2022年3月21日月曜日

河原枇杷男「野菊まで行くに四五人斃れけり」(「外山一機の/俳句のまなざし」より)・・


  東京新聞3月19日(土)夕刊の俳句時評欄「外山一機の/俳句のまなざし」に、「遠くを見据えた2人」と題して、


 今年一月、安井浩司が亡くなった。昭和十一年に生まれた安井は寺山修司らの「牧羊神」などを経て、昭和三十年代後半から四十年代にかけて「琴座」「俳句評論」「ユニコーン」などに参加し、独自の俳句表現を確立していった。

  キセル火の中止(エポケ)を図れる旅人よ  

  大鶫ふところの毬中(あた)るべし

  有耶無耶の関ふりむけば汝と我     (中略)

 安井の道行きは、それゆえ孤独なものであった。ただ、そんな安井にも、友人と呼べる存在があった。河原枇杷男である。

   身のなかのまつ暗がりの蛍狩り    (中略)

河原は昭和五年に生まれ、安井と同じく「琴座」「俳句評論」に参加した。見えざるもの、聞こえざるものを執拗に形象化する河原の句に安井は「地獄性」をかんじつつ、彼を「友人」と呼んだ(「行く方に就いて」、愚生注:『海辺のアポリア』邑書林、平成二十一)。ここには「遥かに遠いところ」を見据える者だけが分かち合えた切ない友情がある。その河原の追悼記事が今年「鬣TATEGAMI」(第八十二号)に掲載された。記事を執筆した林桂によると、河原はすでに平成二十九年に亡くなっていたという。

 もっとも、河原は平成十五年に上梓した『河原枇杷男全句集』(序曲社)をもって俳句との訣別を宣言していた。「近距離のものを射る」遊技場と化した俳壇に、河原の居場所はすでになかったのだ。

 

 とあった。愚生は、河原枇杷男には会っていない(たぶん)と思うが、安井浩司には、幾度かお会いし、秋田の家にもお邪魔したことがある。ただ、はっきりといつが最初であったかは覚えていないのだ。今、手元にある「未定」第70号・1996年11月(特集 安井浩司)の自筆年譜によると、「1983年(昭和58)、難病の折笠美秋を北里大学病院に見舞う。日本海中部地震あれど無事。七月に高柳重信の突然の死去。夏石番矢『猟常記』出版記念会に出席」とあったので、ここで、お会いしているはずである。というのも、夏石番矢の記念会は、高柳重信の告別式の日と重なり、告別の後に、皆、喪服のまま、夜のお祝いの出版記念会に駆けつけていたからだ。その意味で、伝説的な記念会になった(たしか渋谷の中華料理店であった)。ただ愚生は、高柳重信の葬儀にはついに行かなかった。それもあって、高柳重信は、いつまでも死することなく、愚生の胸に宿っていた。その後悔があって(つまり、死者に会い別れる葬儀は、生者のためのケジメと断念の儀式だとうことに気づく・・)、折笠美秋の際には、葬儀に伺ったことを、今も覚えているのだ(3月の雪が舞っていた)。 その後も、1984年(昭和59)、銀座「タカゲン」画廊の絵画+俳句展や「未定」10周年(88年・昭和63)、永田耕衣旭寿の会(90年)などで、出会っているはずなのだが、記憶に無い。結局、直接挨拶し、言葉を交わすことがなかったので、覚えていないのだろうと思う。あるいは、愚生の記憶力がいつも欠落し、無いせいなのかも知れないが・・・。

 その安井浩司最終句集『天獄書』(監修・酒巻英一郎 金魚屋プレス日本版)は、生前に企画され、句稿は出来、上梓予定だったが、間に合わなかった。いまは、句集と同時刊行を企画された『安井浩司読本』(同前)との上梓が待たれる。


       或る闇は蟲の形をして哭けり     枇杷男

  創世記這い出で来たる蛇女       浩司(未刊『天獄書』) 



   撮影・中西ひろ美「野生とはちがふ勁さを見せてあげる」↑

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