2014年7月31日木曜日

三橋孝子「紫黄忌のしんだふりして死んだのネ」・・・


「雷魚」99号に三橋孝子の句が掲載されている。たぶん三橋孝子は定期的には、唯一、この「雷魚」に句を発表しているのではなろうか。また、「雷魚」同人以外の方が「雷魚を読む」と題して前号評を寄稿されているが、今回は、広渡敬雄。前98号の三橋孝子「鳥雲にそばがら枕ならべほす」の句を、三橋孝子「表札は三橋敏雄永久の留守」、三橋敏雄「夜枕の蕎麦殻すさぶ郡かな」の句を引いて見事な鑑賞をしている。
今号の三橋孝子の句は、戦争を含め忌日に満たされている。

      きりかぶがならぶ斜面よ重信忌       孝子
      火口湖乃ゆうらん船や広島忌
      「ひばり伝」再読したり敗戦日
      遠富士のいただきけぶる魂まつり
      紫黄忌のしんだふりして死んだのネ
      
「遠富士」には三橋敏雄「裏富士は鴎を知らず魂まつり」の句を即座に思い起こさせるだろう。
日日逝った仲間の俳人たちのことに思いを馳せている。
三橋孝子は三鬼の最晩年の若き弟子。愚生が二十歳をわずかに出たころ、三橋敏雄に最初にあったその頃、三橋敏雄は溌剌として若き孝子と結婚したばかりだったようで、皆から羨ましがられていた。

     昭和遠しされど昭和史なお遠し
     とびきりの水密桃は仏壇に
     桐一葉ひび戦前をいしきする

その「雷魚」は次号百号をもって廃刊すると編集人・寺澤一雄が記し、八田木枯追悼号を出して退会した小宅容義の追悼号が出せないのは、自らの非力だと無念の思いを述べている。
その追悼・小宅容義の特集は「現代俳句」8月号(現代俳句協会)が掲載している。
もっとも、寺澤一雄の無念が達成されていれば、きっと違った特集になったと思うが、その無念の思いだけで十分・・・。

ナスの花↑

2014年7月27日日曜日

山本敏倖「仏にも非常口ある暑さかな」・・・



奇数月の第4土曜日は「豈」東京句会(第119回)である。
猛暑日だった。
「豈」56号は先週19日に校了にしてあるのだが、印刷所の都合などで、どうやら、出来上がるのが8月7~8日くらいになるらしい。ともあれ、お手元に届くまで、しばらくお待ちいただきたい。
それでは、句会参加者一人一句。高点句から・・・

     仏にも非常口ある暑さかな               山本敏倖
     立葵昇りつめた先がない                羽村美和子
     ちよつと魔がさし膕に汗たまる             吉田香津代
     垂直に今夜も呼びにくる守宮             小湊こぎく
     下京や水はねこぼす鱧の桶              堺谷真人
     皺(しぼ)の背や麻のスーツの吹かれおり      早瀬恵子
     鳩吹くや齢重ねて別の夜                福田葉子
     こつこつと一本道を来る酷暑             川名つぎお
     
