2018年5月31日木曜日

矢田鏃「露何か無残ににがき絞り水」〈「連衆」NO.80より)・・・



 「連衆」第80号、平成元年に谷口慎也が創刊して30年の個人誌である。現在は実に多くの個人誌が存在するが、当時は個人誌がほとんどなかったように思う。ただ、現在の個人誌の多くは、発行人である個人がすべてを負担しているようだが、「連衆」はたぶん掲載料をその都度払うシステムだったように思う。
 愚生と、谷口慎也は一度だけだと思うが会ったことがある。東京で「谷口慎也を囲む会」を妹尾健太郎が企画した会で、攝津幸彦も健在で一緒に出掛けた記憶がある。
愚生が編集人だった弘栄堂書店版「俳句空間」の俳句時評をお願いしたこともある。当時(30年前)、若手の有望な俳人として、九州にこの人あり、と思っての依頼だった。
 ブログタイトルに挙げた招待作家・矢田鏃は、耕衣「琴座」の同人で注目していた俳人の一人だった。「琴座」終刊ののちは何処にも属さず、孤高の印象だったが、最近は、「琴座」の系譜につらなる「らん」で健吟の様子である。昭和28年、大分県生まれというから、愚生より5歳も若い。まだまだこれからの人である。本誌より他の句を挙げておこう。正調である。

  満月は曇らざりける柱かな    鏃
  朝顔や真午の影の多かりき
  或いは北或いは西と蟻の道

 「連衆」誌には、実は「豈」の同人と被っている人も多い(もっとも、「豈」はこのところ一年に一度の刊行がやっとだから、作品発表への意欲旺盛な作家はそれでいいと思う)。以下に、「豈」同人にプラス、愚生が知っている人の句を挙げておこう。

  ブラスバンド雨に濡れをり星条旗     夏木 久
  春寒の骨美しく写されて        羽村美和子
  黄色な「い」を呼ぶうすくらがりの「ん」 普川 洋
  老人や鯛の半身が反り返る        松井康子  
  春コートのをんな大きな荷物かな     瀬戸正洋
  死んだもの死んでないもの恵方より    森さかえ
  ケネディーの脳天からのあげひばり    川村蘭太
  渡り鳥呼び込むように砂の息       加藤知子
  初櫻取っ手付かないドアばかり      鍬塚聡子
  舟遊び人語歓語を乗せて行く       吉田健治
  記紀・万葉なべて被曝と云う空よ     谷口慎也
  突かれて突かれて断崖絶壁        情野千里
  
 その他、藤田踏青「前号十句選評」の、「日常に拮抗して自立する言葉を追跡するのは難しい」の言葉にも苦闘が伺えた。



2018年5月30日水曜日

西行「見るも憂しいかにかすべき我心かゝる報いの罪やありける」(『批評の魂』より)・・



 前田英樹『批評の魂』(新潮社)、「批評の魂」の初出誌は「新潮」2016年1月号~12月号、2017年2月号~5月号まで。最後の第16章「批評が未完の自画像であること」の結びは、昭和54年秋、小林秀雄と川上徹太郎の最後の「文學界」誌上で行われた録音盤を聞きながら前田英樹は以下のように述べている。

 ふたりは、共に、したたかに酩酊し、こう言い合う。「批評家って、居ないもんだなあ」。この言葉の孤独に、私は涙が出た。しかし、それだけではない。批評の魂が、どれほどの深みから人間を救うものであるか、生きることを教えるものであるか、そのこともまた、私は信じ直すほかなかったのである。

また、別のところでは、

 孤独な未完の自画像を描き続ける批評の魂は、停滞を知らない。仕立て上げられた知識の凝固も腐敗も、ここでは無縁のものだ。批評の魂が頼むものは、「万事頼むべからず」という、確認され続けるこの意志である。だが、このような意志は、一体どこから、どんな具合にやって来ることができるのだろう。これについて、何かをはっきり言うことは実に難しい。(中略)
 そこにある言葉はみな、白鳥が持つ魂の底からの素直さ、正直さ、在るがままに在る物への真っ直ぐな信仰、いかに生きるべきかを求め続ける澄んだ、裸の心、そういうものを指す。批評の魂を支え、養い続けるものは、この賦性以外に実はない。これは、いかにも解らせにくいことだろう。

という。批評の魂とは、実に痛ましくも、沈黙の淵に沈むかのような何かであるのかもしれない。苦闘といえば苦闘のなかに我が身をさらすことの謂いであろうか。
 因みに、ブログタイトルに挙げた西行の歌は、「地獄絵を見て」と題される連作の一首である。それを、「『彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想った正直な人間の荒々しい悩みであった』(「西行」)。
 西行のこの歌をこのよう読み、語り切った人間は、小林の前にはいなかった」と前田英樹は述べている。
  話題を転じるが、愚生が30歳代の約10年間、新陰流兵法を学んだ折りの事実上の師範代が、まだ大学院の学生だった前田英樹だった。愚生は、その刀勢稽古を離れてしまったが、素振りをするわけでもないのに、いまだにその時に使っていた、木刀、模擬刀、袋竹刀を棄てられずにいる。傍にあるだけで少し落ち着くのである。前田英樹は、今は自宅近くに道場を持ち、午前中は執筆、午後は道場に出向いて、真剣での一人稽古をすると聞いた。文武両道とはまさに彼に与えられた道のようである。その魂は見事に一体なのである。またも前田英樹は言う。

 「自我」とは、近代ロマン主義が高唱した例のヨーロッパ式自意識のことではない。近代に蘇り、新たに覚醒した「士魂」のことである。したがって、彼らが「日本のアウトサイダー」たることを強いられて産み出した「自我の文学」とは、日本の近代にはっきり在らねばならない〈士大夫の文学〉のことだった。

