2019年3月31日日曜日

渕上信子「春光や阿修羅は涙袋持ち」(第147回「豈」東京句会)・・・



 昨日、3月30日(土)は、隔月奇数月に行われる第147回の「豈」東京句会だった。花曇という風雅ではなく、冬の寒さ戻りのような一日だった。「豈」同人だけではなく、他の方々の参加も増え、少しく賑やかな、刺激のある句会となっている。
 ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

  森中が泡のかたまり鳥交かる     杉本青三郎
  きはむれば白つばき描く青ゑのぐ    渕上信子
  抜け殻の本はソファーにさくらさく   早瀬恵子
  過去にならない昭和ひっぱる遅日   川名つぎお
  索莫と咥へて微熱 花の熱       猫 翁
  あまおとの夜伽草子を紙魚の恋    打田峨者ん
  啓蟄やカートに園児らは積まれ    伊藤左知子
  歳時記をやがて啄む花の鳥      羽村美和子
  糸櫻誰そ笛吹ける晴明か       笠原タカ子
  菜の花や双耳に雨の音深む      吉田香津代
  息抜きの永青文庫さくら時      小湊こぎく
  春宵に折りたたまれる骨の音      大井恒行 




★閑話休題・・五十嵐進「農をつづけながら2019春ーこれまでのこと、これからのこと」(「駱駝の瘤 通信」17)・・


 五十嵐進は、永田耕衣に師事し、現在は「らん」同人である。喜多方市で農業を営んでいる。「駱駝の瘤通信」(駱駝舎・須賀川市)に、次のように記している。

 (前略)あの3・11以降、放射能への不安を背後に福島の地で土を耕して丸8年、9年目に入る。地元福島においても、次第に放射能への懸念が薄れていくような民心に乗じて「政府は21日、原子力災害対策本部会議を官邸で開き、東京電力福島第一原発事故に伴う帰還困難区域の一部に再び住めるように整備する特定復興再生拠点区域(復興拠点)について、避難指示の解除の要件や手順、解除前に立ち入り制限を緩和する基本方針を決定した」(福島民報12月22日)「立ち入り制限を緩和」といっても「空間放射線量率で推定される年間積算線量が20ミリシーベルト以下になること」が解除の要件。チェルノブイリ法ならば5ミリシーベルト迢で強制移住となり居住はできない地域であるところが、その4倍も高いとこに帰還をせまられる国が日本なのだ。

 この核災による転居を繰り返す(多い人は10回以上)ことなどによる関連死を詠んだ短歌が同誌に掲載されていた。統計では、震災関連死は2200人を超えていて、しかも福島県に集中しているという。

  地震でなく津波でもなく核災が死因の人数二千二〇〇は   澤 正宏

 川柳では、

  墓参りだけの帰省へ射す西陽      野川 清

 結びに、五十嵐進は、

 2017年、前橋地裁、福島地裁が原発「事故」に対する国の責任を認めた。法律で明確に条文化しなければ、国の補償責任が曖昧になる。不十分ながらも生み出された法律を目的に沿って運用できるよう、改正提案をし、補強していくことが必要であろう。運動が必須だ。自治体条例という形での市民立法「チェルノブイリ法日本版」の会も動き始めている、私も。(2/17)

 と、決意している。

   チェルノブイリの無口の人と卵食ふ     攝津幸彦



             撮影・葛城綾呂 マンサク ↑

2019年3月30日土曜日

玉川義弘「猪の罠雪花菜たつぷり撒きてあり」(『十徳』)・・・


 
 玉川義弘第一句集『十徳』(邑書林)、序は小川軽舟、それには、

 《猪の罠雪花菜(きらず)たつぷり撒きてあり》、雪が積もったように撒かれたおからが匂いたつようだ。腹を減らした猪はたまらず罠に導かれていくのだろう。《明日からは害獣駆除や猟期果つ》、猟期が終わっても猟師には害獣駆除の要請が来る。過疎地の農業は田畑を荒らす獣との戦いである。言われてみて初めて気づく地方の現実が描かれている。(中略)

  いちにちのけじめの酒やをとこへし
  酒を呑みまじめを通す小春かな 
  百姓の酒の十徳冬至来ぬ

  なまけて酒を飲んでいるのではない。真摯に農業にいそしめばこその酒である。「いちにちのけじめ」、「まじめを通す」、そして「酒の十徳」とまで言われれば、これはもう玉川さんの人生哲学なのだ。

 とある。著者「あとがき」には、

 農林水産省農業者大学校を昭和四十八年三月に卒業し、就農した。苺栽培を始めた。
 就農してみると人との交わりは、農協・役所も含めてすべて農業に携わる人達であった。
 何か異業種の人達を交わる場はないものか、考えたあげく町の生涯教育の一環として俳句講座が一年前に開講されており、これに加入した。

 とあり、句にも農業用語が多く出てくるし、いわゆる業界用語?は辞書にも出ていない。字が読めない、意味がよく理解できない句もあったが、句の姿が良いので、その言葉のリズムや雰囲気で味わった句も多い。例えば、

   浅春や畔川浚ふ出合布令      義弘
   峯雲や穂孕みの田へ力肥
   朝摘みし薇を干す一ㇳ筵
   籾摺るや養疴の父の誕生日
   氷解け土竜威しが風に鳴る
   水戸口を祀りし幤や蠑螈浮く
   初猟の小屋台秤竿秤
   猟小屋や腑抜の猪を瀬に晒す
   尻水戸に嵌め込む板や鶫引く
   六代の隠れ棲みし地ととき咲く
   
 就農とほぼ同時に俳句に関わりをもち、長い句歴と生活に密着した句群はいまどき貴重な思いがする。ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておきたい。

  猪垣を解いて冬田となりにけり
  初音して尼出支度や嶺の寺
  弾痕のまざまざと猪吊られあり
  草氷柱けものの糞のつややかに
  稲を刈る暑さ尿の黄なりけり
  狩座の朝の静もりただならず
  時計なり昼寝の国を出づるなり
  猪裂いて湯気立つ腸を鷲掴み
  猪捌く小屋へ新たに撃たれ鹿
  走り穂や雀威しの糸を張る
  酒の毒臓腑より抜け青簾
  田に四隅あり一隅の余苗
  猪裂くや胃の腑に溜まる穭の穂
  門松の竹伐り供華を剪りにけり
   
 玉川義弘(たまがわ・よしひろ)、昭和21年、三重県一志郡米ノ村(現松坂市)生まれ。

2019年3月29日金曜日

金子兜太「子馬が街を走っていたよ夜明けのこと」(「兜太」Vol.2より)・・



「兜太」Vol.2(藤原書店)、特集は「現役大往生」。兜太自筆生原稿・兜太百句の写真掲載。創刊記念イベント、1「兜太を語りTOTAと生きる」シンポジウム(芳賀徹・下重暁子・上野千鶴子・いとうせいこう、司会に黒田杏子)、2「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」(筑紫磐井・木村聡雄・高山れおな・関悦史・柳生正名・江田浩司・福田若之」など,また、「兜太俳句の現場を歩く」(夏井いつき他)、その他、第4回正岡子規国際俳句賞受賞の講演・金子兜太「ア二ミストとして」。宮坂静生講演「兜太と一茶」、そして「金子兜太氏生インタビュー(2)」等々、盛りだくさん充実の第2号である。加えて投句選者陣こそ豪華である「兜太俳壇(第一回)」の特選作品は以下、

 ・黒田杏子選 平和な日々見守る役目案山子立つ   鈴木 靖
 ・筑紫磐井選 ゾウガメのどたりと重し檻の中    浅野幸司
 ・横澤放川選 一本の線香二月二十日かな     曽根新五郎
 ・橋本榮治選 八月の日本の金子兜太かな     曽根新五郎
 ・坂本宮尾選 綿虫の綿の平和を守り抜く      梅田昌孝
 ・井口時男選 泣きながら生まれる者に冬銀河    菊池 健 

