読みで、「礎の願い」を伝えられるであろうか。残る時間はそう多くはない。

 まず、はじめに『安井浩司選句集』の「年譜」と「安井浩司インタビュー」から、掲句「廻りそむ」を考えていければよいのだが・・・。

 しかし、掲句の「廻りそむ」は安井の俳句の難解さが現われた典型的な句である。

 出来うれば、最後まで同行を願い、筆者の書き得なかった安井の詩の思いや願いを書いてほしいと切に願う。



        撮影・中西ひろ美「幸せに大小はなく桃の花」↑

2022年3月18日金曜日

大西淳二「橋の名に論語の一字春立ちぬ」(月報「草原」2022・3月号)・・


  月報「草原」2022・3月号(草原俳句会)、大西淳二からじつに久しぶりの便りをいただいた。。桂信子主宰「草苑」終刊後、奈良県の生涯教育講座の生徒たちを核にして、結社「草原」が誕生して18年になったという。教師40年の半生を思い、初心者の育成には、使命感をもって携わっておられるようである。便りに同送された二月の句会報には、各句の講評、中には添削を施してあるのもあるが、、一句ごとに丁寧に評されている。ともあれ、句会報から一人一句を紹介しておこう。


  コンビニで恵方を尋ね受験生       山口仁久

  斜め読み福祉六法春浅し         袴田俊一

  ろう梅の匂う辺りで立ち話        兼松佳子

  大寒を光の機影すべりゆく        中島 澪

  鬼やらひ舞妓たもとを揺らしをり     森岡恵美

  雪道や足跡ごとの深き闇         佐藤双楽

  山深し霜降り注ぐ七草粥         速水惠美

  寝布団の針の穴ほどに隙間風       松本 清

  親指のあか切れ痛し歩を止める     前田美智子

  冬日和ぐーちょきぱーと動き出す    渡良瀬リウ 

  庭畑の土持ち上げて霜柱         松村慶子

  黒猫の首輪光りて春近し        左京かおり

  千年の瓦窯跡(かわらがまあと)落葉積む 竹内 晃

  身は子らに殻を嗜む夕の蟹        坂下輝美

  立春の土が好きやと老婦人        田原眞知

  風花や老いたる犬の尾は静か       西川文子




★閑話休題・・春風亭昇吉「春雷すストレッチャーを急かす駅」(TVプレバト・春光戦)・・


 われらが「遊句会」のメンバーの一人、春風亭昇吉が、昨年、真打ちに昇進後、初のプレバト出演とあって、遊句会のメンバーに、メールが届いた(記事下は、その案内)。結果は二位で決戦には駒を進めることが出来なかった。善戦したというべきか、日頃の気働きの昇吉ではなく、さすが落語家らしく喋りまくっていた。夏井いつき大先生からも、好評をいただいて、本人も、それなりに満足の一戦だったらしい。とはいえ、飲食をしながらの遊句会では、コロナ禍に入りすでに2年間、句会の開催は無く、お会いしていない。TVで元気な姿を拝見・・・。ともあれ、今後も奮闘を祈る。

  遊句会の皆様

   お世話になっております。
   落語家の昇吉です。
   3月17日木曜日、プレバトに出演します。
   https://www.mbs.jp/p-battle/
   ご高覧頂けますと幸いです。
   
   また、3月25日金曜日夜
   日本橋亭で落語会があります。
   http://www.geikyo.com/lite/schedule/rakugo_detail.php?id=33503
   年に一度の会ですので是非ご来場くださいませ。



     撮影・芽夢野うのき「木蓮のひとつふたつはふつつかや」↑

2022年3月17日木曜日

井上治男「老い初めて見果てぬ夢よ鳥雲に」(第3回「きすげ句会」)・・


  本日は第3回「きすげ句会」(於:府中市中央文化センター)、いつもの生涯学習センターが休館日のため、中央文化センター第5会議室で行われた。生まれたばかりの句会だが、4月から始まる府中市生涯学習センターでの春季講座「現代俳句」にも多くの方が申し込まれているらしい(定員15名)。今回は、世情もあって、ロシアによるウクライナ侵略に取材した句も多く見られた。出句は3句でその内一句の兼題は「和」である。以下に一人一句を紹介しよう。