  前田英樹(まえだ・ひでき)、1951年、大阪生まれ。



2018年5月29日火曜日

白石かずこ「熱い 暗い 夏が 独り すわっている」(『白石かずこ詩集成Ⅰ』より)・・・



 『白石かずこ詩集成Ⅰ、Ⅱ』(書肆山田)、もうすぐ刊行の第3巻で完結する。各巻投げ入れの栞文には、付録として、これまでに過去に書かれたものの再録と新たに書き下ろされたものとが併録されている。因みに1巻付録には四谷シモン「ぷくぷくと・・・」(2017年)、森茉莉「菫色のマントオ」(1969年)、吉岡実「白石かずこと詩」(1968年)、大岡信「白石かずこの詩」(1975年)。2巻付録には、平田俊子「無垢と無心」(2018年)、笠井叡「ダンス作品『今晩は荒れ模様』に至るまで」(2018年)、蜂飼耳「天然の詩人・白石かずこ」(2018年)、八木忠栄「エピソード三つーそういう人」(2017年)、水田宗子「白石かずこと水無川のほとりで。」(2018年)。高橋睦郎「かずこ詩試論」(1968年)、伊藤比呂美「真理」(2018年)。
 ブログタイトルに挙げた一行は、「死んだジョン・コルトレーンに捧げる」という詩の中の一行だ。この詩を「かずこ詩試論」の最後に引用した髙橋睦郎は、およそ50年前に以下のようにも書いている。

  (前略)常識的に言えば、離婚は典型的な不幸である。しかし、かずこのような本来的に天上性の聖女にとっては、まず以って結婚じたいが不幸である。不幸は不幸を以って癒されなければならない。すなわち、結婚は離婚によって癒されなければならない。そして、ジャズとは私のごとく初歩的な理解によれば、原罪的な不幸を嘆きと叫びで克服する一種の儀式である。したがって、これらに影響されたかずこの新しい方法とは、不幸を克服するのに不幸を以ってする方法でばければならなかった。

 あるいはまた、伊藤比呂美は栞文の結びに、

 真理ですよ。
 かずこさんは真理を語っていたのですよ。
 もっと若い時に聞いておけばよかった。そして今は思うのだ。かずこさんが身を張って、「女」であることに流されず、妥協なく、こうやって性を、性行為を、性的なことを、ことばで表現する道を切り開いていってくれたから、後から行く道は歩きやすくなっ
ていた。

 と記している。愚生はといえば、白石かずこを追いかけるように読んできたわけではない。しかし、若き日、書店の棚にあった『聖なる淫者の季節』を躊躇なく買ったことを覚えている。その後は、加藤郁乎賞の授賞式に必ずといっていいくらいに駈けつけていた白石かずこを見ていただけだ。彼女がお兄ちゃんといっていた郁乎は七年ほど前に逝った。
 本集成Ⅱの「単行本未収録詩篇1968-1978」の「人が死ぬ」にその郁乎が出てくる。

  人が死ぬ
  誰が死んだ?
  お母さんが死んだ
  イクヤがいう
  犬は裏でなく 腹がすいたといい
  男は表でなく 別れたくないといい
  だが、四月は桜が咲き
  雪が トツゼン ふり
  人が死ぬ
  人が人と別れる
      (以下略)

 栞のなかでは、とりわけ、森茉莉「黄色のマントオ」が、白石かずこをその人を髣髴とさせるようなタッチで描かれていて、心に沁みた。


           撮影・葛城綾呂 チェリセージ↑

2018年5月28日月曜日

三宅桃子「ごきぶり叩く芯のない筒つくり」(「豆の木」NO.22)・・・



 「豆の木」第22号、第23回20句競作「豆の木賞」に選ばれたのが三宅桃子。略歴に1983年生れ。22歳のとき、母・三宅やよいの紹介で、こしのゆみこの「土やき研究会」で陶芸を始め、俳句は「豆の木」がきっかけで、30歳から作句を開始したとある。2016年には「陸」に入会とあって、母子俳人である。互選評には、万遍なく評価点を得ているようで、宮本佳世乃は、

  客観的にカラッと日常を描いている。言葉に負担をかけていないところが良い。

といい、こしのゆみこは、

 ただごとすぎると思える句もあるのが残念だが、ひょうようとしてとぼけた味わいがおもしろい。肩の力が抜ける感じ。「夕焼くる犬を一匹洗い終え」「渡り鳥が焼きついている家族写真」「ひぐらしを壊さぬようにスープのむ」

と評している。その他、同人の月野ぽぽなの第63回角川俳句賞「人のかたち」評を鴇田智哉、第35回現代俳句新人賞「ぽつねんと」宮本佳世乃評を小津夜景、そのほか、「海程」系同人誌らしく「金子兜太先生と私」の追悼エッセイなどけっこう読み応えがある。中でも力作は片岡秀樹「言霊と戦争」巻の壱「中世・近世編」、連歌・俳諧における戦とのかかわりをよく調べよく書いている。こしのゆみこの海外「旅のノート」⑲は歩数が記されているのが面白い。よく歩いている。愚生にとっては少し羨ましい人生の過ごし方。
ともあれ、一人一句を以下に挙げておこう。