 創刊号につづく、「兜太氏生インタビュー(2)」は興味深いが、「編集整理は最小限にとどめ、なるたけ語り口をそのまま残すようにした」(筑紫磐井)というだけあって、兜太調が髣髴とする。兜太の「ドストエフスキー体験」について井口時男が尋ねた場面、井口時男「金子兜太とドフトエフスキー」(藤原書店「機」NO.323)では、上手くかわされているが(もっともそれが兜太らしいところだが)、愚生がかつて兜太に「もっとも影響を受けたのは?」という質問に「サルトルの実存主義だよ」と答えられたことがあり、確かに戦後の一時期、愚生の若い時代は、マルクス主義?というよりも、たしかに実存主義が大流行り、一世を風靡していたという記憶がよみがえったのを覚えている。もろもろ、金子兜太という傑物像の話題にはことかかないが、ここは、その俳句作品をめぐっての井口時男「社会性とイロニー~前衛・兜太(二)」に指を屈しておきたい。そのイロニーについて、三鬼「広島や卵食ふとき口ひらく」と兜太「霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ」」の句を挙げて、三鬼にはイロニーがあり、兜太はイロニーを知らない、という。それを「金子兜太はイロニーを拒むー兜太と草田男」にまで敷衍している。そしてその論は腑に落ちる。
 
(前略)巧妙なイロニーは意味の非決定性を保持する。それは意味の反転可能な両義性を、さらには不確定に揺らぎつづける多義性を作り出す。両義性や多義性は日常会話にあっては不都合な誤解の因だが、文学、ことに詩にあっては本質である。よって文学言語の本質にも通じる。

 また、草田男「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」については、赤城さかえの『戦後俳句論争史』には、イロニーという言葉は出て来ないが、としたうえで、

(前略)重要なのは、作者の「真意」を問うこのまなざしが、戦後「民主主義」陣営の(主観的)善意にもかかわらず、戦時下の検閲官と同じまなざしだ、という一点である。そして、隠者共同体の無風空間の外には、いつでも、この政治的暴風が荒れ狂い得る、という一点である。

 であると述べる。この玉文こそイロニーである。さらに戦時下(昭和14年)の草田男の句「世界病むを語りつつ林檎裸になる」について、

 私がこれをイロニーの名句とするのは、ここ世界を対象的に認識するまなざしと、世界を認識している自分自身を反省的に見つめる自意識の屈折したまなざしとの両方が、あざやかな形象化となまなましい体感をともなって、詠みこまれているからである。

 といい、もちろん、兜太「いどみ齧る深夜の林檎意思死なず」の句とも比較している。あるいは、

 「創る自分」を強調しても、金子兜太はやはり中村草田男と同じく充溢した「実」の倫理的主体なのである。そして、たとえ兜太が草田男の倫理の求心性に飽き足らなくとも、倫理性は常に社会的である。(「虚」の主体であることにおいて、高柳重信的前衛は、実は俳句的主体の「正統」に属している。むしろ草田男や兜太の「実」の主体の方が「異端」である)。

 と記すのである。本論のいたるところに、ここに引用した以上の示唆に富む指摘がある。興味のある向きは、直接本誌に当たられたい。論の結びは、

 ともあれ、金子兜太はイロニーを拒み続けた。それゆえに六〇年代の前衛・兜太は七〇年代以後も社会性から「転向」しなかったのだ、と私は思っている。それはまた、イロニー的諧謔とは似て非なる金子兜太のユーモアとも関わるのだが、それは別稿とする。
 
と、これまた、次号以降に期待を持たせてくれている。因みに、ブログタイトルに挙げた「子馬の」句は、兜太が80歳半ばに、NHK俳句王国で詠んだ句だと、神野紗希が紹介していた句である。




★閑話休題・・府中市美術館「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」(~5月12日まで)

 その案内に、「見事な美しさや完璧庵な美しさに、大きな感動を覚えます。しかし、その一方で、きれいとは言いがたいもの、不格好なものに心惹かれることもあるでしょう。『へそまがりの心の働き』とでも言ったらよいでしょうか」とあった。なかに、藤田真一が、蕪村の絵画作品は600点以上あり、俳諧と絵を融合させた俳画の分野では、他の追随を許さぬ味わい、と『蕪村余興』(岩波書店)で言っていたが、本展の蕪村は、「寒山拾得図」「寿老人図」など、その彩色された水墨画にはたしかに追随を許さないものがあると思えた。そのほかにも、このテーマのもとにアンリ・ルソー、伊藤若冲、蛭子能収、小川芋銭、小林一茶、小出楢重、仙厓義梵、歌川国芳、徳川家光、長沢芦雪、夏目漱石、白隠慧鶴、また、丸山応挙、三岸好太郎、村山槐多、萬鉄五郎など、飽きない充実の面々である。
 美術館のある府中の森公園は、愚生の散歩コースのひとつで、今回の展示の二回目の観覧料は半額、また、いくつかの店のポイントカードをみせるて、さらに割引となるのは嬉しい。


          撮影。葛城綾呂 二ホンタンポポ ↑

2019年3月28日木曜日

兵頭全郎「手に入れてしまった魔法のトング置く」(「川柳スパイラル」第5号より)・・



 「川柳スパイラル」第5号(編集発行人・小池正博)、特集は「ジャンンルの交差点」。執筆者は瀬戸夏子「Twitterと定型詩」、山口勲「語り手の声が聞こえる詩」、佐々木紺「BL俳句とBL読みについて」。瀬戸夏子は、

 Twitterは定型だし、もう充分、意識していようがいまいが、定型詩として書いて(しまって)いる人はたくさんいて、しかも、カジュアルに絵や写真や動画つきでものを書くことができて、かんたんに公開できる。いまいちばん強い定型のメディアである。輸入品の定型詩としてはいちばん成功しているのではないか。

  と述べている。また、山口勲は自己紹介を含めて、

 わたしは雑誌「て、わた し」を二〇一七年から刊行しています。日本語の詩人と日本語以外の詩人を対にして紹介する雑誌です。そのなかで、私は英語圏、特にアメリカ合衆国のマイノリティの詩を紹介しています。書き手を社会から疎外する生活や、生き残っている自己を描く作品です。書き手の多くが移民二世か三世。一族の中でアメリカでの高等教育を初めて受けた人たちです。(中略)
 私が今回紹介したものは必ずしも「詩的」ではないのかもしれません。作品と人物を切り離すべきだという考えから外れた前近代的な捉え方かもしれません。けれども、様々な怒りを通過した作品は近代日本が経験した原文一致とも通じ、声を通すことで社会や自分自身の生活と深く結びつく二十一世紀の文学だと信じています。
 お時間のあるときにYouTubeで「ポエトリースラム」と検索してみて下さい。日本語でかまいません。そしてそこにあるものが詩なのかを一度考えてくださるとうれしいです。

 と切に記している。あるいは、佐々木紺は、

 「BL読み」を不思議がるひとたちは私からすると無意識な、「ヘテロ読み」をしているのではないかと思う。「なんでわざわざBL読みするんですか?と言われるが、逆に「なんで無意識に異性愛で解釈するんですか?」と聞きたい。そういう人たちが、男女がいれば恋愛だと解釈したり、恋愛を匂わせる句があれば無意識にヘテロ読みするのをしばしば見る。それを見ながら、自分にもヘテロラブフィルターがかかっていることに気づいてくれ・・・と祈るような気持でいる。
 私を含むすべての人が、性的規範に関しての先入観以外にも、無意識にさまざまなフィルターをかけて作品を読んだりしている。(中略)
 私のBLフィルターは今のところ着脱可能だけれど、あなたのはどうですか。

 と、これも作品の読みについて、意外に本質的な提起になっていよう。現代川柳とは何であろう。小池正博は言う。

  川柳性を「穿ち」に矮小化するのではなく、「詩」に解消するのでもなく、未分化で寛容なジャンルとしての川柳の可能性が私には心地よい。(中略)新しい表現の可能性が現代川柳の中から出てきてもおかしくない。

 希望という病という言葉があるが、可能性の道こそ、困難で細い。それでも、行くしかかないだろう。じっくり確実に進んでもらいたい。ともあれ、同人作品より一人一句を挙げておこう。

  日出づる国の群青舐めている         畑 美樹
  コンビニの灯りに透かす首の皮        湊 圭史
  スリッパのまま天国に来てしまう       浪越靖政
  民法の者にはわからない          清水かおり
  ミラールームにかぼちゃカボチャ南瓜     悠とし子
  正確な描写をしよう123          川合大祐
  意識から無意識へ行く柿の種         石田柊馬
  おとうとよ誕生日にはテレパシー       一戸涼子  
  年明ける首絞め(チョーク)を防御したままで 飯島章友
  暴力的な言い訳なんだ塗り絵         兵頭全郎
  右へ曲がれば丸見えの未来坂         小池正博