  「和」よ踊れ墨たっぷりの筆走る      久保田和代

  前進を不意になめくじ止(や)めて死す    濱 筆治

  春色の和菓子携え野辺遊び          山川桂子

  一枚の写真で祝う雛祭り           杦森松一

  一駅を歩いて嬉し土筆摘む         壬生みつ子

  涙して和平叫べり雪の果           井上治男

  春風に奏でる平和プーチンに        大庭久美子

  春の宵とちおとめたちジャムになる      井上芳子

  稲畑汀子の旅立ちを哭く二月尽        清水正之

  されどウクライナ和と言えば春愁い      大井恒行 


 次回は4月14日(木)13時30分~16時。雑詠2句+兼題は「蛙」、計3句。



    撮影・中西ひろ美「後輩や卒業の法螺貝のやうだね」↑

2022年3月15日火曜日

小室日和「ドライヤーしたくないのにかけられる」(三世代合同句集『俳壇坂本の会』より)・・

            

  三世代合同句集『俳壇坂本の会』(文學の森)、帯の惹句に、


 ある年、夏休みの宿題から始まった一家の俳句作りは父母へと広がり、子どもたちの成人や結婚、引っ越など人生のさまざまな時を経て、いまや小学四年生の孫も加わりました。熊本・愛知・神奈川と場所は離れても、三世代にわたる俳句の交流はこれからも続いてゆきます。


 とある。序文は、永田満徳「家族融和の句集」、跋文は今村潤子。その序の冒頭に、


 合同句集『俳壇坂本の会』の成立には家族のLINEグループの「俳壇坂本の会」の存在が大きい。高穂さんの結婚により新しい家族が加わり、小室日和さんが五歳で「火神」「未来図」に投句を始めたのをきっかけに千穂さんが名付けたグループである。そのグループは家族の日常の話題とともに、結社誌への投句の際に、俳句を相談し合ったり、時には誤字脱字のチェックをしたりする俳句創作の場になっている。(中略)

 句集『俳壇坂本の会』によって、家族の日常が俳句という形で思い出に刻まれ(節子)、なんでもない毎日を俳句に詠むことで、家族皆で歩んできた道が解る(千穂)ものになっている。ここに、俳句で繋がり、結びつき、家族が一体となった姿をみることができる。その意味で、坂本一家は、個人句集を出すことなど考えられず、家族単位で出してこそ、意味があったのである。

 

 と記されている。また、跋文の最後には、


 (前略)千穂さんの句に〈冬雲や晴れ食べてると言ふ息子〉という句がありますが、「冬雲」が「晴れ」を食べてると言ったのは息子の凛人さん(四歳)です。四歳にしてこの様なフレーズが出てくるということに感心しました。凛人さんも日和さんのように俳句を作ってゆかれることと思います。次の合同句集には凛人さんの句も拝見できると楽しみにしています。


 とあった。また、巻末には、各人の「あとがき」と「俳歴」が付されている。その中で、坂本節子は、


 遠い昔の夏休み、リビングで子ども達が俳句の宿題をしていました。傍らで私も一句・・・と考えているうちに、続かぬ日記や家計簿の悩みも忘れ、俳句で暮らしを綴る楽しみを知りました。そして、なぜか心が軽くなっていきました。”癒しの俳句”それ以来、家族の俳句はリビングから生まれ、成長とともに、成人・就職・結婚を経て、今また娘・息子の新しいリビングへと俳句のある暮らしが続いています。孫の小さな指が折る五七五も加わり、今回二十五年間の家族の句集の形となりました。


 とあった。そして、坂本真二は、「現在は『未来図』後継誌『磁石』にて、家族五人、新たな俳句の道を歩んでいる」と記している。ともあれ、以下に、句を各人幾つかずつ挙げておきたい。


  しんまいがおいしいよるにおにぎりだ  小室日和(平成24年、名古屋市生まれ)

  ねんがじょうポストにこびといそうだな

  みずやりをみずでっぽうでやってみた

  とうきょうでひろったおちばおめんだよ

  あきのくれうごく歩道がおそかった


  ネクタイをほどく速さや夏来たる   小室千穂(昭和61年、宇土市生まれ)

  豪快にはみ出すぬり絵秋灯下

  泣き声に乳の張りくる浅き春


  流灯の止まらぬ夜のお線香(中三)  坂本高穂(平成2年、熊本・宇土市生まれ)

  避難所の母のメールや梅雨出水 

  舞ひ上がる図面を押へ春一番

 