     あはれみ【憐憫】命限りなく無限に近づけた時
              それがシシトウの花となす角度  鈴木純一 

     白馬より抜け出してゆく揚羽蝶            大井恒行


                                         サンゴジュ↑
     


2014年7月26日土曜日

牧羊社『現代俳句の精鋭Ⅰ~Ⅲ』のこと・・・


断捨離よろしく?本の整理をしようとしたら一冊の文庫に目がとまった。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)である。
ぱらぱらとめくると線引きがある。
かつて、愚生が『現代俳句の精鋭Ⅰ』への参加を求められて、句もないので、それでは書き下ろしで100句を書こうと、そのテキストに選んだ本が『本郷菊富士ホテル』だったのだ。
愚生のタイトルは「本郷菊坂菊富士ホテル」。
菊富士ホテルは羽田幸之助きくえ夫妻が営んだ下宿屋がその前身である。菊坂長泉寺内の地所を借りて建てられた下宿屋は、晴れた日には富士山が眺められたところから菊富士楼と命名された。その後、東京大博覧会の外国人客を見込んで様式ホテルに増築された。
時に大正三(1914)年、三月、地上三階地下一階、南端屋上に塔の部屋をもつ30室の菊富士ホテルが誕生した。(三階建てだが、真砂町あたりからだと五層の外観をもっていたらしい)。
大正5年,大杉栄と伊藤野枝が滞在、やがて竹久夢二、宇野浩二、広津和郎、三木清、宇野千代、直木三十五、坂口安吾、中条百合子など多くの作家、芸術家が止宿した。ホテルの地下の食堂は外国人でにぎわい、さながら人種のるつぼであったという。その菊富士ホテルの歴史は第二次大戦末期昭和19年には旭電化の寮として売却され、東京空襲で灰燼となった。わずか30年の命脈だった。が、1920、30年代の日本の爛熟と、背中合わせのように、民衆への弾圧の時間を垣間見せてくれる光と影の風景だった、ように思う。
話を『現代俳句の精鋭』に戻すと、1~から3巻まで約40名の若い俳人たち各100句のアンソロジーである。この本の企画と編集をしたのが、いまは無き牧羊社社員、現在のふらんす堂社主・山岡喜美子女史である。その若き俳人たちのかなりがいまは大家の仲間入りをしているのだから、その慧眼と実行力には敬服せざるを得ない。
一巻の帯文には「俳句のルネッサンスがはじまる。 20代30代作家を一堂に結集して現代俳句の可能性に挑戦。1985年の作品100句を収録した精選アンソロジー。俳句の現在を映し出し、新しい夜明けを告げる。1986年版」とある。まぶしいばかりだが、今もなおこれを越える新人輩出のための企画はないに等しい。それから数年後、愚生の「俳句空間」の雑詠欄から登場した有望新人をあつめた「俳句空間」新鋭作家集『燦』、『耀』も規模からすれば、後塵を拝した(近年では『新撰21』が出色)。
その『現代俳句の精鋭Ⅰ』に、いわゆる俳壇とは遠かった愚生が入集しているのはひとえに山岡女史の慫慂によるものであった。感謝している。ちと、恥ずかしいがいくつかの句を以下に再録しておきたい。

     たびたびは狂えぬ花の咲きほこる         恒行
     胸にたまる汗と見(まみ)えし名は彦乃
     唇は血のくちづけで憐愛さる
     致死量の毒と思いて唇吸えり
     米騒動富強の国家文化鍋
     わが祖国愚直に桜散りゆくよ
     月光のあふれる駅をまたぎけり
     天奥に河原ひろがる春の午後
     一葉に裏日記あり菊の花
     十月は真一文字に消えゆけり



2014年7月24日木曜日

たむらちせい「好摩氏によろしく螢狩に来いと」(今泉康弘氏)・・・


『たむらちせい全句集』が出た。懇切な解説は「蝶」を継承した味元昭次。序には、無二の句仲間という伊丹三樹彦、祝詩を伊丹公子。これまでの『海市』『めくら心経』『兎鹿野抄』『山市』『雨飾』『菫歌』6冊の句集に加えて、未刊句集として『日日』が収載されている。
タイトルの句は、2012年11月に行われた「蝶」俳句大会に、今泉康弘が出席し、今泉が所属する同人誌「円錐」の発行人澤好摩のことを詠んだ句だ。
愚生も以前、「未定」同人だった時代に澤好摩から、四国は土佐に、たむらちせい、味元昭次がいると、よく聞かされていた。
たむらちせいは本名・田村智正。1928(昭和3)年、土佐市生まれ。19歳で俳句を作り始め「馬酔木に投句。佐野まもるに学び、1960年「青玄」に入会し伊丹三樹彦に師事した。76年、同人誌「海嶺」を創刊し、のち83年「蝶」と改題した。
たむらちせい86歳、,いまだ健在である。以下に未刊句集『日日』から句を挙げておこう。

      炉心溶融(メルトダウン)と地平を共にして螢      ちせい
      木乃伊様よりわたくしミイラ行水す
      弔辞読む誤植のように蝶が来て
      どこからが人間どこからがくちなは
      キス ではない日の丸の血の痕だ
      妻あれば他はのぞまず豆ごはん
      日蝕のはじまるゑんどうごはん噴く
      たらちねは此の世にひとり梨の花
      一句一遺書一句一遺書青嵐