・予定:【川柳スパイラル東京句会】ゲスト・矢上桐子・・・

・会場 北とぴあ 第一和室
・日時 5月5日 午後1時~5時(参加自由)
〈第1分〉矢上桐子句集『hibi』を読む
〈第2部〉 句会 兼題「罅」「日々」「うっすら」「活字」」雑詠、各2句。
・午後5時~懇親会あり。
問い合わせ、申し込み・小池正博(電話・FAX)0725-56-2895 



           撮影・葛城綾呂 アンズ↑

2019年3月27日水曜日

永島理江子「笹鳴や方丈と目を交しあふ」(『石鼎のこゑ』)・・・



 永島理江子第6句集『石鼎のこゑ』(現代俳句協会)、懇切な序は宮坂静生。集名に因む句は、

   瓢吹けば石鼎のこゑ間近にす      理江子

宮坂静生の序文には、「瓢」に「ひよん」のルビが付されいる。それには、

 石鼎は、昭和二十六年(一九五一)十二月二十日没。私はようやく俳句詩型に出会った頃で、もとより石鼎の声をしらない。が独特の俳句朗詠の持主であったようで、石鼎人気は声を通してどこかセクシャルな生身の人間の魅力に繋がるところがあり、確かに特異な俳人であったらしい。

   ひょんの実を吹けば吉野を近くせり

 同じ発想の句である。東吉野村の石鼎庵は先年訪れ、鹿火屋守の哀愁気分に触れた。

とある。また、集中の「涅槃吹く家の中にもけものみち」の句については、

 「けものみち」は出色の作。涅槃吹くとは釈迦入滅の陰暦二月十五日頃に吹く西からの季節風である。夫がいない荒涼としたわが家を「けものみち」とは哀切だ。

 と述べている。著者「あとがき」には、出雲一の谷公園の石鼎の句碑「一枝の椿を見むとふるさとへ」を訪ね、石鼎生家を訪ねた折りに、

 お庭では、ちょうど咲きそめつつある椿が純白の色をしていたことに驚き、それ以来、私の心の中も常に純白であることを願っております。

 と記されている。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。

    初夢を見すごしたるはかなしかり
    少しづつどの木も濡れて寒明くる
    子烏の鳴くや夜空の涙壺
    きのふよりけふ囀の機嫌よさ
      七月三十一日午前二時夫逝去
    金剛杖けふ越えゆかむ秋の虹
    九秋の墓にことばをかけつづけ
    泣きたくて我慢の熟柿すすりけり
    たつぷりと水浴び出づる蟇の咽
    盆路やはやう来ぬかとこぼれ雨
    落蟬の鳴く間も天をめざしけり

 永島理江子(ながしま・りえこ) 昭和7年、東京生まれ。



                             撮影・葛城綾呂 ヒヨドリの仕業↑

2019年3月26日火曜日

草間時彦「ほのめきて恋に至らず利休梅」(「汀」4月号より)・・・



 「汀」4月号(汀発行所)、連載に堀切実「最短詩形随想(四)ー取合せ文化」に石井隆司「烏兎怱怱(4)ー十六句」が、それぞれ面白い。ここでは、愚生の思い出もあるので、石井隆司のエッセイにする。じつは、前月3月号での「烏兎怱怱(3)-俳句のために」は、石井隆司が仕事上で初めて出会った俳人が草間時彦であり、

  「石井君、俳句のために、とにかく頑張ることだよ」。
「俳句のために」と言って励ましてくれた、最初の俳人が草間時彦先生だった。

 と述べている。当時、草間時彦俳論集『伝統の終末』(永田書房)を上梓していたが、彼の師の石田波郷が俳句の弔鐘は俺が打つといったというような「昂然たる自覚」について、高柳重信は、

 (前略)だが、草間時彦の終末観には、もはや、そのような昂然たる意気は、どこを探しても見当たらないのである。(中略)
 もちろん、あらゆる終末観と全く無縁の定型詩人など、この世に存在するはずはないし、俳人とは、いつも何かに向かって踏みとどまろうと志す者である。草間時彦も、その例外であろうはずがない。

 と「俳句研究」(昭和52年7月号、特集・草間時彦)の編集後記に記している。そしてまた、ときに高柳重信は、草間時彦の立ち居振る舞いについて、敬意をもって語っていた。俳句文学館創設の最高責任者・理事長になるについても、「鶴」を辞し、結社からは無所属の俳人なったこと、不偏不党の立場で文学館を創ることに尽力したこと、そうした俳句への無私の志についてなどであった。前述の「石井君、俳句のために・・・」という言葉に出会って、愚生もそれらのことを思い出したのだった。そういえば、高柳重信もよよく「俳句形式のために」、また阿部完市は「俳句の神さまのために」とよく言っていた。こうした言説を、今の俳句界から聞かなくなって久しいような気もするが、それも時代の流れなのかも知れない。
 本誌今号の「烏兎怱怱(4)」は、石井隆司所蔵の草間時彦の手作りの小冊子『俳句(十六句)』(英訳・中国語訳付)の紹介と、それにまつわるもので、

 (前略)この冊子の扉には、先生の次の一句が肉筆で書かれてある。
   ほのめきて恋に至らず春隣     時彦
 (中略)句の初出は、NHK・BS放送で放映されていた「俳句吟行会」に出句されたもの。抒情の濃い句だが、当時の私はこんな句が大好きだった。
 しかし、数か月後の俳句総合誌を見て、私は驚愕した。
   ほのめきて恋に至らず利休梅    時彦
 一句に賭ける俳人の熱情を知らされ、同時に先生の作句工房を垣間見た思いだった。

 と述べている。当時も今もたぶん、本質的には変わってはいないと思うが、初出句を推敲によって変えていく俳人は多くいた、と思う。むしろ、現在の俳人が雑誌に掲載した句をそのまま句集に収録するなど、句集収録句数の多さにもつながっているのではなかろうか。これも時代の流れというものであろうか。愚生の若い頃の句集の収録句数は100句台からせいぜい250句、300句くらいだった。しかし、句の中味は濃かったような・・。
 折角だから、16句を以下に孫引きしよう(原句は総ルビだったらしい)。

   冬薔薇や賞与劣りし一詩人     昭和29
   出船あり春外套に夕日泌む     昭和32
   馬車の荷の百花に風や復活祭    昭和35
   運動会授乳の母をはづかしがる   昭和35
   泳ぐ少年見守る少女夕蜩      昭和36
   掌に満てり音のさみしき胡桃たち  昭和36
   三月の風は移り気花売女      昭和38
   原爆度ドーム仔雀くぐり抜けにけり 昭和42
   花野から虻来る朝の目玉焼     昭和45
   恋せむには疲れてゐたり夕蜩    昭和46
   咲き満ちし椿の中の恋雀      昭和47
   犬のみに許す心や秋時雨      昭和47
   オムレツが上手に焼けて落葉かな  昭和49
   橋暮れてかりがねの空残りけり   昭和52
   人声の登りゆくなり枯木山     昭和55
   冬の夜のスープに散らす青パセリ  昭和58
   
草間時彦(くさま・ときひこ)1920年5月1日~2003年5月26日、東京府生まれ。


2019年3月25日月曜日

横山白虹「よろけやみあの世の螢手にともす」(「俳句界」4月号より)・・・



「俳句界」4月号(文學の森)の特集は横山白虹。このところの総合誌の個人特集では出色だと思う。先般、刊行された現代俳句協会青年部編『新興俳句アンソロジー』(ふらんす堂)では、田中亜美が、

 横山白虹は、つくづく「新しい」俳人である。

と称していた。また、山口誓子は「横山白虹は、それ自身一つの風景である」と言ったという。
 特集の内容は、アルバム、略年譜、50句選は中村和弘。エッセイ「白虹を語る」は、寺井谷子「感謝状」、横山哲夫「父白虹・師白虹・俳人白虹」、宇多喜代子「横山白虹第一句集『海堡』再読」、村田喜代子「横山白虹師の『青』」、島村正『横山白虹は一つの風景」。句の鑑賞に三村純也、今井聖、久保純夫、鳥居真里子、土肥あき子、前北かおる、中岡毅雄、神野紗希などの人選も悪くない。とりわけ、エッセイはいずれも読ませるものばかりだった。例えば、寺井谷子は結びに、

   錦木の仙骨となり父を愛す      谷子

 没後数年経って書けた句。
 慈しまれた記憶を何よりの宝として、「俳句」の道を歩む娘からの感謝状である。

 と、また、谷子の兄の横山哲夫は、

 世の中、氏と仰ぐに足る人とは、専門の力が尊敬できる上に人格が自ずと人に慕われる人物でなければならないが、私にとって白虹は父であり、かつ唯一無二の人生の師であり、また俳句の師であったのである。