  プラカード掲ぐ娘の夏帽子      坂本節子(昭和32年、鹿児島市生まれ)

    熊本地震

  壊滅の村にも凛と花菖蒲

  序列なく生きて咲き終ふ彼岸花


  春塵をはらひて娘旅立てり     坂本真二(昭和34年、熊本天草郡生まれ) 

  半夏生登校渋る子の迎へ

  野火走る焼いてはならぬものを焼き 




     撮影・芽夢野うのき「白梅や鏡に何を置いてきたのか」↑

2022年3月14日月曜日

小林一茶「春立つや愚の上にまた愚にかへる」(『小林一茶の生涯と俳諧論研究』より)・・


中田雅敏『小林一茶の生涯と俳諧論研究』(角川書店)、帯の惹句に、


  2016年筑波大学人文社会系国際日本研究科提出の博士論文に加筆を施し、関連する論文二編を補論として加え、再編集。時代をつぶさにすくい取り、そこから浮かび上がる一茶の全貌を明らかにした”小林一茶研究”の集大成。


 とある。A5版箱入り、約590ページの大冊、文字通りの研究書である。主要目次を挙げるだけでも、その内容が伺える。


 「はじめにー一茶が生きた時代背景」、序章、第一章「世事の記録師か記述魔かー小林一茶とその時代ー」、 第二章「一茶の童児俳諧と小動物ー子ども句と動植物句をめぐってー」、第三章「一茶の『日の本』意識」、第四章「一茶稿本『志多良』の題名」、第五章「一茶俳句の方言使用」、第六章「一茶の家族描写と説経節」、第七章「一茶の自己俳諧の確立と宗教性」、第八章「渭浜庵執筆から宗匠へ」、第九章「俳諧説話と一茶の俳文」、第十章「武蔵国新方連会頭と一茶」、第十一章「一茶の教育教材化」、第十二章「一茶の信仰心と俳諧師」、終章「課題」。


 となっている。もちろん、愚生の手に余る内容だが、文は読みやすいと思われるので、興味ある方と、これまでの一茶研究のおおよそは伺い知ることができるので、直接本書を手にされるとよいと思う。「はじめに」から、一部を以下に紹介しておこう。


 近代俳句は正岡子規から始まったとするのが俳壇の共通認識であるが、江戸後期、とくに文化・文政期はすでに「近代社会」といえる。明治維新はこうした時代状況や人々の生活状況が「維新」によっ一新されたものではなく、身分制度と引き換えに競争社会に変わり、世界的な「産業革命」の変貌のなかで「生きてゆくために早く、より便利な機械という近代的道具」を手にした過程にすぎないのである。人々の生き方や人情や通俗道徳は競争を強いられる個人に分断され「生きづらさ」が増幅される社会になった。このように歴史観や、時代変貌、社会構造が変化するなかで、明治と地続きの「文化」のひとつとして「俳諧」を考えるならば、その後の近代俳句は実は小林一茶から始まったとも考えられる。(中略)「近代俳句」は小林一茶から正岡子規につながり、高浜虚子から多くの近現代俳人が輩出したが、その萌芽はすでに江戸時代後期の文化・文政期にあったということができるだろう。

 小林一茶が小林家の長男でありながらなぜ江戸奉公に出され、どこの家に奉公し、俳諧師になる素養を獲得し、文学の歴史に残る「芭蕉、蕪村、一茶」と並び称される俳諧師の一人としての学識は誰に授けられたのか。こうしたさまざまな疑問と課題は、「元禄文化・文化文政」といわれる江戸を中心とする文化圏と地方文化(とくに農村)との関わりから解さなければならない。本論考の目的はそこにある。


 と認められている。そして、また、「あとがき」には、


 本論文では小林一茶という俳諧師がなぜ江戸を去って故郷柏原に帰在し、信濃俳壇を形成することができたのか、葛飾蕉門派の白眉と目されていた一茶が葛飾派を破門されたのはなぜか、あるいは自ら離脱したとしたらなぜなのか。さまざまな疑問は残るが、二万句に余る一茶の俳句作品に解釈を加えるのではなく、それら二万句における特徴を拾い出して「小林一茶の生涯」をまとめることとした。また一茶の生涯に焦点をあてることで、文化・文政期から天保期にかけての幕藩体制の揺るぎを反映した「俳諧論」を形作ることを目指した。