                 サルスベリ↑

2014年7月23日水曜日

福島小蕾「封切つて兵のにほひを知る時雨」・・・


愚生、不明にして福島小蕾のことは、ほとんど何も知らなかった。
このたび恵まれた一本、森田廣著『出雲純系 刻々のいのちー福島小蕾』(霧工房)によってようやく多くの小蕾の句に接することができた。
「あとがき」によると俳誌「地帯」『2010年末、通巻710号をもって終刊)に1987(昭和62)年から93(平成5)年まで「先師仰望」のタイトルで連載された福島小蕾作品鑑賞を収録したもの。
福島小蕾(ふくしま・しょうらい)は1891(明治24)年島根県安来市生まれ、「出雲に小蕾あり」と言われたらしい。虚子「ホトトギス」から臼田亜浪「石楠」で活躍、1925(大正14)年「礼讃」創刊(のち「白日」。戦後「地帯」を創刊主宰した。「季の本質は、瞬時も止まらず無限に推移し、現象を現象たらしめている時間である」(「存在論的季論)を説いたという

       山人よ大き灯ともせ秋の暮       小蕾
       青梅の噛むよろこびのなほ存す
       夏の夜の階は無明へかしぎをり
       胸の底から棒つきあがり咳以上
       人一語われ一語さみだれをつなぐ

同時に恵まれた俳誌が「ひこばえ」(13号・別冊)で、まるまる一冊が清水愛一「変容、メタモルフォーゼという装置ー日本語のシンタックスと存在論の問題について」(森田廣句集『邂逅の河』論)である。
ずいぶん昔のことになるが、若き清水愛一に会ったことがある(たぶん新宿の喫茶「らんぶる」)。そのころから犀利な評論を書いていたが、この度は、森田廣論を引っさげて、俳句の言語の特性を述べたものである。音信の絶えていた清水愛一は健在だったのだ。
「変容するところに俳句成立の鍵がある」という森田廣の言説に拘ってのものである。この論のなかで引用、論じられた句の一つが森田廣「首だして春の山から切手貼る」の句に対しての福島小蕾「封切つて兵のにほひを知る時雨」なのである。

なかに永田耕衣の「季霊憑依の事」が引用されているので、孫引きになるが紹介しておこう。

第一義底の俳句は、《季霊》憑依の文学である。旧来の季題季語に《季霊》を感応しないかぎり、人生的なオモシロイ作品は現成しがたい。憑依とは、このさい「松の事は松に習う」のではなく「松に成る」事だ、といった方がヨリ真実である。したがって、我がリアリズムはアニミズムによる超現実である。超現実といっても、在来の自己感覚を攪乱捏造した前衛詩的遊戯の中途半端な姿であってはなるまい。健やかなるべき《季霊憑依》の種種相はソレを許さない。

       石ころまじる生いたちいぬふぐり  森田廣『邂逅の河』(霧工房)より
       枯八方われのほかには煙なし
       無月かな体内はいま太(たい)出雲
      上流の五月に舌をあてにゆく
      たちながら眠る媼や山ざくら
      桃宇宙ついに帆船したたらす
      たましいを互いにはずし鮎啖う
      生まれたての老人にたつ朝の虹