 と記している。一句鑑賞では、鳥居真里子が「よろけやみあの世の螢手にともす」を挙げていて、その「よろけやみ」に、「闇」と「病み」をかけて読んでいたのは印象的であった。さらに「よろけやみ」の句について、宇多喜代子は、「よろけやみくらきにをりぬ夜の秋」を挙げて、

 「よろけやみ」ということばは、辞書にはない。「炭抗にて肺結核に侵されたるものをよろけやみといふ」とのこと、医師でもあった横山白虹が快癒の望みのない「よろけ」患者を見ている冷静にして切ない目である。

 と述べ、鳥居真里子は、

 この作品の優れているところは、時代がもたらした社会問題を示唆しながらも詩的な世界を構築していることである。言葉のひとつひとつが飛礫のように皮膚にあたり砕け散る感触に襲われる。

 と述べているが、新興俳句の新興俳句たるゆえんは、もちろん、俳句形式にあらゆる詩的可能性を追求したことにもあるが、高屋窓秋や三橋敏雄が最後まで社会的な、いや人類への眼差しを切ることなく、その予見性をも俳句型式にとどめとようとした姿勢のことでもあろう。
  
 ともあれ、他にいくつかの句を挙げておきたい。

  雪霏々と舷梯のぼりゆく昇降機     白虹
  ラガー等のそのかちうたのみじかけれ
  アドルムを三鬼にわかつ寒夜かな
    ニコは娘谷子の愛称なり
  ニコよ!青い木賊をまだ採るのか
  炭坑(やま)は灯をちりばめてをり霧の上
  タイプ打つ視野には黄なる花あふれ
  夕桜折らんと白きのど見する
  春の夜の船のポストを尋(と)めあてぬ
  原爆の地に直立のアマリリス
  原子炉が軛(くびき)となりし青岬
  火星(マルス)近づく海が呟き蟹呟き

 横山白虹(よこやま・はくこう) 1899・1・8~1983・11・18 東京府生まれ。
  

2019年3月24日日曜日

志鎌猛「森がいい写真を撮らせてくれる」(「観照/志鎌猛展」)・・・



          志鎌猛・松崎由紀子夫妻 ↑

 「観照ー志鎌猛展」〈於:日本橋高島屋S.C本館6階美術画廊X、3月20日(木)~4月8日(月)、午後10時30分~午後7時30分〉に出かけた。日本では5年ぶりの個展だという。リーフレットの冒頭に、

 志鎌猛は2008年より、デジタル全盛の現代とは対極にある、プラチナ・パラジウム・プリントに取り組んでいる写真家です。
 19世紀後半にイギリスで発明された古典的写真技法と、日本伝承の手漉き和紙・雁皮紙を用いて印画紙を自作するところから始めるという、経験がものをいう世界、そうした中で自らの身体を通すことによって、微妙な諧調と繊細で美しいモノクローム作品を生み出しています。
 創作過程は全てが手仕事のため、プリントで一枚一枚思い描く色を表現していくのが非常に難しく、一作品あたりのエディション枚数も限られてきます。技術と表現をマッチさせることが自身の写真であるとし、写真を”撮る”ということよりも”つくる”ことに近いと作家は言います。

 と記されている。そのことを夫人の松崎由紀子はエッセイ「雨のガリシア」(2014年2月24日)のなかで、

 デジタル全盛の時代にあって、その対極にあるすべて手作業で行う工程は、集中力と根気のいる世界で、はじめにテストピースを作り、データをとっても、その日の気温や湿度に微妙に影響されるなどして、思い通りの仕上がりは容易には得られない。何枚かに一枚の出来のいいプリントも、よく見れば、空に小さな黒点が浮かんでいて台無しだったりする。謎の失敗の多さには、ガリシアの魔女がついて来て悪戯をしているのではと、疑いたくなるほどだ。それでも猛は、プラチナプリントと雁皮紙の緻密な表現に心を込めたいのだ。
 彼が焼き付けた風景は、ガリシアの人たちにとって見馴れた森や川、海だろうか。それとも、見知らぬ風景に映るだろうか。

 と述べている。そうした撮影の旅は文字通り二人三脚で臨んでいる。聞けば、そのプリントのために、彼は、食事もそこそこに、12時間も立ち続けることもあるそうだ。撮影は多く、山や森の奥に入り、一瞬のシャッターをきるために、キャンプを張り、待ち続けることもある。彼が、愚生と同齢であることを思うと、いよいよ体力の限界との勝負だと、命がけに近い行為だと、ひたすら自愛を祈りたくなる。幸運なことに、10年ほど前の胃癌の手術以外は健康で、その痩身の佇まいとあいまって、見かけによらず、愚生よりタフのようだ。そして、志鎌猛は言う。

じっと見る・
そうしていると、ふとした瞬間、眼の前にある風景の向うから、私を呼ぶ声が聴こえてくる。
その声を合図にカメラを据えて、私は一度だけシャッターをきる。
一期一会の写真。それは私が撮ったのではない。眼には見えないなにかに撮らせてもらったものだが、(中略)
そして、現像液を浴びせると瞬時に浮かび上がる画像に息を呑む。
そこにあのときが宿ってくれていると信じたい。

 リーフレットのパブリック・コレクションにはフランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館、ブランツ写真芸術美術館、サンディエゴ写真美術館、、ヒューストン美術館、ポートランド美術館、サンタバーバラ美術館、清里フォトミュージアム、エルメス財団など、また、個展の開催も海外でのものが多いようである。
 ともあれ、日本橋方面にお出かけの際はご一覧あれ。その価値があると思う。

 志鎌猛(しかま・たけし) 1948年、東京生まれ。


★閑話休題・・現代俳句協会総会・懇親会・・・


 志鎌展を出て、上野東天紅で開催されている現代俳句協会通常総会・懇親会に出席した。昨年、70周年記念大会祝賀会にも出席しなかったので、久しぶりに旧知の方々との挨拶ができた。二次会は近くのラウンジで、数年ぶりに、高岡修、高野ムツオ、渡辺誠一郎、武馬久仁裕、高橋比呂子、網野月を等と少しゆっくり話ができた。春とはいえ真冬が戻ったような寒い一日だった。


2019年3月22日金曜日

加藤智也「朝寝する寿限無を起す母の声」(第189回「遊句会」)・・・


          渡辺保お手製の蕗味噌↑

 昨日、3月21日(木)は第189回遊句会(於:たい乃家)だった。兼題は陽炎・寄居虫・朝寝。高点句は三名同点だったが、今回のタイトル句には加藤智也「朝寝する・・」を掲げた。
  いつも句会報をすばやくまとめて送って下さる山田浩明兄のコメントには、以下のように記されていた。無断で引用する(許されよ!)。
 
ところで、寂しいお知らせが一件。
石飛会長のご母堂が逝去されたそうです。
もう数日で106才になられるところだったと聞き計算すると
お生まれは大正2or3年。そして今が平成の最終年ですから
大正・昭和・平成をほぼフルに生きられたという事なのですね。
この間の時代の変遷を想うと、感慨深いものがあります。
(ゆるい坂をぼんやり下って悦に入っている場合じゃ無いナ)
  
遊句会も次回が第190回。
ハッキリ言って、すごい事ですよ。
行きましょう、みんなで200回、240回目指して。
もちろん会長はず~と トビさんです。        山田

句会風景の写真を撮り忘れたので、渡辺保の本人の手造り土産・蕗味噌のショットにした。 ともあれ、以下に一人を挙げておこう。

   はや八年更地に陽炎ふ人影(かげ)も無く    橋本 明
   朝寝から孤独死までのゆるい坂         山田浩明
   やどかりが派手なシャツ着て波見てた      川島紘一
   後朝(きぬぎぬ)の別れのなくて朝寝かな   原島なほみ
   陽炎に音なく揺るる富士の山         山口美々子
   家人みな出掛けるまでの朝寝かな        石川耕治
   朝寝して時代(とき)の主流を外れけり     武藤 幹
   高館(たかだち)の陽炎は兵(つわもの)の吐息 渡辺 保 
   陽炎やゆれる大橋人力車            加藤智也
   寄居虫逝き空家三軒かえす磯        たなべきよみ
   陽炎を体調不良と思う齢           中山よしこ
   ヤドカリがめがねをかけて本を読む      春風亭昇吉
   タイムカード押す夢を見て朝寝かな       林 桂子
   手のひらで寄居虫そっと半身だし        前田勝己
   やどかりに波の枕と太陽と           大井恒行