   きさらぎや櫛で梳かれた影を引き    三宅桃子
   なんでも食べるみづうみも山も霧   宮本佳世乃
   赤ん坊の酸っぱい指よ夏つばめ     室田洋子
   音楽は水でありけり春来る     矢羽野智津子
   ひとりづつ霞む小学生の花壇      山岸由佳
   飛魚を炙つて梟カフェにゐる      吉田悦花 
   待春の静脈は青髪を切る        吉野秀彦
   高圧をかけた炭素が売れる冬      石山昼桜
   人造人間ノリコの茶摘プログラム    上野葉月
   肘に蟻あつまつてゐる根釈迦かな    大石雄鬼
   春の月より下ろしたる梯子かな    太田うさぎ
   モノポリー蜆が砂を吐く間       岡田由季
   三姉妹めいて総務課竹の春       小野裕三
   正座から嘘の転がる冬日向       柏柳明子
   標的になる為座る冬の椅子       片岡秀樹
   きっとという言葉リボン柳絮飛ぶ   川田由美子
   アパシーの縁より崩れかき氷      楠本奇蹄
   手袋のかたち置手紙のかたち    こしのゆみこ
   本日の噴水はもう終りです       近 恵
   あたらしき有刺鉄線水の秋      齋藤朝比古
   造船所の奥に火花や海月浮く     嵯峨根鈴子
   綾瀬はるか似といへども雪女    しまいちろう
   晩秋や歌になれない水たまり      鈴木健司
   いつからか鸚鵡ボートは濡れてゐる   高橋洋子
   男女なく龍に呑まれし桃の国      田島健一
   万緑や軽い軋みとしてわたし     月野ぽぽな
   人間を消したがる街冴え返る      峠谷清広
   長い通(みち)のりだった梅咲いている 中内火星
   ファルセット・ヴォイス流氷呼び寄せる 中嶋憲武
   戀といふ名の旅をしてゐたと言へ   三島ゆかり




★閑話休題・・・
     
 無念ながら、かつて「豈」同人、現在「夢座」同人の佐藤榮市氏の訃報がもたらされた。
23日に死去。密葬にて27日告別。享年69は愚生と同齢。

   大兄の訃を聞く今朝の走り梅雨    恒行

ご冥福を祈る。合掌。


        

  

2018年5月27日日曜日

小町圭「青空と夏草のある現住所」(「豈」第142回句会)・・・


 
 昨日は、隔月開催の「豈」第142回句会だった。都合で、いつもの白金台ではなく、愚生の地元・ル・シーニュ6階・府中市民活動センタープラッツの第4会議室で行われた。今回は、「豈」同人以外の参加の方々も多く、多彩な句をみせていただいた。
 以下に一人一句を挙げておこう。

  白鷺の声より男こぼれ来て      羽村美和子
  籐椅子に邂逅といふ孤島かな      木本隆行
  河童忌やわれ十代の蔵書印       武藤 幹
     大國魂神社
  婚の儀の竜笛そよぐ五月かな      椿屋実梛
  蛇の讖(しん)双子は聴きて火を炊けり 笠原タカコ
  ひじき苅彳亍(てきちょく)として暗礁(いくり)かな 大熊九碼
  ぬれぎぬのままの手ざわり罌粟の花   杉本青三郎
  新じゃが煮えにくし世界見えにくし    渕上信子
  
  棚曇る
  空に知られぬ
  笑ひ積み               酒巻英一郎
  
  黒揚羽抱く白百合の黙秘かな     たなべきよみ
  夏空に非戦を誓うきりん犀       小町 圭
  風は木に木は風になる風の谷      大井恒行



      武蔵小金井「スイッチ」にて、左より武藤、たなべ、酒巻各氏↑

 句会の後、5階の茶店「オレンジ ブーツ」で一時間ほど有機ホットコーヒーでしばし歓談したあと、酒巻氏が愚息・龍彦の開店祝いを兼ねて「スイッチ」で飲むとのありがたい提案。府中駅から京王バスで武蔵小金井駅に移動した。



           撮影・葛城綾呂 カタバミ↑  
   
  

2018年5月25日金曜日

加藤元重「地震のまへ枯桃の丘かへりみき」(『加藤元重句文集』)・・



 岩片仁次編『加藤元重句文集ー戦後編』(「鬣の会」風の花冠文庫)、目次を見ると、俳句、詩編、散文に附篇「策が今日吟行記」(「睦月」昭和16年12月号)、そして加藤元重略伝を岩片仁次、解説が林桂。
 加藤元重についてはご存知ない方も多いと思う。愚生もほとんど知らない。ただ、岩片仁次が発行していた「夢幻航海」でお目にかかったことがあるように思う。戦前から髙柳重信と俳句の歩みをほぼ共にしながら「俳句評論」には参加しなかった(文章は求められて書いているようであるが)。岩片仁次による略伝には、

 昭和二十一年九月十日付けの岩片宛て高柳重信の書信に、戦後復刊した俳句誌「群」の同人の名と年齢が記されている。高柳惠幻子・早大卒二十四歳、加藤藻太・早大卒二十八歳とある。当時はまだ数え年であるから、高柳の生年大正十二年から逆算すれば、元重は大正七年生れ。高柳重信は法科、専門部で学徒動員により繰上卒業だったが、四年年長の加藤元重は学部の定時卒であろうか。学部は何となく理工系であったような気がする。

とあり、また、

 高柳重信と山本篤子との結婚には彼の貢献があった。二人は結婚前二度程大森の家に訪れているし、肺病で無職の青年に妹はやれないと一旦連れ戻され、軟禁状態にあった。(中略)山本家の出入りが見える近所の二階で高柳と二人で見張り、夕刻買い物に出た篤子を連れて高柳にという結末があった。篤子との離婚の原因であるN女には近寄りたくなかったであろう。但し、かれは善意の人である。重信没後その書信をN女に贈った。彼女は悪女であった。貴重な重信資料となったであろうその書信を廃棄してしまった。

と記されている。N女とは中村苑子のことである。加藤元重繋がりで、「鬣」第67号には、本書の刊行後に発見された新資料「薔薇」昭和31年1月号の「薔薇」創刊3周年の記録加藤元重「大会の記」が掲載されている。出席者には富澤赤黄男、三橋鷹女、寺田澄史、関口比良男、高柳重信、多賀よし子、鳥海多佳男、大原テルカズ、岩片仁次など24名の名と句が掲載されている。
 また本号には、金子兜太追悼特集のほか、「鬣」俳句賞受賞者(清水伶・百瀬石濤子)の論も発表されている。
 そうそう金子兜太特集・水野真由美「富岡製糸工場の煉瓦塀」で思い出したことがある。
 水野真由美の文の結びに兜太が「『ニヒリズムか?そんなに俺を買い被るなよ』と笑った」とあったが、或る時愚生が、兜太に一番影響を受けられた思想は何ですか?と野暮な質問をしたときに、「俺は実存主義だよ」と答えられた。愚生らの世代も、戦後一世を風靡したサルトルをはじめとする実存主義にはけっこう影響を受けた。それは戦後の混乱期、マルクス主義もさることながら、サルトルの唱えた「アンガージュマン」、単純に、自己を投企することへの希望の魅力だったように思う。