 とあった。ともあれ、本論考に引用された一茶の句をいくつか挙げておこう。


  芭蕉翁の臑をかじつて夕涼み       一茶

  目出度さもちう位也おらが春

  這へ笑へ二ツになるぞけさからは

  これがまあつひの栖か雪五尺

  花の影寝まじ未来が恐しき

  卯の花もほろりほろりや蟇の家

  椋鳥と人に呼ばるる寒さかな

  夕月や鍋の中にて鳴く田にし

  かきくけこくはではいかでたちつてと

  やせ蛙負けるな一茶ここにあり

  けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ


中田雅敏(なかだ・まさとし) 昭和20年、埼玉県南埼玉郡生まれ。

  


     撮影・中西ひろ美「好きなもの一に梅の香二に山河」↑

2022年3月10日木曜日

平敷武蕉「空爆の血糊を浴びて初茜」(俳句・紀行文集『風の黙秘』)・・


  平敷武蕉 俳句・紀行文集『風の黙秘』(南凕社)、紀行文は古いもので、1999年7月21日(水)~24日(土)の「バンコク・アユタヤ遺跡紀行」、最近のものは、2021年9月改稿(「南凕11号」)の「アンニョン ハセヨ 優しかった韓国の空」までの18編を収める。中には、かつては愚生と同じ「豈」同人であった西川徹郎の「西川徹郎文學碑除幕式に臨むー田中陽・森村誠一氏らと交流」(2014年5月)のエッセイがあって、愚生が、旭川の西川徹郎を訪ね、文學館や新城峠を越えた彼の寺や斎藤冬海に会い、平敷武蕉と同じように歓待してもらったことなどを思い出した。著者「あとがき」の中に、


  この句集には、初期の句から、三四四句ほどを選んだが、お膳立てしてくれたのはすべて我が連れ合いである。アリガト。(中略)

 表紙絵は、「南凕」会員の吉浜スミエさんが引き受けてくれた。この本のためにわざわざ描いて下さった心遣いに感謝するばかりである。絵は、傷だらけの地球が痛みのまま血を流している様子を喚起させる。まさに現今の地球の姿だ。希望は見えず、世界は病んでいる。新型コロナの逆襲が人類に追い打ちをかける。それでも風は怒らず、沈黙し、黙秘したままだ。だが黙秘とは、いつか目撃した事象を証言し、真実をあきらかにするための反撃の姿勢でもある。


 とあった。連れ合いとは、平敷とし。俳句紀行では、としの作品もある。


   漢字の国略字が片足で立っている    とし  

   鰓呼吸で抜ける魔境峠のトンネル

   原爆ドーム張り付いた空欠けたまま

   内耳揺する桜雲海錦帯橋

   薩摩侵攻城址も高江も地鳴りする


 ところで、集名に因む句は、


   風の黙秘不在の貌が月になる     武蕉


 からであろう。ともあれ、俳句のなかから、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。

    

   敗走の海を飲むしかないジュゴン

   主題はないさいているだけのハイビスカス

   闘わぬ時代の沼で闘魚死ぬ

   ダイオキシンここまでおいで風の岬

   天空に死者の髪梳く大風車

   いっせいに唖者泳ぎ出す慰霊の日

   凌辱の闇に転がるコカ・コーラ

   戦争のフェロモン放つスジボタル

   軍隊の柩になった椰子の島

   抗議する青年の耳のピアスの蛇

   無数の虹が岬の首を絞めている

   何故という問いのままに月尖る

   昼月の弾痕隠さず原潜来る


 平敷武蕉(へしき・ぶしょう) 1945年、うるま市(現具志川市)生まれ。



      撮影・鈴木純一「泥舟を不沈と言うのはきつねだな」↑

2022年3月9日水曜日

高澤晶子「私を離れて見よと桜の木」(「花林花2022」Vol.16 )・・


 「花林花 2022」Vol.16 (花林花俳句会)、特集は「俳人研究 石田波郷」である。愚生は、かつて、解放出版社の土方鉄著『石田波郷伝』を読んで、唯一、波郷の反戦意識に触れた書として、感銘したことがある。それもあって、波郷「霜柱俳句は切字響きけり」の句も多くの俳人が流布しているような韻文、切字主張とは別に考えていることは、これまでも言ってきたつもりである(句の発表時の背景を指摘して・・)。 他の記事としては「花林花の作家 その十 原詩夏至」について、高澤晶子は、冒頭、