★閑話休題・・各務麗至「桔梗」(『季刊文科セレクション2』より)・・


 各務麗至はかつて独自の美意識を込めた俳句を書き、三橋敏雄監修の『壚拇(ローム)』にまとまった俳句作品が収載されていた。現在は、もっぱら小説を執筆し発表している。「季刊文科」71号には「瀞」、そして季刊文科セレクションには「桔梗」が選ばれている。佐藤洋二郎の解説を以下に引用して紹介しておこう。

  各務麗至の「桔梗」は父親に愛人がいてこどもまでいる。父母の諍いは絶えない。そのことで母は亡くなり、継母が家に入ってくる。幼い少女は彼女を嫌いいじける。人は親を選んで生まれてこられるわけではないし、まして生きる環境を望んで、この世に生を享けるわけではない。しかし、わたしたちはなにがあっても、あるいは劣悪な環境でも生きていかなけれなならない。なぜなら生きている間が人間だからだ。生きていれば潮目は変るし未来もひらけてくる。(中略)
 やがて主人公は独りで喫茶店をやって暮らしていくが、借主の大家から思いもかけない彼らの秘密を知ることになる。苦労して生きてきた継母や幼かった父母の生い立ちを、同級生だった大家から教えられた主人公は茫然とするが、作品は慈愛に満ちた上質の短編だ。やさしさは人間だけが持つ特権だが、小説はよく練られていて、人間の複雑な感情をやわらかく捉えていて秀逸な作品だった。
 
 愚生は、彼の小説を幾編しか読んでいないが、いずれも清しい読後感があり、その意味では、人の生きる希望が込められているように思える。

 各務麗至(かがみ・れいじ) 1948年、観音寺市生まれ。


2019年3月21日木曜日

木割大雄「ハモニカの老人・さくら・車椅子」(「カバトまんだら通信」第41号)・・



「カバトまんだら通信」第41号(カバトまんだら企画)、木割大雄の個人誌(赤尾兜子に関する事項と木割大雄作品の掲載のみ)のように見えるが、編集人に榎本匡晃・藤井弥江(みやず)の名が奥付にあるので、発行のための協力者であるにちがいない。木割大雄は、本誌において、ずっと赤尾兜子の公私について書き続けてきた。これほど赤尾兜子の公私を書き上げて来た人はいない。そして、それにはいつも師に対する深い尊愛がある。
 今号は木割大雄「-兜子への旅ー〈冬の壁〉から〈広場〉」である。兜子の有名な句「広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み」をめぐるエッセイで、

  兜子は、いかなる広場で、いかなる塩を見たのか。
  何度も書く。

    広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み

 それがどうした?と言えばいい。
 この句に、意味など、ない。
 兜子の見た、或いは見たであろう風景。
 それを追求する意味もない。寓意をもとめたくない。
 単なる言語世界。(中略)

 実は、私は兜子門に入った直後に

   痩せてしまえば鏡が動く冬の壁

 という『蛇』の中の一句に取りつかれてしまったのだ。
 意味不明。鏡が動く冬の壁、は何も暗示していない。
 それがどうした?と言うほかない。
 にも関わらず、何事かを感じてしまったのだ。
 私の兜子門に入った理由は、この一句からだ。(中略)

   広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み

 兜子は言った。
「塩を見た。箱からこぼれていた塩を。広場で」
そのときの表情、憮然、としかいいようのない困った顔であった。

 もう一編は、「赤尾兜子の遠景と近景と」(「犀」平成三十一年一月215号より再録)である。それには、

 俳句には真っすぐ立ち向かっていきながら、その文体など技術は、若いときから師系列をもたず独自の道を選んだ。のちに兄事する髙柳重信から「兜子は俳句が下手」と言われたり、同行者の和田悟朗が「兜子の亜流は生まれない」と評するようになっていく。それ故に兜子作品はこれからも多くの人に論じていってほしいと、思う。(中略)

 その鴨居玲から兜子は「もっとも苦しかった時代の作を、私の悪戦苦闘の画と交換したい」と言われて、
  ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
を墨書して差し出した、という。
 鴨居玲の年譜の最後は、昭和六十年九月、自宅にて急逝、とある。享年五十七。兜子没後四年のことであった。

 と述べている。ともあれ、木割大雄作品「七十七句」から、以下にいくつか挙げておきたい。

  叡山はこちらが正面霞立つ     大雄
  荒東風に立つや件の踏切に
  風鈴の舌ながくせり新世帯
  訪ね来て男日傘の置きどころ
  昼の月寺に開かずの扉かな
  別名を虎酔と言えり捨団扇
  老人の広場に雨ぞねこじゃらし
  七草に足らざる粥をすすりけり
  緋色なる着物の紐や初点前

 巻末に、「木割大雄が毎週月曜日に更新して60回を超えました。
『木割大雄の俳句の小径』というタイトルです。
https://ameblo.jp/kiwaridaiyu/
開いてみて下さい。よろしくお願いいたします」とあった。

 そのブログの冒頭には、毎号「まことに小さい声ですが」・・・とある。

2019年3月20日水曜日

向瀬美音「噴水の飛沫マリアを濡らしけり」(『詩の欠片』)・・



 向瀬美音『詩の欠片』(朔出版)、本の背に、「日仏英三か国語句集」とある。序文の山西雅子は、

 さて、この句集は日仏英三か国語で編まれており、季寄せも三か国語で付いている。美音さんも私も「有季」の俳句を作る立場の俳人だ。

とあり、その結びには、

  詩の欠片大西洋に拾ふ夏

 ここまでのびやかな句、しっとりした句、どっしりとした句、冒険句を挙げてきたが、美音さんの句には華やかさ、エロス、自由、郷愁などまだまだ多くの魅力がある。この句集が多くの佳き読者を得るよう心からお祈りする。

と記している。また、解説の永田満徳「『国際季寄せ』の意義」は、

俳句大学の国際俳句学部は俳句文化の更なる発展に寄与することを目的としてFacebook「Haiku Column」を立ち上げ、俳句の本質かつ型である「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句を提唱してきた。二行俳句にこだわる理由は、三行書きにしただけで散文的なHaikuが通用していることに危惧を覚えたからである。 
 「Haiku Columun」のメンバーは1400人を超えて、一日の投句数は100句を下らない。

 と述べ、向瀬美音はその主宰をつとめ、その「全句に目を通し、気になった句はその日のうちに訳して、夜には永田満徳学長からのコメントを得て、毎日発信しています」(「あとがき」)という。どうやら、向瀬美音は八面六臂の活躍らしい。こうした実践の具体的な成果としての句集、1ぺージに訳出されている表記もそうしたレイアウトになっている。一例を挙げると、一句(縦書き)の下に二行の英・仏の訳が付されている。

  純白のシーツの軋み春の昼

 Squeaking of the white snow sheet
   spring afternoon

  crissement d'un drap blanc comme la neige
  apr'es-midi de printemps

(註:愚生の技術では、うまく表記できないので、訳出の表記の雰囲気だけで・・・)

 ちなみに、巻末には、これも「国際季寄せ」として450季語が訳出されている。
 ともあれ、いくつか句を以下に挙げておこう(日本語のみ)。余計なことだが、現代仮名遣いの句ならばともかく、歴史的仮名遣いは訳出された外国語表記にどのようにそのニュアンスは反映されるのだろうか。

  潮騒を籠めて畳むや春日傘
  草原を裸足で歩く地球の日
  ひとひらに一つの翳り緋のダリア
  秋光を分け合ふ海と空の蒼
  見はるかす夜空の贄や冬隣
  くるりくるりちよんかけ独楽のよく回る
  餅間のシチューのセロリ匂ひけり
  ぽつぺんに殉教の音海の音

向瀬美音(むこうせ・みね) 1960年、東京生まれ。

2019年3月19日火曜日

柿本多映「出入口照らされてゐる桜かな」(『柿本多映俳句集成』より)・・



『柿本多映俳句集成』(深夜叢書社)、栞に、刊行記念座談会・佐藤文香(司会)、村上鞆彦、神野紗希、関悦史「生命を不意に貫く言葉」が付録としてある。その中で、神野紗希は、

 境界線をはっきり引かない作家ですよね。普通、生や死をテーマにしようと思ったら対比的になるんですけど、境界線のあわいにあるものを丁寧に掬い上げてゆく人なんだと思います。〈魚ごと森を出てゆく晩夏かな(『花石』)〉も、晩夏が出てゆくのか、自分が出てゆくのか、俳句の主語をはっきりさせないで溶け合わせてゆく作り方なのかも知れません。