                   オシロイバナ↑

2014年7月22日火曜日

『漱石東京百句』記念 第5回船団フォーラム・・・


先週、7月19日(土)に、日本出版クラブ会館で行われた、百句シリーズ『漱石東京百句』(坪内稔典・三宅やよい編、創風社刊)のフォーラムに出かけた。講演は「漱石の感受性」と題して中島国彦。パネルディスカッションは司会に坪内稔典、パネラーに田中亜美、八木忠栄、三宅やよい。
当日は雨模様ながら、神楽坂界隈は祭りの人出でにぎわっていた。
地下鉄神楽坂駅を降りて、赤城神社にでもお参りしてからと思ったが、浴衣姿の若い女性たちが参道にあふれるほど並んでいたので、お参りはあきらめ遠くから拝んだのみ。
通りに戻って出版クラブ会館に向おうとしたところでねじめ正一氏に久しぶりで会った。
氏は、愚生が勤めていた吉祥寺駅ビルロンロン(現在はアトレ)の本屋の並びのねじめ民芸店におられた。お互いがまだ20歳代のころだ。
愚生が詩歌の担当で、彼の詩集が入ると棚にならべていた(ねじめさんはよく見にきておられた)。
そうこうするうちに、少し言葉をかわすようになり(お互い恥ずかしかったのだ)、愚生の『本屋戦国記』(北宋社)の出版記念会を四谷弘済会館でやったときに、ねじめ氏は詩の朗読、福島泰樹氏が短歌絶叫をやっていただいた。
当時の愚生は、まだ俳人を公に名乗っていなかったので、書店労働組合の闘争史だった『本屋戦国記』に花を添えていただいたのはいまだに光栄の思っている。
思えば、この出版記念会の発起人の一人が埴谷雄高氏で、すでに眼を少し悪くされていた埴氏は夜の外出はひかえられていた。その埴谷氏は自分の本が出ると(自身の本は売れないとおもってらしたので)、その都度、書店店頭に並べる30冊くらいにサインをしていただいていたのだ(もちろん『死霊』はもう売れていた時代だった)。
発起人になっていただくときも「ぼくの名がでると迷惑がかかるんじゃないか・・それでもよければ」とおっしゃって引き受けてくださった。
その氏のエピソードを一つ。
あるとき春闘の最中で赤い腕章を腕につけたまま、埴谷氏とお茶を飲んでいたら、氏が「それはなんですか」と尋ねられ、「春闘」です、と答えたら、「春闘ってなんですか?」と言われた、戦前からの闘士で政治論集まで出されているイメージがあったので、そのときは驚いた。
氏は風呂が好きで、近くの井の頭公園をよく散歩していた。
従って愚生は、氏とは難しい話をした記憶がない。
その記念会には300人ほどの参加があったが、中には京都から埴谷さんに会いに来た(愚生にではなく)という人もいた。俳人はほんとんどいなかったが、それでも攝津幸彦さんなど数人に案内状を差し上げて出席していただいた。
話を元にもどすと、船団フォーラムの会場に少し早めに着いてしまったねじめ氏と愚生は、これまた病癒えてすっかり元気になった坪内氏と三人で歓談。思えば20代後半で坪内氏の「現代俳句」(ぬ書房のち南方社刊)創刊に作品30句を依頼されて、愚生は、およそ三年間の休筆から、俳句復帰を果たしたのだった。
 ところで、フォーラム参加者は漱石に因む一句を投句することができて、懇親会で披露ということだったが、愚生は用事ができて失礼したので、詳細は不明である。愚生の投じた句は以下・・。

           それからは屏風に聞ける水の音     恒行
   

*閑話休題・・・
今日は帝劇、明日は三越ではないが、都内にでたついでに今日は帝国劇場そばの出光美術館「鉄斎」を観た。富岡鉄斎、歳をとって晩年の墨のみで描いた絵の奔放自在が特にいい。それも80歳代。
ついでに、山種美術館「クールな男とおしゃれな女ー絵の中のよそおい」、三菱一号館美術館「冷たい炎の画家ーヴァロットン展」も・・

