2022年3月19日土曜日

安井浩司「廻りそむ原動天や山菫」(「安井浩司『自選句抄 友よ』)・・


 

    救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(14ー1)


        廻りそむ原動天や山菫       安井浩司


 ジェイムス・ジョイスなどの訳者である柳瀬尚紀の著書『日本語は天才である』(新潮社)が二〇〇七年に出版された。安井七十一歳の第十四句集『山毛欅林と創造』が刊行された年である。安井浩司句集と柳瀬尚紀訳書が、日本語の宝庫であり、ルビも文字も日本語のすばらしさであり、日本語が、天才であることに驚嘆し、この年以後、安井の俳句の語に対して随分と考え方が変わった。

 難解であると感じる安井の句は、つまり日本語の豊かさを十分に駆使した結果の我々の未見の言葉に出合うからである。辞書等々で調べれば知り得る日常的な言葉と、日常を超えた日本語が組み合わされた俳句なのである。だから、安井の俳句は一般的な俳句であり、基本は五・七・五の音数によって書かれた俳句なのである。そして、五七調、七五調などの律による詩のリズムは、句の意味を介せずとも、すぐに俳句としての親しみを感じさせてしまう。つまり、俳句を詩のリズム(日本語の律)から考え、俳句は詩であるとすれば、キリスト教文学の最高峰とされる叙事詩『神曲』の「原動天」として、読み解ける句なのかもしれない。

 ところで、風人の風のたよりに運ばれてきたのだが、安井浩司の遺句集が、俳人酒巻英一郎等によって、秋田の雪どけとともに進められるとのこと。その句集名に『天獄書』と印されている。やはり、ダンテなのだ。『神曲』「天国篇」と「地獄篇」に対しての『天獄書』。いや、昭和六十三(一九八八)年の『汝と我』を第一巻とする『句篇・全』六巻に、『烏律律』(刊行)、『天獄書』(未刊)、八句集・「全」に対しての『神曲』であると言ってよいだろう。

 廻りはじめる。叙事詩『神曲』「天国篇」の最高天である〈至高天〉のまわり(・・・)を次の第九天である〈原動天〉が廻りはじめる。そして、「山菫」がある。

 菫は『万葉集』から、

  山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉

 西行「古郷の昔の庭を思い出でてすみれつみにくる人もがな」まで、「菫摘む」と詠われてきた。「菫摘む」詩の象徴から、「発見する」詩の表現へと芭蕉は「山路来て何やらゆしすみれ草」の一句をなした。安井もまた、掲句で「すみれ」を発見する。詩の世界の象徴と俳句の季語の同事であることを・・・。つまり、俳句は詩であるという安井の思想が書き出された一句であると言える。

   ◇ーーー◇

 それにしても〔安井浩司〕の俳句は不思議な俳句である。もう金輪際、読みたくないと思

えたり、俳句に現われた思想を学びつくしたいと考えたり、自由自在な俳句と言語の詩心に魅了されたりする。

 しかし、それ故の個的な思いを離れ、安井の願いを伝えたい。

『句篇・全』六巻の『宇宙開』の後記へと、「精神のコスモロジーが、そのまま俳句未来の礎の願いを」句集名に込めたと安井は記しているからである。安井以後の俳句世代へ、筆者のつたない読みで、「礎の願い」を伝えられるであろうか。残る時間はそう多くはない。

 まず、はじめに『安井浩司選句集』の「年譜」と「安井浩司インタビュー」から、掲句「廻りそむ」を考えていければよいのだが・・・。

 しかし、掲句の「廻りそむ」は安井の俳句の難解さが現われた典型的な句である。

 出来うれば、最後まで同行を願い、筆者の書き得なかった安井の詩の思いや願いを書いてほしいと切に願う。



        撮影・中西ひろ美「幸せに大小はなく桃の花」↑

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