 と言い、関悦史は、

 (前略)中間領域とか境目とかを方法として固定したところであまり面白くないわけで。その都度必要なものを取り出している気がします。ある公式があってそれに当てはめればどんどん俳句ができるというタイプの安定感はない。そこが面白いんです。身体そのものが方法として機能してます。

 と、語っている。年譜によると、愚生が柿本多映とけっこう連絡を取り合ったのは、2010年の頃だったように思う。愚生が文學の森にしばらく席をおいていたときのことだ。『ステップ・アップー柿本多映の俳句入門』、『季の時空へ』の上梓の頃、柿本多映の実家で親交のあった、藤田嗣治のスケッチ(未公開だった)を装幀に使う際の著作権についてのことや、もともとは京都新聞に連載された記事(入門書風)とエッセイの合体した一冊にしたいとおっしゃったことについて、内容的にも、例えば、新書版2冊仕様がいいのではないかと申し上げた記憶がある。そうすれば、著者の希望であった五木寛之夫人で版画家・五木玲子の絵も、藤田嗣治の絵も別々の本に装画として生かすことができる、と考えたからであった。また偶然に、九州で行われた現代俳句協会の俳句大会とその帰途、新幹線車中を共にし、「『渦』50周年記念大会」に一緒に参加したのも、ごく短い期間といえ、愚生が20歳代のはじめ、赤尾兜子時代の「渦」にいた縁によるものだったろう。
 本集成の年譜をみて、改めて、愚生との年齢が丁度20年上の姉上だと気づいた次第で、今のいままで、せいぜい10歳上ほどの姉上と思っていたのだが、そうした失礼を許し、よくもこれまで気楽に話をして下さったものだと思う。
 本集成には、既刊の句集収録句以外に、拾遺として1300句ほどが収載されている。文字通り柿本多映の全貌を窺い知ることのできるテキストである。ともあれ、以下には、既刊句集以外の拾遺の句を多く挙げておきたい。

  真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ
  炎天の木があり人が征き来せり
  人体に蝶のあつまる涅槃かな
  兜子忌の扉押さうか押すまいか
  頭蓋いま蝶を容れたるつめたさよ
  雑踏の顔みな同じ原爆忌
  大いなる闇がかぶさる野火のあと
  かげろふや鳥が翔び立つ鳥の空
  奈落より先づ手の見ゆる春の昼
  蝶をのせ昏くなりたるたなごころ
  毒をもて淋しくしたり鳥兜
  まくなぎを払ひ皇(すめらぎ)かわきをり
  蝶を留め一夜を震ふ洞の木よ
  手と足を使ひ歩きの茸山
  八月や舌一枚を焼いてゐる
  晩春の沼を離るる一羽毛
  大花火指の先から重くなる
    悼 桂信子
  白梅へ戻りて君に加わらむ
  咲きながら椿は闇を洩らしけり
  またとなき日がきて殖ゆる苦艾
  睡魔くる春といふ字を書き連ね

柿本多映(かきもと・たえ)、1928年滋賀県大津市生まれ。


2019年3月18日月曜日

藤本夕衣「道果てて初花のあり川のあり」(『遠くの声』)・・



 藤本夕衣第二句集『遠くの声』(ふらんす堂)、帯文は中嶋鬼谷、それには、

   掌にみづうみの水なつやすみ

 渚に立つ聖女の姿を思わせる一句。
 作者の師田中裕明の、
   みづうみのみなとのなつのみじかけれ
 に和した作であろう。
 本句集の作品世界はすずやかで透明であり、いのちの讃歌の一集である。

 と惹句されている。集名に因む句は、

   野遊の遠くの声に呼ばれけり    夕衣

 だろう。著者「あとがき」には、

  「ゆう」終刊の一年後には、百句を編んだ『風水』を製本し、身近な方々にお渡ししました。その後は「静かな場所」に参加し、田中裕明の作品と文章に学び、また、綾部仁喜先生と大峯あきら先生のご指導を受けました。仁喜先生には、己の境涯を受け入れ詠み続けることを、あきら先生には、自分を見つめ、季節の言葉の内に生きることを教えていただきました。

 とあり、それぞれの師を偲ぶ句が寄せられている。

    田中裕明三回忌
  ペンの鞘固く閉ぢをり冬木の芽
    悼 綾部仁喜先生
  寒木にしたしきはこの朝日かな
    悼 大峯あきら先生
  凍る夜の月の方へと帰りけり  
   
 ともあれ、集中よりいくつかの句を以下に挙げておこう。

  子どもらにひとだまの出る大枯木
  片耳にとばされてゐる雪兎
  育つことかなしくもあり初氷
  赤き実もにぎる子の手も冷ゆるもの
  凍る夜に生まれくるものありにけり
  囀や「泣いたつてママこないのよ」
  この国の陰に入りゆく冬日かな
  あたたかき星に生まれて眠りけり
  
藤本夕衣(ふじもと・ゆい) 1979年、愛知県出身。

  


★閑話休題・・・中村安伸「絵硝子に祇園の冬の水あつまる」(「静かな場所」第22号より)・・・


 藤本夕衣つながりで「静かな場所」第22号(デザイン・藤本夕衣)。特集は「対中いずみ句集『水瓶』鑑賞」。竹中宏「『水瓶』と蘆と龍」、柳元佑太「水面が写す」、和田悠「発心の一度きり」が執筆している。さすがに竹中宏の作者への檄を含んだ鑑賞の結びは見事であった。
 
 (前略)「いかにして、いつ自分の文体をうちやぶってゆくか」とは、かつて、田中裕明が対中さんに贈ったことばである。俳句への能動的な意志が、俳句の枠をこえるなにかにゆきあたったとき、ひとりで堪えて進むほかはない。

 招待作品は中村安伸「延長コード」。以下に、愚生好みに偏するが一人一句を挙げておこう。

   みな背負ふ冬青空や坂の町      中村安伸
   この年の氷を待たず逝かれけり   対中いずみ
   わが影にあつまるものら冬の水    満田春日
   水引きし泥に冬日の満ちてきし    森賀まり
   顔見世の跳ねて四条の大通      和田 悠


2019年3月17日日曜日

朝倉由美「家族みなゐし日偲びて豆を撒く」(『銀河仰ぎし』)・・



 朝倉由美第二句集『銀河仰ぎし』(文學の森)、祝句に大牧広。

  冬牡丹いのちの色を見せにけり    広

 著者は、めでたく米寿を迎えられたという。当然ながら、戦時を思わせる句がある。

  料峭や学徒動員耐へゐし日    由美
  七夕竹出征の兄と飾りし夜
  八月や消ゆることなき戦のこと
  終戦日こはごは管制ときし夜

 それらの体験は、

  八月や言ひつぎことに核廃絶
  末枯や核廃絶を守りたし

 への思いとなって表れている。因みに集名になった句は、

   焼跡に銀河仰ぎし頃思ふ 
 
 である。ともあれ、以下にいくつか句を挙げておこう。

  三国トンネル抜けて枯野となりにけり
  短夜を長くしてゐし手術の夜
  揺れ止まぬ地に耐へてゐし余花に逢ふ
  老いと言ふ怖さ深めてゐし晩秋
  安寧とは言へぬ老境虫激し
  桐一葉若き日の母溢れさす

朝倉由美(あさくら・ゆみ) 昭和5年 東京生まれ。



                                「東京新聞」3月16日夕刊↑

★閑話休題・・柿本多映「俳句とはぬえのようなものである」(「東京新聞・俳句時評」3月16日夕刊)・・


 3月16日付け東京新聞夕刊、福田若之「俳句時評・ここに句がある」は、俳句時評について、松根東洋城《渋柿の如きものにては候へど》の誤伝を冒頭に述べながら、「俳句」3月号の「俳句とは○○のようなものである」の俳人へのアンケートに関して、

 俳句時評とは、〈国民的な文芸〉としての〈俳句〉といった類いの観念を、俳句にさしたる興味もないひとびとにも、とりあえずうっすらわかちあえる体(てい)にしておくようなものである。

 と述べ、だから、

〈俳句とは俳句のようなものである〉とする高原耕治や佐藤文香らと、〈俳句とは「俳句のようなもの」のようなものである〉とする竹中宏の資質の違いも、残念ながらここでの関心事とはなりがたい。多くの目にはどちらもイメージを欠いた韜晦(とうかい)と映る、違いは無残にも捨象される。