 原詩夏至は、俳句は元より、短歌・俳句・小説・評論のジャンルでも、その才を十全に発揮している表現者である。論ずるに当り、原の著書や関連資料に事欠かないが、この作家論では、提出された自選百句のみを対象とするものである。


  と述べ、その結びを、


 詩夏至俳句は具象に優れ、その句意は明快である。その時空間軸は世界に偏在し、対象は変幻自在である。詩夏至にとって創作活動は息を吸って吐くような自然の営みである。だから燃え尽きることもなければ、枯れることもない。視野は360度と言ってもいいだろう。

 鳥類は頭を殆どあらゆる方向に向けることが出来る。彼らは授かった美しい声で朝の歓びを歌う。詩夏至の身体を奏で、人間の歌を歌わせるのは、空の一片の雲や風に揺れながら草が撒き散らす光の粉である。

  俳聖は旅に雀は蛤に    (愚生注:詩夏至)


 と記している。因みに、原詩夏至は、1964年東京生まれ。ともあれ、以下に本号より一人一句を挙げておきたい。


  ヒトという健気な命露時雨       高澤晶子

  烏瓜夜ごとの花は未完の詩       廣澤田を

  恐ろしき峠を越えて薄原        榎並潤子

  逃げる背に驟雨の街のかぶさりぬ    石田恭介

  糸トンボそれほど空爆がしたいのか   金井銀井

  不意にこゑして深秋の鳥の檻      原詩夏至

  木洩れ日を光の穴と蟻の行く      鈴木光影

  礎(いしじ)に名増えおりて今日沖縄忌 島袋時子

  初時雨その後訃報の続きをり      福田淑子

  立ち漕ぎで登る坂あり夏の雲      宮﨑 裕

  土筆狩スカイツリーも10cm     杉山一陽

  にじゃりじゃり雨のたっぷり春の土   内藤都望



      撮影・芽夢野うのき「花の森迷い込んだり鳥戦士」↑

2022年3月8日火曜日

江藤文子「風に抗ふ空腹の蝶ひとつ」(『しづかなる森』)・・


  佐藤文子第一句集『しづかなる森』(コールサック社)、帯文は森川光郎、それには、


    セーターの袖よりたたみ海しづか

 一句を静かに述べて、一句のどこかに波乱を生む。作者の作句の骨法だ。「セーターの袖よりたたみ」と静かに述べながら、団円をどこに据えようかと窺う。その団円の選定、「海しづか」に独自の視点がある。文子俳句の魅力はここにある。


 と記されている。また、懇切な跋文の永瀬十悟「木洩れ日の音楽」には、


 江藤文子さんは、須賀川市の俳誌『桔槹(きっこう)』の仲間である。桔槹は今年(二〇二二年)創刊百周年となるが、この間に地元に根差した俳誌として様々な活動をしてきた。俳句を始めた頃若かった私たちは、ここまでその多くの仕事を一緒にやってきた、いわば同志である。(ここからは普段の「文子さん」で書かせていただく)

 文子さんが俳句を始めたきっかけは、桔槹の選者で須賀川市の博物館の館長だった故高久田橙子氏から「あんたは江藤磐水の孫なのだから俳句をやりなさい」と言われたことによる。江藤家は江戸時代から続く医者の家系で、磐水は文子さんの祖父。大正時代に当時の川東村(現須賀川市)で医院をしながら「木枯吟社」という俳句会を開いていた。文子さんの父は医者のかたわら地域の楽団を立ち上げ、自身はマンドリンを演奏するなどして文化活動に力を注いだ。

 現在、ご主人の隆夫氏も医者の仕事とともに、ヴァイオリンを演奏し、郡山市の管弦楽団の中心メンバーである。このように文子さんの身の周りにはいつも俳句や音楽があった。

  いつまでも俳句青年青嵐

 文子さんが、師であり桔槹代表の森川光郎氏を詠んだ句である。光郎先生は今年九十六歳となったが、いつも若々しい俳句を作り私たちを驚かす。


 とあった。そして、著者「あとがき」の中には、


 須賀川市は、「おくのほそ道」の旅で芭蕉が七日間逗留した地で、それから三百三十年余連綿と俳句の盛んな所です。そのようなことで私は長年、地域の小学生の俳句に関わって参りました。いくつかの小学校の俳句指導、夏休み・冬休みの俳句教室、また児童クラブへの出前教室などはライフワークと思っております。


