2018年5月23日水曜日

吉村毬子「水底のものらに抱かれ流し雛」(「LOTUS」第38号より)・・



「LOTUS」第38号(LOTUS俳句会)の特集は、吉村毬子追悼号である。追悼文には、福田葉子・清水愛一・田中亜美・志賀康・救仁郷由美子・九堂夜想。作品評には鶴山裕司・江田浩司・三宅やよい・松下カロ・三枝桂子、一句鑑賞などを含め、LOTUS同人以外にも多くの執筆陣を揃えて愛惜を深めている。中では吉村毬子四百句(酒巻英一郎・三枝佳子・九堂夜想・表健太郎共選)、吉村毬子俳言抄は、テキストとしてありがたい。
 多くの方々の評言を紹介したいが、ここでは松下カロ「一対の器である言葉ー吉村毬子とわたし」から以下に引用しておこう。

 もし、毬子の中の普遍性に触れようとするならば、読者の方が変わらなければならない。変容できない読者は彼女の内側には立入れない。彼らに見えるのは、毬子という器の外側(それもまた美麗な曲線を描いてはいるのだが)だけである。(中略)
 三島由紀夫(1925~1970)の死に際して、知人の多くが〈彼は常に死を背負っていたが、本当に死ぬとは思わなかった〉と書いた。(中略)ふたりについて考えると、男であることと女であることは、つきつめれば近付くことがわかる。三島は好むと好まざるとに関わらず読者に傷のような印象を与える作家である。わたしは吉村毬子の作品を読んで、これからも多くの傷を得たいと思う。わたしたちは一対の器であったが、今、毬子は遠く去った器であり、わたしは彼女が残した器である。

 加えて、さすがに九堂夜想は「憑きと、祓えと」として、次のように結んでいる。

 詩と人生の修羅の果てに、吉村俳句は、ついに凄絶なる”練習曲”に終りました。しかし、これほどの美と句格と内実を備えた習作(エチュード)を、今現在書きうる俳句作家がどれほどいるでしょうか。切に祈ります。貴女の冥福を。そして、そう遠くない未来に、『手毬唄』を大いなる糧として新たな俳句作家が立ち現れんことを。

以下に吉村毬子四百句よりいくつか挙げておきたい。

  五月雨や母といふ字も雨が降る     毬子
  飲食のあと戦争を見る海を見る
  人の影木の影連れて鳥の影
  海螢媼翁と透きとほる
  水鳥の和音に還る手毬唄
  朝貌や浄土も穢土も空のこと
  もくせいよみづきみづから眠らせたまへ
  ああ花野乳房に窓を開けませう
  はつはつと胞衣納めして夏富士よ
  一髪も紐もない水妖忌
  咽仏なくてみづみづしき寒林
  
  毬かへす
  沖の 
  翁へ
  潮千鳥

  吐かぬ浅蜊
  開かぬ浅蜊
  誰の忌や

吉村毬子(よしむら・まりこ)、本名・広美、1962年、山形県生まれ。享年55。



             撮影・葛城綾呂 シャガ↑


2 件のコメント:

  1. 小誌LOTUS第38号「吉村毬子追悼号」を取り上げていただき誠にありがとうございます。

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  2. 先日は失礼しました。久しぶりに貴兄に会えて、少しでしたが、俳句の話ができ、嬉しくぞんじました。

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