ともあれ、加藤元重の句をいくつか、以下に挙げておこう。


     惠幻子に再会 しきりに俳句をすすめらる
  なにはあれこの友の見よはうはつを      元重
     門外下出
  東京の秋を呆乎と黙りゐる
   
  晝には
  夜をよびさます
  罅のかんむり
  ほたるいか
    
  うたひ
  ねむり
  うたひ
  ねむり

  沼
  
  うかぶ
  白い目

    回転木馬
  おかしの おばけ
  おもちやの おばけ
  ぱぱと
  ままとの
  泣きべそ おばけ 






   

2018年5月24日木曜日

鈴木六林男「われわれとわかれしわれにいなびかり」(「香天」別巻1『香天を携えて』より)・・



「香天」は通巻51号で、創刊10周年である。慶賀申し上げる。最近の岡田耕治の傾向としては、毎号100句以上の句が発表されていて、正直にいうとすべてを読み通すことが困難である。愚生が若い頃は、俳句を作る時に、「報告にならないように」と教えられたものだが、最近の俳壇では岡田耕治に限らず、作った句を片端から発表する(報告)傾向にあるらしい。例えば今号の代表作品は「駅の牛乳」と題して、最初の句は、

    高知六句
  後ろから見て冬晴れの龍馬像     耕治
  脱藩の道に出てをり若菜摘
  ストーブと女が灯り朝の市
  
と続く。六林男ならさしずめ「日記にでも書いておけ」と言いそうな句である。三句目は「灯り」にわずかに計らいが見えるが、それも平凡?か・・・。こんな苦言を言いたくなるのも、愚生が年をとったせいか、妄言はなはだしいというべきかも知れない。許されよ!。岡田耕治の先輩筋にあたる久保純夫や土井英一には、愚生が二十歳代初めの頃、真っ当に厳しいことを言われたような記憶もある。でもそれはありがたい諫めの言葉だったと思って、今でも感謝している。
 六林男は気難しい男だと言われていたが、会うとけっこう優しかった。愚生40歳代だったと思うが、現代俳句協会の幹事をやっていた時(当時は選挙で選出されていた)、組織の会員数1万人体制を目指していた金子兜太の活動方針にも真っ向から苦言を呈していた。小川双々子もそうで、幾度かその場面にも居合わせたことがある。「香天」は、常に六林男の句を雑誌に掲げているくらいだから、うるさい六林男の志のいくばくかは、今も継承されていると思いたいだけなのかもしれない。
 いろいろ愚痴を言ったが、「香天」10周年以後の歩みは如何なる道のりになるのか期待して見たいと思う。
 ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておきたい(岡田耕治以外は愚生が山口県生まれなので、そのよしみで、ご当地の人の句を挙げる)。

  われを射ちし米兵も夏痩せにけり    鈴木六林男
  目的をもつ爆弾の去年今年
  ぶらんこにずれはじめたる虚空かな    岡田耕治
  きりぎりす鳴き終えてから飛び立ちぬ
  曼珠沙華拒まれている赤さとも     浅海紀代子
  初蟬やそれと分かるに間のありて     中濱信子
  どこからも斜に見えて雪だるま     藤川美佐子



           撮影・葛城綾呂 桑の実↑


2018年5月23日水曜日

吉村毬子「水底のものらに抱かれ流し雛」(「LOTUS」第38号より)・・



「LOTUS」第38号(LOTUS俳句会)の特集は、吉村毬子追悼号である。追悼文には、福田葉子・清水愛一・田中亜美・志賀康・救仁郷由美子・九堂夜想。作品評には鶴山裕司・江田浩司・三宅やよい・松下カロ・三枝桂子、一句鑑賞などを含め、LOTUS同人以外にも多くの執筆陣を揃えて愛惜を深めている。中では吉村毬子四百句(酒巻英一郎・三枝佳子・九堂夜想・表健太郎共選)、吉村毬子俳言抄は、テキストとしてありがたい。
 多くの方々の評言を紹介したいが、ここでは松下カロ「一対の器である言葉ー吉村毬子とわたし」から以下に引用しておこう。

 もし、毬子の中の普遍性に触れようとするならば、読者の方が変わらなければならない。変容できない読者は彼女の内側には立入れない。彼らに見えるのは、毬子という器の外側(それもまた美麗な曲線を描いてはいるのだが)だけである。(中略)
 三島由紀夫(1925~1970)の死に際して、知人の多くが〈彼は常に死を背負っていたが、本当に死ぬとは思わなかった〉と書いた。(中略)ふたりについて考えると、男であることと女であることは、つきつめれば近付くことがわかる。三島は好むと好まざるとに関わらず読者に傷のような印象を与える作家である。わたしは吉村毬子の作品を読んで、これからも多くの傷を得たいと思う。わたしたちは一対の器であったが、今、毬子は遠く去った器であり、わたしは彼女が残した器である。

 加えて、さすがに九堂夜想は「憑きと、祓えと」として、次のように結んでいる。

 詩と人生の修羅の果てに、吉村俳句は、ついに凄絶なる”練習曲”に終りました。しかし、これほどの美と句格と内実を備えた習作(エチュード)を、今現在書きうる俳句作家がどれほどいるでしょうか。切に祈ります。貴女の冥福を。そして、そう遠くない未来に、『手毬唄』を大いなる糧として新たな俳句作家が立ち現れんことを。