 という。よってもって、

 これからは、もし誰かが同様の問いに答えなければならない羽目になっても、柿本多映に同じく《俳句とはぬえのようなものである》と繰り返しておけば、ひとまずは事足りるだろう。
 社会が「俳人」に望んでいるのは、句を書くことよりも、こうした問いにすぐさまそれなりに気の利いた答えを用意してくれるようなものであることなのだ。俳人は、そんな社会と向き合う術(すべ)を、いま十分に心得てはいない。

と結んでいる。

2019年3月16日土曜日

成瀬喜代「白鳥引く藍の深きを湖に置き」(『東路』)・・



 成瀬喜代第一句集『東路(あづまぢ)』(俳句アトラス)、集名の由来については、著者「あとがき」に、

 私の家の前に別格官幤社「小御門神社があります。ご祭神は後醍醐天皇の忠臣・贈太政大臣藤原師賢卿であります。明治十五年、神社創建時に遠祖が携わったことを誇りとし、御崇敬の念を心に置き、御加護を享けながら現在に至っております。師賢卿の御歌、

 東路やとこよの外に旅寝して憂き身はさそな思ふ行く末  

この御詠の「東路」を肆矢(よつや)宮司様のお許しを得て句集の題名とさせて頂き、句集の表紙として、紫色に白い紋様の浮かぶ袴のデザインを拝借しました。

 とある。懇切なる序文は、松浦加古。その結びに、

  わが影を捉へて点る寒の門

 永い人生の悲喜こもごもを明るく前向きにとらえ、俳句に情感の世界をこめることで人生をより深いものにしておられる。一冊の句集にまとめることによって、成瀬さん独自の「生のあかし」が、ここに永遠にとどめられたことを心より喜びたい。

 と記されてる。著者・成瀬喜代は91歳、ブログタイトルに挙げた「白鳥引く藍の深きを湖に置き」の句には、「師・野澤節子先生との永遠の訣れ」の詞書が付されている。
 ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  子に代はる嬰(こ)ほどのこけし十三夜    喜代
  宿り木も共に神木冬の樟
  産土に啼く夜啼かぬ夜青葉木菟
  師の絶句声となりゆく牡丹雪
  夫は天にわれは地に聞く除夜太鼓
  支へなき身を真つすぐに水仙花
  来るものは栗鼠とて嬉し落ちる栗
   「千紅」全員で石毛善裕氏の墓参へ
  菊供ふ地より「おいら」の声をふと
  うたたねに亡夫来てをりぬ四月馬鹿
  十二月八日かの日わたしは十四歳
   東日本大震災
  咲くつばき大揺れ共に耐へるのみ
  春愁やこけし寝せおく震災後
  父の日や「本読め」といふ父の声
   亡夫の物整理
  二度訣かるる思ひに捨つる白絣
  星月夜あふぎ逢ひたき人あまた

 成瀬喜代(なるせ・きよ) 1927(昭2)年、千葉県生まれ。



2019年3月15日金曜日

永瀬十悟「村ひとつひもろぎとなり黙の春」(「小熊座」3月号より)・・




 「小熊座」3月号(小熊座俳句会)の武良竜彦「俳句時評」は「八年目の『震災詠』考(1)ー永瀬十悟氏の深化する非日常の眼差し」の指摘は、だれが震災詠をわがものとして(当事者であるか否にかかわらず)深化させてきたかを論じている。ブログタイトルにあげた「村ひとつ・・」の句には、

 「ひもろぎ」とは古語で「ひもろき」といっていた神事で、神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊など常緑樹を立て、周りを囲って神座としたものである。畏敬の念をもって、無人と化した荒涼たる「帰還困難地」が表現されている。

 と述べる。あるいは、

 第二章「三日月湖」には、「原発事故後、放射線量の高い地域が三日月湖のように残された」のパラフレーズが置かれている。(中略)

  鴨引くや十万年は三日月湖
  月光やあをあをとある三日月湖  (中略)

 春になり北方へ帰っていく鴨の群れのことを季語で「引鴨」といい「鴨引く」という。そんな生物の生態的リズムの地球的命の様。句はそこで切れて、「十万年は三日月湖」と続くが、この「は」は曲者だ。素直に地球史的大地の変遷の永い時の表現と読んでもいいが、放射線物質の無害化に要する時間という途方もない環境破壊、人類への加害性を象徴する時間でもあるという知識は、原発事故によって一般人が知ることになったことだ。

 とまっとうに読んでいる。今号の本誌の特集は、金子兜太の一周忌に因むと思われる「追悼 金子兜太」である。関悦史「極私的兜太忌」、小田島渚「世界のはじまり」、樫本由貴「時の中の芽吹き」、菅原はなめ「平和と自由の俳句」、各氏とも自らに引きつけてあって、読ませるエッセイである。さすがに関悦史は、兜太の人柄、あるいは唱導してきた言説について踏み込んで評している。例えば、

 兜太がいうアニミズムとか生きもの感覚とは、個人の枠を抜け出ての、他の生命との交感というふうにひとまず理解できる。しかしその交感は兜太の場合、肉体を離れて浮遊する精神や魂といった手応えのない抽象性に場を移して行われるわけではいささかもなく、あくまでも、弾力に富んだ、野太い肉体感覚を保持したまま行われるものなのだ。(中略)兜太の講演に必ず出てきていた秩父音頭とは、その原体験に他ならないから重要だったのだ。(中略)
 兜太が一茶や山頭火を参照し始めたり、アニミズムを口にし始めたりと、次々に重点をシフトしながら、つねに一線に居続けたことを「転向」と見る向きもあるかも知れないのだが、これはむしろ、時代の変化に応じて生き続けていくなかで自分の核心部分を彫り上げていく営為だったのではないか。

 と、述べている。



★閑話休題・・・『金子兜太戦後俳句日記』第一巻(白水社)・・・・


「小熊座・金子兜太追悼」つながりで、『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)、全三巻の発行予定である。解説は長谷川櫂「兜太の戦争体験」、それには、

 金子兜太は六十一年間、ほぼ毎日、日記をつけていた。はじまりは一九五七年(昭和三十二年)一月一日、終わりは二〇一七年(平成二十九年)七月三日、正確には六十一年七か月と三日、兜太の年齢でいえば三十七歳元日から九十七歳盛夏まで。一八年(平成三十年)二月二十日、九十八歳で亡くなる七か月前まで日記を書き続けたことになる。
 逝去後、十八冊の三年日記と八冊の単年日記、計二十六冊の日記帳が遺された。
(中略)
 日記の書かれた時代は戦後の昭和と平成、二つの時代にまたがる。そして昭和を生きた兜太と平成を生きた兜太は明らかに印象が異なる。単に年輪を重ねただけのものではない。
(中略)
 「末期的大衆俳句」とは一言でいえば批評を喪失した俳句のことである。平成三十年間の俳句大衆は兜太とは何か、兜太の俳句とは何か、兜太俳句の方法とは何かと問う代わりに、兜太を長寿社会のシンボルの一人に祭り上げた。

と記されている。本日記は著作権者である金子眞土の校訂をえているが、日記の総てが収録されているわけではない。「俳句関連の記述を中心に収録し、必要最小限の範囲でその他の部分も補足した」(凡例)とある。従って、1957年2月2日からの収録になっているが、有難いことに「日記全体の雰囲気を知ってもらうために」(解説)、長谷川櫂は一月一日を入れてくれている。それを以下に引用する。

  一九五七年(昭和三十二年)一月一日(火)晴
九時半、家族寮夫妻一同、表に集まり、新年のご挨拶。着物の苦労するご夫人もいるとか。
 十時半、銀行の監査室で店の者一同祝賀。文書課長、最後に「支店長万歳!!」と三唱したのは大傑作。マージャン。調査役訪問。彼大いに傍系の苦況を語り、へベレケに酔う。帰り、またマージャン。

 こうした、日銀に関する記述の多くは略されているのだろう。下世話な愚生などは、それも読みたいと思う。もちろん、俳壇状況が当時のリアルタイムな感情としても読めるというのは、たしかに一級資料である。因みに第1巻の月報は、稲畑汀子「金子兜太さん」、佐佐木幸綱「造語とあだ名」、藤原作弥「日銀時代の金子兜太」、前川弘明「長崎時代の金子兜太」、安西篤「『海程』創刊時の金子兜太」。
 第一巻の収録期間は、1957(昭32)年(兜太・37歳)~1976(昭51)年(56歳)。第二巻発行予定は本年8月。