2014年7月18日金曜日

大高芭瑠子「冬夜声出すカーテン裏の小悪魔」・・・


「面」117号は大高芭瑠子追悼特集である。
愚生の想い出に残っている大高芭瑠子はいつも夫君の大高弘達と一緒のおられる光景だ。
とても静かな、それでいて、お互いに気遣いあっている、仲のよい夫婦という感じだった。それもこれもいつも大高弘達が杖を支えに歩く、その傍にそっといるという風情だった。美しい光景だった。
「面」の同人のなかでも数少なくなった西東三鬼直系の弟子である。その三鬼主宰「断崖」に入会したのは1955(昭和30)年、23歳の時だ。それは結核治療のために入院した有隣病院(世田谷区)でのこと。その院内に夫君大高弘達が支部長を務める「断崖」東京支部があった。現六本木ルーテル教会の洗礼を受けたのもそのころのことである。
1962(昭和37)年、三鬼が逝去し「断崖」が終刊すると、翌年1963年、大高弘達を編集発行人とする「面」が創刊された。1970年大高弘達とともに「俳句評論」同人。
1992(平成4)年、大高弘達編『西東三鬼の世界』(梅里書房)では、体調思わしくなかった弘達を助けて「西東三鬼・人と作品」②を執筆した。
「面」117号大高芭瑠子追悼号には「御霊に捧ぐ」として追悼句が寄せられている。以下に一句ずつを挙げておく。

     守護されしごとく葉陰の白椿           網野月を
     コータツさん呼ぶ芭瑠子さんの忌なりけり   池田澄子
     春待てば今宵静かに玻璃の船         上田 玄
     ぜいたくな「金の針」かな芭瑠子の忌      衣斐ちづ子
     花衣つくろふべしや金の針            岡田一夫
     姉と呼びたきその面差よ永遠に常に      加茂達彌
     秋の蛍ひとつが消えて逝きし森         北上正枝
     山裾へ下りくる紅葉かなしけり          小林幹彦
     天馬駆る人ありありと緑の夜          渋川京子
     露の庭坂を知らずに育ちしと          高橋 龍
     鷹生さんあれは辛夷よ寂芭瑠子さん     田口鷹生
     金の針降らさむ天の落葉松も         遠山陽子
     桐の花いまパライソに咲きいるや       福田葉子
     春帽子後れ毛靡く遠クルス           本多和子
     緯糸に金のひとすぢ秋逝けり          宮地久子
     しなやかに追悼号を発つ胡蝶         山本鬼之介
     青い鳥金枝をくわえ飛びたてり         北川美美 

「金の針」は大高芭瑠子句集(梅里書房刊)。2013年10月25日逝去、享年81。

    厄日かな地面を歩く数多の蝶         芭瑠子
    枯草の音出す投網干されては
    蜜柑山の枝の蜜柑に口づけす
    三鬼忌の磁石の針のたゆたふも
    夏の山微塵と砕けよ紫黄亡し


               ナツツバキの実↑

2014年7月14日月曜日

「現代俳句」7月号・ブックエリア・・



「現代俳句」7月号に「豈」同人の二冊の書評が掲載されている。
川名つぎお句集『豈』(現代俳句協会)と筑紫磐井句集『我が時代ー二〇〇四年~二〇一三年』(実業公報社)である。評者は前著が山本敏倖、後著は八木幹夫。それぞれ、その句集の特徴をよくとらえた評となっている。
例えば山本敏倖は、

    荒地あり月曜日が届けられる
    縄文の忘れものなり梅雨山河
    草食の行きつく果ての鎖国かな
    蓋なきパンドラの箱の中だった
  二句目の縄文の句以外はすべて無季である。この句集の特徴として無季、通季の句の多いことに気づく。まさに現代俳句の一面を意識させられる。
  荒れた地があり、そこへ週の仕事始めの月曜日が届けられると、月曜日をモノ化する事で荒地をどうにかしたいという意図が汲みとれる。(中略)かの神話中のすべての悪と災いを封じ込めたパンドラの箱、現在の立ち位置が蓋のないその箱の中だった。この機智的設定だけで物語は無限の様相を呈する。

と記し、また、八木幹夫は、

     柱時計の刻む時間はいまとちがふ
   季語がない。字余りだ。これは俳句ではないと失笑する俳人たちをさらに失笑する筑紫がここに立っている。言葉は時々刻々、「時代」と交錯し変化する。「時間」の質的な変化を見事に捉えた句。
     流行歌実にゆつくり雪がふる
     さういふものに私はなりたくない
     バカといふイヴのつぶやき天の園 
     犬を飼ふ 飼ふたびに死ぬ 犬を飼ふ
        (略)
     悪い子がいい子をいぢめ水遊び
        (略)
     欲望が輝いてゐた戦後とは
 第二部の〈総括〉として「律(形式)を自由に」と示された作品は深く日本語の奥行きと意味の両義性をとらえた鎮魂の名詩。痛快な句集である。