以下に吉村毬子四百句よりいくつか挙げておきたい。

  五月雨や母といふ字も雨が降る     毬子
  飲食のあと戦争を見る海を見る
  人の影木の影連れて鳥の影
  海螢媼翁と透きとほる
  水鳥の和音に還る手毬唄
  朝貌や浄土も穢土も空のこと
  もくせいよみづきみづから眠らせたまへ
  ああ花野乳房に窓を開けませう
  はつはつと胞衣納めして夏富士よ
  一髪も紐もない水妖忌
  咽仏なくてみづみづしき寒林
  
  毬かへす
  沖の 
  翁へ
  潮千鳥

  吐かぬ浅蜊
  開かぬ浅蜊
  誰の忌や

吉村毬子(よしむら・まりこ)、本名・広美、1962年、山形県生まれ。享年55。



             撮影・葛城綾呂 シャガ↑


2018年5月22日火曜日

花谷清「カルネアデスの板の漂う青地球」(『球殻』)・・



 花谷清第二句集『球殻』(ふらんす堂、装幀・和兎)、集名は、

   かぎりなく危き救殻雁渡る     清

 の句に因む。「球殻(きゅうかく)」とは聞きなれない言葉だが、れっきとしてあるらしい。ごく簡単にいうとピンポン玉のように中身がない球のこと。もっとも、少し調べると物理学用語らしいので専門家にはそれなりの理屈がかくされているのだろう。ブログタイトルにあげた句の「カルネアデスの板」も哲学的な命題、遭難した船に板が流れてきて、その板につかまれば一人は助かるが二人は無理で、一人を突き落として助かった人を責められるか?というようなもとになっている命題らしい。こうした趣向を句に取り込んでくるのは、和田悟朗に私淑した花谷清ならではのものだろう。掲句では厳密にいえば青地球に季語・季語的な情趣はないが、句としては人間的な深い問いがひそんでいる。



 
本句集とほぼ同時期に刊行された『藍 合同句集 第11集』は「藍」の創刊45周年記念事業だとある。清の母・花谷和子も健在のようで、何より慶賀である。合同句集には以下の句も掲載されている。

   こころにも奥やジャスミンなお奥へ   花谷和子
   しゃぼん玉ひとつふたつは空を蹴り   花谷 清
   見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く     日野草城

「俳句は東洋の真珠である」とは、和子師の日野草城の言葉。今年はその没後62年にあたるという。
 ともあれ、句集『球殻」より、いくつかの句を挙げておこう。

   未だ見ず落ちる途中の紅椿      
   時間より狭き空間つばくらめ     
   海から吹きここからは薔薇の風
      K先生
   つゆけしやチェルノブイリの首飾り
   折目から灼ける折鶴色なきまで
      悼・和田悟朗先生
   紫外から遠赤外へ夜の虹
   雪だるま類型超えること難し
   質量の前の等号冬隣

花谷清(はなたに・きよし) 1947年、大阪府豊中市生まれ。


          撮影・葛城綾呂 キララ↑

   

2018年5月20日日曜日

橋本明「回覧板滲みて十軒走り梅雨」(第179回遊句会)・・・



 先日の17日(木)は第179回遊句会(於:たい乃家)だった。ちょうど一年前の5月18日(木)が、愚生が初めて遊句会に参加した日だ。遊句会では唯一の俳人?を名乗ってる愚生だが、並み居る俳人諸氏との句会でも、愚生は、あまり点は入らないのであるが、それは遊句会でも変わらない。今回は、三句すべて開かず、ボウズであった。それでも楽しく、愚生とは違って、人生の哀感深い先輩諸氏ばかりであるので郷に従っている。
 実はこのブログも毎回すぐに句会報が送られてくるので、書き、アップできているようなものである。地味ながら句会報をまとめ欠席投句を受け付け、その記録を残し続けている人が居て、しかも毎回の司会進行役を順番で行い、次回の兼題も順番で出し、平等に運営されてからであろうか、専門俳人がいなくても15年間も続いてきた仲間(連衆)の力になっているのだろう(ただし、新たに句会メンバーになるには、合議で承認されなければ認められないらしい)。
 ともあれ、一人一句を以下に挙げておこう。兼題は、立夏・走り梅雨・母の日。

  母の日にゃ花なんぞいらねかえってこ   渡辺 保
  樹には樹の草には草の香(か)夏に入る  天畠良光
  母の日の宵に届いたぶっきらぼう    春風亭昇吉
  吊り革の二の腕まぶし夏に入る     中山よしこ
  母の日や指と心に灸痕(やいとあと)   橋本 明
  盗塁の指の先より夏に入る       たなべきよみ
  走り梅雨万年床を傍(わき)に見つ    山田浩明  
  真夏日もとっくに過ぎて立夏かな     前田勝己
  汚染土の袋濡らすや走り梅雨       川島紘一
  働くも遊ぶも久し立夏かな        石原友夫
  母の日や今日一日の柔らかき       村上直樹
  木漏れ日のおどる墓石に立夏かな     武藤 幹
  母の日や赤白分けし昭和の子      植松隆一郎
  あまつさえ母の日忘れ日の母も      大井恒行

★欠席投句・・・

  晩酌はコップにしよう夏に入る      加藤智也
  母の日はすき焼きにすると母の言い   原島なほみ
  薄衣(うすぎぬ)の裾たくし上げ立夏かな 林 桂子

 記念すべき180回の次回は、6月21日(木)、兼題は、袋掛(ふくろがけ)・アカシアの花・鱚。




  
  
  
  