 ともあった。本集名に因む句は、


    ヴァイオリンはしづかなる森月渡る    文子


である。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。


  灯台の白ともちがふ夏鷗      

  詩ひとつ虎尾草の白に触る

  梅雨鏡かたちにならぬものばかり

  三伏の泡ひとつ抱く水平器

  枯草の匂ひの兎抱かれをり

  クレッシェンドデクレッシェンド青山河

  囀りの一音上に身を置きぬ

  朝ぐもり人は表を見せてくる

  ととのはぬもの月影の中にかな

  匂ふまで水に佇み秋惜しむ

  牡丹供養尽きるまで色惜しみけり

  

江藤文子(えとう・ふみこ) 1947年、福島県須賀川市生まれ。



    撮影・鈴木純一「鷹けっして鳩のとなりにすわらんよ」↑

2022年3月7日月曜日

松田ひろむ「秘するは花マスクは秘すにあらねども」(「鷗座」第425号・3月号)・・


 「鷗座」第425号・3月号(鷗座俳句会)、松田ひろむ「新俳句入門・番外編/師弟の道も恋に似る」の中の小見出し「師弟の愛憎」の部分に、


 〈かなかなや師弟の道も恋に似る〉(瀧春一)今日は藤田湘子『俳句の方法』(角川書店』を読む。本の内容は、湘子が俳句を始めてから、第一句集を刊行するまでの話だが、その大きなテーマは水原秋桜子との師弟愛憎模様である。(中略)

 (引用・〈愚生注:湘子の言葉〉

 瀧春一氏は新しい時代に生きる俳句のために、季語の桎梏を開放しなければならないといふ主張の下に、その主宰する「暖流」に新俳句綱領をかかげ、水原先生に無季容認をもとめた。(中略)

 それを敢えてしたのは、瀧氏の自信と、一種の弟子として甘へがあつたのかもしれない。師弟は争つたのではなく、お互いに相手の態度の変わることを願つたが、結局瀧春一氏は、〈蜩や師弟の道は恋に似る〉の一句を残して二十年相共に歩んだ「馬酔木」の道を離れて行つた(引用了)

「蜩や」の句は後年推敲し、「かなかなや」に改作したようである。

 

他に「瀧春一のこと。」の項に、


 現在では高屋窓秋はともかく、有馬登良夫を知るものはいない。しかし現代俳句協会の

創立にあたっては西の西東三鬼、東の有馬登良夫と称された存在で、かれは現代俳句協会の初代幹事長となり、しかも現代俳句協会の所在地は自宅であった。

 高屋窓秋と有馬登良夫は、瀧春一の「暖流」に参加し、無季容認の旗を振っている。


 とあった。また「阿部筲人のこと」の項で、阿部筲人(あべ・しょうじん)の『俳句ー四合目からの出発』(1984年、文一出版のちに講談社学術文庫)にふれて、愚生のブログ「大井恒行の日日彼是」から、すっかり失念していたが、2014年1月7日付け「句碑あれこれ」を引用、紹介して下さっている。そういえば、こんなことも書いたことがあったな、と思い出した。とはいえ、今でも、俳句入門書で、読んでおきたい一冊があるとするなら、この本を推している。とりわけ、伝統派を自認する方にはお薦めである。ともあれ、本号より、「招待席」の芹沢愛子の句を紹介しておきたい。


  「Me Too」とかすかな声が菊人形      芹沢愛子



 ところで、本号同人蘭の「酒杯あく間に田遊びの唄はじむ」「しばれるにああしばれると言い交す」の後藤よしみは、「小熊座」に「高柳重信の軌跡」(3月号で33回目)を数年に渡って連載されている後藤よしみと同一人なのであろうか。「小熊座」3月号との句柄「雪兎瞳とけゆくとき哭きぬ」「原発を馬塞にて囲み冬薔薇」とが相当に違うので、やはり同姓同名の別人の方ではなかろうかと思ったりした(埼玉が同じなので、やはり同一人かな・・)。ともあれ、本号より、幾人かの句を挙げておこう。