と評している。これ以上に読みたいという興味ある方は「現代俳句」7月号を是非ご覧いただきたい。


*閑話休題。
少しバタついて、このブログを書けなかった間に、山口県は大内中学校時代の同窓会を開催する前に、上京するので、一度会いたいというK君からの便りがあって、会った。ちょうど半世紀、50年ほど会っていないのだ。まるで初めて会ったようなものだが、それでも、中学時代の卒業アルバムをみると面影がある。故郷のあれこれのことを話してくれた。今度、いつ会えるかもわからない。お互いそういう年齢になってしまったというべきか。彼の家の付近にはまだ青々とした田圃の風景がひろがっている写真を持参してくれた。比して愚生の育ったあたりは、田畑の多くが住宅地となり、いまや町名が変更されようとする事態になっているらしい。


               ノウゼンカズラ↑
   

2014年7月6日日曜日

「鷹の百人」・・・


昨日は「鷹」50周年の祝賀会が東京會舘で行われた。
まずはお祝い申し上げたい。
その記念事業の一環で「鷹」2014年7月号別冊「鷹年譜・鷹の百人」を恵まれた。
それには、前主宰藤田湘子をはじめ飯島晴子、倉橋羊村、高山夕美(秦由美)、寺田絵津子、高野途上、飯名陽子(遠山陽子)、鳥海むねき、栗林千津、永島靖子、増山美島、星野石雀、大庭紫蓬、仁藤さくら、後藤綾子、四ッ谷龍、冬野虹、山地春眠子など挙げればきりがない懐かしくも錚々たるメンバーが代表的な15句と略歴、一句鑑賞が付されているのだから有難い。。鷹俳句賞受賞者を中心に編まれたとあるが、100人目は現主宰小川軽舟で99人目は、現編集長の高柳克弘である。
そうした百人のなかで、愚生がかつてもっとも注目していた俳人がしょうり大であった。しょうり大の本名は大塚勝利、最初にであったのは坪内捻典の「現代俳句」だったと思う。
「豈」創刊(1980年6月)同人であったが、同人名はあったものの創刊号に作品を発表し、以後その作品を見ることはかなわなかった。

   おどりこぼれて心と白しはなしやうぶ     
   津のまがも詩をなせ死後の枕にも
   群れてめじろ(・・・傍点あり)木にもろもろの晴れ間つくる
   雪景を近江にみたり人麻呂も
   
「鷹の百人」での句からは、
  
  老人の声に血のつく山ききよう
  つぐみとぶ重心はうす暗くなり
  肉声をのぼるサフランなどついに
  甲斐は雨さ渡る鵠(くい)のいや細し
  わたりどり抒情の僧を州にわたす


もう一つ。鷹創刊五十周年記念『季語別鷹俳句集』(ふらんす堂)には、春夏秋冬以外に雑の項目を巻尾に立てていて、そこに以下のしょうり大の句があった。

  こぶしこちさら他人をよそおう未明の種子
  山の鳥くだるに白い飯を盛る
  からすなど吊るされ飯を待つ老婆
  男らにたたみおもてのふちゆるび
  温度計のぼりつめたりもののかお

そうそう、思い出したことを一つ・・・
藤田湘子存命のときのことである。あるとき、愚生にこう尋ねた。
「お前のところに高山れおな、っているのがいるだろう。考え方が面白いね」。リップサービスだったかも知れないが、ああ、若い俳人のことまで、よく読んでいるな、と思たのだった。
また、「俳句空間」を愚生が継いで最初の特集が寺山修司の俳句だったが、それを湘子は新聞の時評いっぱいに書いて激励していただいたことを思い起こす。たぶんそれは、かつて「鷹」と「俳句評論」の若手が留学と称して句会などを相互に開いていたりしたこともあっての、亡き高柳重信系と思われた再生「俳句空間」への餞だったのだろう。
ともかく、れおなの話をして少し後だったか、高山れおなが「鷹」のコラムに執筆しているのを発見したのは・・

  