2018年5月18日金曜日

大井恒行「スイッチバックの登攀もあり夏はじめ」(「switch」開店に寄せて)・・・



 愚息・龍彦の小さな店「スマイルダイニング スイッチ(switch)」がJR武蔵小金井駅北口徒歩3分ほどの処に、明日19日(土)グランドオープンする。本日はプレオープンで関係者にのみお披露目だった。いくばくかの借金を背負っての出発なので、店の成否によっては我が家の命運もおのずから決しようというもの。リーズナブル、カジュアルな店なので、お近くのお越しの際は気楽に覗いてやって下さい。予約も可。椅子総数はカウンターを入れても13席ほどの小さな店、ガラス張りなので外からも見えるオープンな感じの店である。
 開店時間は17時~24時(ラストオーダー23時30分)、定休日は火曜。
武蔵小金井北口ドン・キホーテ店のちょうど裏あたり,一つ通りを隔てて、周りは飲食街である。
 愚生は、いまだに、子育ては何もしなかったと責められている身ながら、嘆きの息子が何とかなってもらいたいと思うのは人並みに親バカということなのだろう。そして愚かな親の一句を献上する次第・・・

    スイッチバックの登攀もあり夏はじめ   恒行



           龍彦↑です・・・。






2018年5月16日水曜日

伊丹三樹彦「白寿とや 年の新(あら)たも摂播で」(『伊丹三樹彦白寿記念誌』)・・


 
 『伊丹三樹彦白寿記念誌』(沖積舎)、巻頭の伊丹三樹彦近影には、本年「平成30年1月2日 明石稲爪神社前にて 撮影*伊丹啓子」が掲げられている。自身の「白寿の会に万謝して」には、

 私は1920年生れの大正人間だ。今年は数えで白寿となった。マンションでの独居暮しの身に、月例四度のサロン句会には攝播の句友が集う。その席上で、「青玄」同窓会も兼ねての祝賀会を開きたいとの声が出た。牧野すず子を主とする発起人の人たちである。サロン句会の「土日会」「三樹門会」「三樹賛会」合同であ。昨冬は初の合同吟行を播州福崎の應聖寺でした。

とある。「摂播」は「摂津と播磨」のこととあった。伊丹三樹彦は2005年7月10日脳梗塞で倒れ入院し、「青玄」も607号(2006年1月号)で終刊、闘病の末の復活、というより以前にもましての句作三昧である。記念誌にふさわしく、三樹彦の年頭吟他の作品に加えて、たむらちせい「伊丹三樹彦の俳句人生」、伊丹啓子「伊丹三樹彦の歩んだ道」、伊丹啓子・小嶋良之・鈴木啓造・政成一行の「鑑賞・三樹彦の一句」、また「伊丹三樹彦著書目録」、「伊丹三樹彦・公子句碑一覧」、「伊丹三樹彦受賞歴」など、伊丹三樹彦の全貌の基礎資料を求めるには、よい資料ともなるはずだ。金子兜太とは、現代俳句協会の興隆に尽力した盟友であり、その俳句活動においては、日野草城門下、新興俳句出身最後の生き残りでもある。益々の長寿を祈念したい。
 さらに同封されてきた誌「駅」第65号には、愚生がかつて久保純夫らとともに「獣園」創刊同人であった城喜代美の作品に数十年ぶりにめぐりあった。同誌同号掲載の伊丹三樹彦句ととも以下に挙げておきたい。

  池や川や海や 城崎の水変化(へんげ)    伊丹三樹彦
  烏瓜哀しきまでに朱を灯し          城 喜代美


       

★閑話休題・・・・

 一昨日、5月14日(月)、新宿・京王プラザホテルで行われた「株式会社文學の森創立15周年祝賀会および各賞贈賞式」に出席した。愚生は、実に久しぶりに旧知の方々ともお会いすることができた。
 因みに第8回北斗賞は、堀切克洋「尺蠖の道」、選考委員からの言葉は鳥居真里子。第19回山本健吉評論賞は、小沢麻結「行方克己第一句集『無言劇』を読む」、選考委員からの言葉は大輪靖宏、小林貴子。第10回文學の森大賞は坂口昌弘『ヴァーサス日本文化精神史』、藤木俱子『星辰』,選考の言葉は今瀬剛一。また、今回は、就任なった新社長・寺田敬子、新編集長・河口静魚の抱負の挨拶もあった。姜其東は会長職に。


    

                                 文學の森 社長・寺田敬子↑


「俳句界」編集長・河内静魚↑


第10回文學の森大賞 坂口昌弘↑


           第8回北斗賞 堀切克洋(左は選考委員の鳥居真里子)↑

                                 

撮影・葛城綾呂 ハナカタバミ↑

2018年5月13日日曜日

墨作二郎「いつも奈落の 大きな下駄に履きかえる」(『尾張一宮在』)・・・



 墨作二郎『尾張一宮在』(昭和56年、初版限定500部私家版・平成6年再販)、序文は山村祐。跋文は定金冬二、解説は川崎三郎。すべて鬼籍に入られている。墨作二郎は平成28年12月23日、享年90、天寿を全うした。序のなかで、山村祐は墨作二郎との出会いについて、
 
 私が作二郎と知り合ったのは、当時の革新的な川柳作家たちが昭和三十二年始めに創立した全国的な団体「現代川柳作家連盟」の初期の頃かと思う。その機関誌「現代川柳」や、河野春三氏の「天馬」今井鴨平氏の「川柳現代」などへ精力的に作品を発表していた。(中略)
 俳句→長律川柳→現在の句風、とかなり著しい変貌を遂げてきたもとが解る。
 しかし彼の作品は、いくら長律でも、決して説明臭に陥ることのなかったのが鮮やかな印象として残っている。(中略)現在の作品を読むと、俳句のすぐれた要素—特に切字の思想などを、川柳のなかでいかに活かすかということも、かなり意識的に試みているように感じられる。

と記している。愚生が今、作品を読むと、いわゆるかつての前衛俳句風なのである。その意味でたぶん当時のいわゆる前衛川柳もいわゆる前衛俳句もほとんど表面上は見分けがつかなかったのではないだろうか、と思う。そして、その作品の難解さについて、定金冬二は、跋に、
  