  能管の内側紅し春の雪       中條千枝 

  凍鶴になり切れぬ鶴空仰ぐ    長谷川ヱミ

  「北越雪譜」ふくら雀と良寛と   石口 榮

  神将は一段低し寒晴るる     白石みずき

  熱燗をぐいぐい幼馴染の訃     荒井 類 

  春よこい旅行鞄を詰めなおし    高橋透水



     撮影・芽夢野うのき「葉牡丹のもう何もほしくない渦」↑

2022年3月5日土曜日

叶裕「寄る辺なき身よりしぼれる咳ひとつ」(「Picnic」No.5)・・

 


  5・7・5作品集「Picnic」No.5(TARO冠者)、中に「りん句る」というのがある。


 りん句るは、5.7.5をしりとりのように繋いで言葉の万華鏡にしてみたいという野間の願望からスタートしました。

これには簡単なルールしか作らず、次々自在に作品を展開し、知らない世界を覗くのが趣旨です。言語の関係を組みたてる/スピードで閉ざされた扉を開こうとするのは無い物ねだりのようで楽しく、言葉が作り出す世界の大きさ、幼さ、不思議さを目の前に広げる終わりのない、遠近のない、船の旅の冒険のようです。


 とあった。基本は、5.7.5であること、前の人の作品から文字を使用する。しりとりではないから、繋ぐ意味で、「LINK句=りん句る」と名づけたという。一例を挙げると(太字が、直前の句から使った言葉)、


(前略) 月らが光にかわる下かな    野間幸恵

     女もぐる断黒くかがやいて   鈴木茂雄

     面積を奏でる落葉の残りけり    野間幸恵


 ともあれ、本集より一人一句を挙げておこう。

  

  にんげんにまだあるにんじんの素顔    木村オサム

  土瓶からボヘミアまでの伽藍堂       月波与生

  石並べ大和の国は月夜かな        中村美津江

  運慶快慶つゆあけの金平糖         妹尾 凛

  寒相撲張り手の音の遠くから         叶 裕

  寒ゆるむ手のうちにある丁と半      木下真理子

  針のない時計にはもう慣れました      榊 陽子

  エレベーター定員四人咳三人        岡村知昭

  あんのんとのんのんのんと船が出る     松井康子

  空 ぽつぽつと あみだぶつ      あみこうへい

  妄想のつれづれ残る鴨である        石田展子


            

  

★閑話休題・・香月泰男展(於:練馬立美術館、2月6日~3月27日)・・


 生誕100年・香月泰男展・2月6日(日)~3月27日(日)、於:練馬区立美術館(西武池袋線・中村橋駅下車徒歩3分 1Fは貫井図書館・電話03-3577-1821)。

 観覧料相互割引で、石神井公園ふるさと文化館特別展・生誕110年「作家・庄野潤三展 日常という特別」(1月15日~3月13日)。


 愚生から、遠い昔に、香月泰男の絵葉書を送られていたのを思い出した彼、美術館の近くに住んでいるらしい打田峨者んが、わざわざ、チラシを送ってくれた。是非とも行きたいところだが、愚生は事情あって、出るに出られぬ籠の鳥、きっといい展示だと思うので、お近くの方は行かれたい。



       芽夢野うのき「舞うことの叶わぬ草や仏の座」↑

2022年3月2日水曜日

松井国央「春の雷正義感こそ少し邪魔」(『流寓』)・・


 松井国央第3句集『流寓』(山河俳句会)、序は、髙野公一「『流寓』までー序にかえて」、その中に、


   花の野に立ち両耳がばかに暇

   滝の音浴び右肩に荷を移す

 自分が見えていて、それ故の滑稽感も漂うが、それでも季語がそんな自分を救済するのを許している。

   湯豆腐を掬いて今が懐かしい

   枯野の匂う今と言う抱き枕

 今、ここにあり、今しかないこの時を懐かしみ、そんな自分を抱きしめる。俳句でなければこの儀礼は成り立たない。


 とある。また、著者「あとがき」には、


 相変わらず道楽の域を出ない俳句を作っている。

 他人の句集などから刺激を得て、いつかは意欲的な作品を作ってみたいと奮起してみるが、歳の所為かその意気込みが長続きしない。

 そんな姿を反映するような句集とはなったが、やはり僕にとってはどれもいとおしい作品である。(中略)