               ギンバイカ↑

  

2014年7月5日土曜日

筑紫磐井選誌上句集「攝津幸彦」と仁平勝選「攝津幸彦の100句」・・・


               
「俳壇」7月号の誌上句集は攝津幸彦、筑紫磐井選による100句。解説タイトルは「皇国前衛歌の衝撃」とあって、それには「『皇国前衛歌)は戦前の皇国史観を下敷きにしたパロディだと思われているが、皇国対前衛という異種衝突であるだけではなく、皇国=広告というパロディでもあり、俳句であるにもかかわらず歌と名づけられるというさなざまな仕掛けが組み込まれている」とある。攝津幸彦が広告代理店旭通信社の雑誌部社員だったことを考え合わせると納得のいく理解である。この100句選を見ながら、前回のブログの仁平勝つながりで、彼の攝津幸彦100句選(『12の現代俳人論・下』、角川選書)を思い起こした。
つまり、お互いがどのような選句基準で100句を選んだかというところだが、愚生が総合誌に、ある俳人の100句選を依頼されたとすると、自らの好みのいくばくかはあるとしても、一応は人口に膾炙しているであろう句は選に入れるだろう、と思う。その意味で、筑紫磐井の選はそれなりのオーソドックスな選だった、といえよう。それに比べると仁平勝の選句は、自らの俳句観や好みに偏した選句であると言ってさしつかえはないように思える(もちろん、愚生の選句の好みと合っているのも多々あるが)。
典型的な例を一つ挙げておくと、「国歌よりワタクシ大事さくらんぼ」の句は、仁平勝100句選には入っていない。実は先の仁平勝著『露地裏の散歩者ー俳人攝津幸彦』(邑書林)にも収載されたが、初出は攝津幸彦句集『陸々集』(弘栄堂書店・1992年)の「別冊『陸々集』を読むための現代俳句入門」では、その本の帯にもなっている、

   これは『陸々集』の思想的な俳句マニフェストにほかならない。デビュー当時《民草やかやつり草こそ意気昂し》や《南国に死して御恩のみなみかぜ》といった一連の皇国ものによって、国家が大事と思う思想を徹底的にパロディ化してみせた攝津が、自らの俳句に関わる思想的な根拠を「国家よりワタクシ大事」と表現してみせたのである。そして現代の俳句の根拠もまたそこにあるのだと、僕はあらためて断言しておきたい。 

見事に攝津幸彦の在り様を示した仁平勝の句の読みだったことで、ずいぶん人口に膾炙した句となった。しかし、仁平勝は100句選には入れなかった。虚子選から漏れた「鶏頭の十四五本もありぬべし」のようなものかもしれない。

ともあれ、それぞれ、二様の攝津幸彦句の100選、ちなみに筑紫磐井選と仁平勝選が重なったのが40句、4割だった。
あとひとつ興味深いことがある。攝津幸彦死去直前のほとんど100句に近い、自選96句(未刊句61句を含む『四五一句』抄「南国忌」(『21世紀俳句ガイダンス』現代俳句協会刊・1997年)の攝津幸彦の自選と合わせて三名が重複した句は以下の通り(四五一は華氏の温度で紙が燃え上がる温度、ブラッドベリの小説もある)。

   みづいろやつひに立たざる夢の肉
   くぢらじやくなま温かき愛の際
   南浦和のダリヤを仮のあはれとす
   幾千代も散るは美し明日は三越
   南国に死して御恩のみなみかぜ
   物干しに美しき知事垂れてをり
   菊月夜君はライトを守りけり
   淋しさを許せばからだに当たる鯛
   大古よりあゝ背後よりレエン・コオト
   してゐる冬の傘屋も淋しい声を上ぐ
   日輪のわけても行進曲(マーチ)淋しけれ
   野を帰る父のひとりは化粧して
   天心に鶴折る時の響きあり
   何となく生きてゐたいの更衣
   麺棒と認め尺取り虫帰る
   露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな
   黒船の黒の淋しさ靴にあり
   荒星や毛布にくるむサキソフォン
   厳父たれ蚊取線香滅ぶとも


                バショウ↑