  「肌で感じる作品があってもいい」というのがぼくの考えだが、作二郎の作品にはそれが多いようである。
 肌で感じたものが、心にかげを落とす。そのかげを手掛かりに作品に食いついて行かないと、その努力をしないと、いつ迄も理解はできまい。

と述べている。また、解説の川崎三郎は、

 しかし、川柳表現の喩に独白性が深くなることは、いいかえれば作品を喚起する批評性がしだいに希薄になることに鋭くつながっている問題なのである。川柳表現の本質的なつよさに諷刺や笑い、うがちなどがきわめて重要な意味をもっているが、川柳の独白性が強くなっていけばいくほどこの要素が淡白になっていくように思われてならない。勿論、諷刺や笑いやうがちといっても、その方法をそのまま古川柳に直結させるわけではないが、この要素は川柳形式のような短い表現方法を自在に自立させるためには多分に重要な意味を果たしているといってよいのである。

という。本集の成り立ちについては著者が「あとがき」に、

 昨年四月三十日、名古屋での勤務を終えて帰堺した。三年二ヶ月、この三度目の単身赴任生活もまた川柳によって啓発され、大いに精神安定の支えになったものと思っている。過去、札幌時代を「凍原の墓標」とし、東京時代の句会作品を「東京」として纏めたように、この句集「尾張一宮在」も同じ意味と存在責任を果すものである。

と冒頭に記し、

 次に作品配列は作句順と関わりなく、一宮在住期間を一期として思うままにした。一字アケ一頁二句建ては言語空間の「読み」に応えたつもりである。
 何れにせよ、川柳の持続と近代性を考えた場合、現代川柳は今ほど困難なことはない。その渦中にあって私は「より一層ひるむことなき発展を遂げるべき」川柳の将来を思っている。他のジャンルの短詩形文学よりも高い可能性を信じている。

と述べている。川柳にも川柳作家にも熱く滾っている時代があったことを思う。だが、それは、いまだにその提出されている課題は続いているといっていいのだろう。現在只今も現代俳句と同じく過渡の詩として奮闘中なのである。
ともあれ、集中いくつかの句を以下に挙げておこう。

  ばざあるの らくがきの汽車北を指す    作二郎
  駅の全長 静かな花と人は去る     
  少年の うしろの闇は地に坐る
  砂時計 きよう一日は萌黄する
  神さまは許してくれる 綱わたり
  

2018年5月11日金曜日

石寒太「紅梅はいま青鮫の兜太征く」(「オルガン」13号より)・・




「オルガン」13号(発行・鴇田智哉)、ブログタイトルにした石寒太の発句は「オルガン初の追善興行にして客人発句」(宮本佳世乃・留書)だという。連衆の初句のみを以下に紹介しておこう。

   追善 オン座六句「兜太征く」の巻  璞・捌/抜け芝・差合見

紅梅はいま青鮫の兜太征く      石 寒太
 岬に列しおくる春風        浅沼 璞
てのひらを並べてふたつ地がひらき  鴇田智哉
 飛行船から振子時計の       宮﨑莉々香
月うつりたる丸文字の映画館     宮本佳世乃
 照らされながら喋る関取      田島健一

眷属のあつまつて原つぱとなり    北野抜け芝 

                       以下略

 特集のような記事は、白井明大と宮本佳世乃の対談。主要には白井明大詩集『生きようと生きるほうへ』(2015年・思潮社)をめぐるやりとりなのだが、当然ながら、宮本佳世乃の句にも言及されている。対談もさることながら「言祝ぎの春 旧暦のある暮らし展」第二夜の(2018年1月27日)「見る、思う」の資料に付されている白井明大による宮本佳世乃10句選と宮本佳世乃自選10句が「あじさゐのほとんどの白となり海よ」の句以外にはまったく重なっていないということも興味あることだ。俳句作品はそれほど読者と作者では思う思いに乖離があるということか、面白いことである。また、白井明大の発言では、

  書けていない、書かない以前に、書けないと書かざるを得ないの間くらい、書くとしたらこうするしかなかったけど、自分の意の外にあるものもまとめて出すということをする、「未詩」のものも入れる必要がある、そうしないと状況に太刀打ちできないと思いました。

 とあって、書くことと作品として発表することの困難な行がみえているように思えた。
 ともあれ、以下に同号より一人一句を・・・、

  ひとつひとつの虻が時計にかはる森    鴇田智哉
  佐保姫は薄らぐ虹の肩を持つ       福田若之
  まらかすな景色の春が忘れられず    宮﨑莉々香
  かたばみを洗濯物の風のくる      宮本佳世乃
  駅おぼろ完成予定図とちがう       田島健一



          撮影・葛城綾呂 ハナカタバミ↑

2018年5月10日木曜日

髙橋龍「身の廻り日常(ひび)取り囲む核の黙」(『上屋敷』)・・



 髙橋龍第15句集『上屋敷』(高橋人形舎・私家版)、集名の由来については、長い「あとがき」の冒頭に、

 上屋敷(かみやしき)はわたしの郷里、千葉県葛飾郡流山町(現・流山市)の地名である。ただし、戸籍や公文書の大字や小字ではなく、地元の人の通称であった。

とある。もっともこの長い「ととがき」は実に洒落た読み物風な部分もあり、つい引き込まれてしまう。最後には、

 満八十八歳。ボケも甚だしい。作品は昨年十二月から今年三月までの駄作。
                           平成三十年四月一日

と記されているが、その直前には、いかにも高橋龍らしい物言いが続いている。以下に引用しよう。

 わたしのように七十年も俳句を作りつづけていると、それらの多くが自己模倣であることには、うすうす感づいていたが、それを類語反復と物々しくはっきり言われると返す言葉もない。
 言葉=意味が迷信であることに気付けば、言葉の美しさは中身(指示表出)にではなく、岡持(自己表出)にあり、音声言語であれば形式に込められた語彙の音韻、形式を形作る韻律。視覚言語であれば、形象文字の場合、形態の微妙なちがい、あるいは漢字ひらがな片仮名の配列などに気を配る。現代俳句の推進者であった山口誓子の功績に、明朝活字の新鮮な働きは多分に感じられる。