 令和三年は僕の八十歳、そして我が夫婦の金婚と言う記念の年だ。この句集はそんな節目のメモリーとしておこうと思ったが、もとより俳句嫌いな妻にとってはきっと迷惑なことに違いない。「俳句に費やすエネルギーを仕事に向けてくれれば、老後はもっと楽に暮らせたのに」と、妻は今でも言い続けている。

 そんな妻にここで句集をささげては、火に油をそそぐような気もするので、今日まで良く我慢をし健康で過ごしてくれたことを感謝しつつ、句集は僕の傘寿の記念とすることにした。


 とあった。十数年前になると思うが、現代俳句協会の通信講座を、松井国央と故大牧広と愚生の三人で一年間担当したことがある。若輩の愚生にも、じつに親切にしていただいた。その時は、まだ「山河」の代表を務められていた(現代表は「豈」同人でもある山本敏倖)。さすがに、長い句歴ゆえの、やむを得ぬ追悼句が多くあったのはその歳月を思わせるものである。ともあれ。多くの印象に残る句群から、愚生の好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。


  かわほりの滲みでて来るからこの世     国央

  豚舎から猫が出てきて小六月

  凍て星や愚者には愚者の爪に垢

  鳶に先啼かれてしまう冬の凪

  さくら以後非常非常という日常

  事件事故どちらでもなお金魚の死

  八月や白紙に任意の点を置く

  戦争放棄この詩的言語を笑う蟬

  崩さねば夢を見ている冷奴

  廃校の時計が今を指し澄めり

  身に入むや右手が握る左の手

  騙し絵の中を漂うシャボン玉

  蟾蜍鳴けり安全保障という神話

  冬日向敵でも味方でもない漢

  雪明かり抓んで棺に収めたり

  天体や踊っているのは人ばかり


松井国央(まつい・くにひろ) 昭和16年、東京生まれ。



      撮影・鈴木純一「覇道なりバナナの皮を四度剥き」↑

2022年3月1日火曜日

津髙里永子「遺影すでに春のままなる和田悟朗」(『寸法直し』)・・


 

 津髙里永子第二句集『寸法直し』(東京四季出版)、帯の惹句は池田澄子、それには、


 津髙里永子に頼みごとをして断られたことがない。

 いつも自分のことは後回し。

 優しいのだ。

 優しさが対象を凝視させ、深い思い入れとなり、

 自身への微苦笑となり、俳句になる。


 とある。また、著者「あとが」の中に、


 句集名は〈寸法直しせずやしぐるるわが裾野〉からとりました。

 近所に洋服直ししてくれる店があり、肩幅や裾丈など、ちょくちょく直してもらっています。ほんのちょっと手を加えるだけで、とても着具合がよくなる不思議さに感心していましたが、そこのご主人から、大きいのを小さくするより、小さいのをひろげるほうがまだ、デザインもバランスも崩れず簡単なんです、とお聞きしたことがあります。(中略)

 去年九月に亡くなられた深見けん二先生には、何年も前に句集名を染筆していただいていたのですが、実際に句を集め始めると句集名を変更したくなり、ご逝去なさる二か月ほど前、高弟の山田閏子様を通じてお願いして、書き直して戴きました。感謝に堪えません。


 とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。


   憲法記念日からつぽの天袋        里永子

   特攻魚雷晒さる永久の日の盛

   津髙のツは津波の津の字地虫鳴く

   愛欲や手折りて氷柱手を滑る

   恋猫の脚ともかくも拭いてやろ

   遺書書いて呉るるか朧夜のをとこ

   噴水のこちら側にて生きてゐる

   真鶴の三羽ゆふぐれ二羽ひぐれ

   天に人をらぬ薄墨桜かな

   蟬鳴くか鳴くかと岩を撫でてゐる   

   激戦地跡にトーチカ遺る秋

   男女仕切られ撫づる嘆きの壁の冷


津髙里永子(つたか・りえこ) 1956年、兵庫県西宮市生まれ。

  


★閑話休題・・津髙里永子「愛の日に使ふ両面テープかな」(「ちょっと立ちどまって」2022.2)・・


 津髙つながりで、森澤程とのハガキ通信・2022.2「ちょっと立ちどまって」よりの句を挙げておこう。


  龍天に少女ときどき兎跳び     森澤 程

  部屋飼ひの兎ピアノが匂ひ出す  津髙里永子



撮影・中西ひろ美「男雛のみ譲りて逝きし人の名は書棚にありて日々に親しむ」↑