 傘寿だという。師友の忌日の句も多くなるのもしかたない。例えば、

   検察は検閲の孫三鬼の忌             龍
   品川区旗の台とぞ郁乎の忌
   沖の捨鵜は稲羽上鵜(いなばうはう)と重信忌
   帆を揚げる路傍のピアノ三橋忌
   塹壕外套(バーバリーコート)にTAKAYA窓秋忌
   ハバロフスクに山羊座の墜ちる鵞(わがとり)
   もえぎ野に半鐘鳴らす折笠忌

 鵞(わがとり)は、大岡頌司である。「鵞」という雑誌を出していたのだ。
ともあれ、本集より、句をいくつか挙げておこう。

   アウシュビッツに死刑の紙型遺しある
   性欲(むらむら)に空もむらむら雲の峰
   ヒロシマは忌中の簾何時までも
   初秋(あきぐち)は直前の未来死後(じきにまだまだあのよ)へも
     「じきにまだまだ」は柳瀬尚紀の訳語
   船上が戦場に雁渡り来る
   木枯の果ては火星をめぐる風




             撮影・葛城綾呂 ツルニチニチソウ↑
   
  

2018年5月8日火曜日

戸恒東人「日本に若き日々あり労働祭」(『学舎』)・・



 戸恒東人第9句集『学舎(まなびや)』(雙峰書房)、集名は以下の句に因んでいよう。

  学舎は為桜(ゐおう)の園ぞ筑波東風   東人

為桜については、「あとがき」に次のように記されいる。

 下妻一高は、父と私の五人兄弟(姉二人、弟、妹)の全てが学び卒業した学校で、「為桜(ゐおう)の園」という美称がある。昭和三十九年に高校を卒業して以来五十四年、いまなお母郷下妻への思いは深く、筑波山を眺めると自然に涙ぐむ。こうした感情はどこから来るのだろうか。

 加えて句集表紙に用いられた装丁の写真は、茨城県立下妻第一高等学校、昭和39年3月卒業アルバムの卒業生全員の集合写真から採られている。戸恒東人は「この写真を見るたびに、母校下妻一高の恩愛を忘れることは出きない」という。しかも題簽「学舎」も自ら揮毫したものである。いささかの晩年への思いがそうさせているのかも知れない。
 思えば、戸恒東人は『誓子ーわがこころの帆』で第14回加藤郁乎賞を受賞した。その受賞は加藤郁乎存命中、最後の加藤郁乎賞となったものだ。しかも郁乎は、無念にも体調を崩して入院し、授賞式への出席が叶わなかった。つまり、加藤郁乎単独選によって選ばれた最後の名誉ある加藤郁乎賞となったのである。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   瓢箪より出でし駒もて飛馬(ひめ)
   しろがねは色のはじまり辛夷の芽
   淅瀝と寒九の雨となりにけり
   有平棒(アルヘイボウ)まはる西口名残雪
   母の忌や上枝(ほつえ)かがよふ姫辛夷
   料峭やしこりの解けぬ盆の窪
   誰が魂を抱けばかく濃き八重桜
   凍星や闇に重力あるごとく
   凩や母郷のうからすべて老い

戸恒東人(とつね・はるひと)、昭和20年、茨城県生れ。



          撮影・葛城綾呂 ヒメヒオウギ↑







2018年5月7日月曜日

舛田傜子「浦上の空蟬が鳴く骨が泣く」(『陶器の馬』)・・



 舛田傜子句集『陶器の馬』(文學の森・私家版)、今時、贅沢といえば贅沢な本作りで、帙入り、本文は三椏の和紙に活版印刷である。集名は、以下の句に因んでいるだろう。

   陶器の馬二頭洗って大つごもり     傜子

 作者には、掲句以外にも「二」の数字を含む句が意外にある。いずれも佳句である。例えば、

  二丁目の盆踊り三丁目の闇の中
  寒柝を湯で聞く平成二年元旦二時
  たくあんの尻尾叩いて春二番
  パンジーの二重瞼は未来さす
  百二歳神馬炎暑の眼がしずか
  楕円形の淋しさ二月の茹で玉子
  トマト八つ切り二句一章の雲の峰
  楠若葉石仏二体瞑想中
  去年今年トンネル二つ真っ向に

という具合である。また、自分史を記した「あとがき」の冒頭には、

 この度、それまでまったく出すつもりのなかった句集を、ふと思い立って出すことにした。それならもっと若い時に思い立てばよいものを、生きるか死ぬかの大病(大動脈解離)をして、その後も大腿骨頭壊死で足の手術やら、転倒して脳外科に入院、手首の骨折、脊柱管狭窄症等々・・・ほんとうに満身創痍の身になってから思いつくとは・・・
(中略)
 そして、私の入院、手術の時には親身に立ち会い見守ってくださった句友の皆さんには感謝してもしきれない思いです。皆さんあっての私です。

と、読めば、他人ごとながらいささか切ない。句は、隈治人「土曜」、前川弘明「拓」、金子兜太「海程」、また「九州俳句」に学んだとあった。実は本句集は山本奈良夫より代送されてきた一本である。ともあれ、以下に幾つかの句を挙げておこう。

  生きてるいるい寒鯉の緋は昏れぬ
  ガラス切るもう一枚の春の闇
  母子像のあたり万の乳房よ藤は
  ずぼらな空気ふいに飛びたつ冬の蠅
  薔薇色に生きるつづきの息をする
  私から骨を抜いても八月来る
  ナガサキ全滅の報耳にあり夏野
  被爆野に蛇乾びている感情
  原爆忌誰も見えないかくれんぼ
  名月のひかりの中のわが生死
  
舛田傜子(ますだ・ようこ)、昭和5年 長崎市生まれ。