金子兜太(かねこ・とうた) 1919年~2018年、享年98。埼玉県比企郡小川町生まれ。



2019年3月14日木曜日

梅元あき子「ソメイヨシノ石狩川を北限に」(『大氷柱』)・・



 梅元あき子句集『大氷柱』(金雀枝舎)、集名の由来については、著者「あとがき」に、

 表題の「大氷柱」は、わたしが生まれた北海道釧路市の風景からイメージした。積雪量は比較的少なかったが、濡れた道路はいつも凍っており、どの家の屋根にも氷柱が下がっていた。

とある。その氷柱を詠んだ句に、

  手の届く氷柱払へば楽器音      あき子

がある。極寒の地であれば、その氷柱の折れる音は、乾いた金管の音に近いのかも知れない。今頃は流氷の時期かもしれない。懇切な序文は今井聖、その結びには、

 (前略)テーマを分けてどの傾向をとってもあき子さんの個性が生きている。もう技術的にはこれで十分、これ以上巧くならないように留意しながら自分の赤裸々な過去と生々(なまなま)しい現在を見つめてほしい。

と記している。著者の生まれ育ったのが、釧路市大楽毛(おたのしけ)という地名、昭和の前半までは馬市で知られた町であったという。
  
  馬市や秋夕焼の大楽毛(おはのしけ)

ともあれ、いかに以下にいくつかの句を挙げておこう。

  流氷が近づくほどに乳の張り
  敗戦日父は必ず散髪に
  朝凪や戦の予感いつも海
  グラマンの弾痕夕立の国道駅
  空蝉の重力微か葉に残し
  大花野機関車トーマスより降りて
  バクテリア五億は踏んで椎拾ふ
  大枯野寝釈迦の足の揃はざる
  ロシアンティー隣りの席は葱の束
  浮寝鳥励まし合ふこと嫌ひなり

梅元あき子(うめもと・あきこ) 1939年、北海道釧路市生まれ。



2019年3月13日水曜日

多田薫「夏潮へ旅路の基点六分儀」(『谺せよ』)・・・



 多田薫句集『谺せよ』(花乱社)、遺句集である。序文は筑紫磐井、題字・山本素竹、序詩・森崎和江、画・長谷川陽三、装画・西島伊三雄、装丁・別府大悟。集名に因む句は、

  全山の木の実降らせよ谺せよ     薫

 からだと思うが、多田孝枝の「あとがき」には、

  四季順の形をとっておりますが、薫さんが秋の千草・蜻蛉・紅葉の頃を好んでいたので、あえて秋から始めています。また、学生時代から山登り、山歩きが趣味の薫さんと各地の山を吟行しました。やまびこはいつも、孝べえ、薫さんでした。そんな夫婦をよく知る別府さんが、題を「谺せよ」と名付けてくださいました。命響き合う、薫さんの叫びが聞こえてくるようです。

 とある。また、序詩・森崎和江の色紙には、「いとしい人よ/はるばると/無量の風/の中」とあった。序文の筑紫磐井「多田薫句集『谺せよ』に寄せて」は、冒頭、

 西日本新聞社論説委員、九州造形短期大学学長を務めた谷口治達氏が、代表となって刊行していた「ばあこうど」という雑誌がある。その実質的な取りまとめを子なっていたのが多田薫さんである。

 と書き出し、

 考えてみると、多田さんはこの道何十年の俳句で煮染めたような作家ではないような気がする。例えば、多田さんの俳句活動の拠点となる「ばあこうど」を創刊したのは、小原菁々子に初めて俳句の指導を受けてから五年後、「ホトトギス」に入会してから三年後、「花鳥」に入会してから二年後なのである。一般的にいっても余りに早い。これは多田さんの本質が俳句コーディネーターであったということになるのではないかと思う。(中略)
 コーディネーターであっても俳句についての知見が必要なことは言うまでもないが、特定の流派にこだわることは、コーディネーターの広い識見とは少し矛盾するところもある。多田さんはその意味で必ずしも花鳥諷詠や客観写生でがんじがらめになった作家ではなかったのである。だからこそ「ばあこうど」や「六分儀」の成功を導き出せたのではないか。

 と述べている。平成12年に、多田薫はくも膜下出血で倒れ、奇跡の生還を果たし、しかも、妻の孝枝もまた車椅子生活を余儀なくされ、リハビリなどの闘病生活、そして、夫唱婦随の俳句は作り続けれられていく道行などは、愚生には、遠く及ばず、到底真似のできないものである。それにしても享年が67とは、やはり残念なことにちがいない。ともあれ、集中より幾つかの句を挙げておきたい。

  舌鋒をさけて枝豆つまみをり      薫
  蜻蛉や空の青さに見失ふ
  ひとつでも萩の主をしてをりぬ
  どの柚子も小さき枝を母として  
  初春の都会にふたり生きてをり
  生と死のちいさなちがひ冬木立
  いぬふぐり土のにほひをむらさきに
  息を吹きかけては蟻の列乱す
  風鈴の青き音より町の朝
  滴りに口づけをしてさあ行かう
  手をつなぎほつこり紫陽花ロードかな  

多田薫(ただ・かおる) 1951年5月25日~2018年11月15日(享年67)、福岡市直方生まれ。 


2019年3月12日火曜日

渡七八「とことわに花の天涯駆けられよ」(「つぐみ」NO、186より)・・



 「つぐみ」NO・186(編集発行・津波古江津)に、津波古江津「追悼 谷佳紀さん~ありがとうございました~」が掲載されている。そしてまた、渡七八は「1月号共鳴10句」に、谷佳紀の遺稿であった作品を、10句中、異例ともいえる以下の4句を選んでいる。

   愛は消えてもそこはまぁ紅葉です   佳紀
   ただ風を思うなるべく小春日の
   紅葉に隠れ石は石のままの夕焼
   紅葉や心が心呼ぶような

 いかにも、谷佳紀らしい句ばかりである。また、追悼文末尾に追悼句が寄せられていたので、ブログタイトルに挙げた以外の句を以下に挙げておこう。

   マラソンの春一番と並走す     有田莉多
   春あかね逝きし谷さんの余韻    津野丘陽
   枇杷の実がちょっとふくれる谷佳紀 平田 薫
   鳥雲に入るごと谷佳紀逝きぬ    藤原夢幻
   僕はねと首を傾げて君子蘭    らふ亜沙弥
   春光のまなざし遠く走るひと    渡辺テル
   谷さんが走る神奈川沖浪裏    津波古江津 

 また、同誌今号には外山一幾が「俳句形式と『楽になる』こと」を執筆している。そのなかに、

(前略)ようするに高柳は、「俳句を書く習慣」の更新時期が来たときに、それを更新するのではなく、「回復」することを選んだのである。それはいってみれば、自らの生にもたらされた新しい状況とぶつかりながら「昨日の僕の手で書き終わったものの繰り返し」を超える新しい俳句を書いていくのではなく、「昨日の僕の手て書き終わったものの繰り返し」をすることを選びとるというような、やや奇妙なふるまいを意味するものであった。『山川蟬夫句集』に見られる試みは、そうした選択によって初めてなされうるものだったのである。

 と興味深く書かれている。これにからめて、伊藤亜紗『どもる体』(医学書院)の「吃音を持つ者がリズムに『ノる』ことで流暢に話せるようになる現象について論じるなかで、同じ幅の単位の反復である『リズム』の法則性に依存し『リズム』とともに運動していることで楽になる状態(運動を部分的にアウトソーシングしている状態)こそが『ノる』という状態であると述べている」(同前)ことを引き合いに出して論証を試みている。



★閑話休題・・原満三寿の松林尚志『一茶を読む やけ土の浄土』(鳥影社)評(「現代俳句」3月号』)など・・・


  谷佳紀つながりで、「ゴリラ」をともに発行していた原満三寿の松林尚志『一茶を読む やけ土の浄土』についての書評が目に留まった。最後に以下のように記してあった。

(前略)だから作者は、六十五歳のとき、柏原大火で類焼し、土蔵暮らしを余儀なくされて、ついには最期を迎える一茶なのだが、それは「やけ土の浄土」であった、と結論する。
 本著にあえて異見を言えば、作者は一茶の小さい生きものへの眼差しを「アニミズム的志向」とするが、わたしたは、仏教の「悉皆仏」の顕現のように思われるが、如何。

 今号「現代俳句」は神野紗希『新興俳句アンソロジー』発行にあたり」、松本誠司「加藤楸邨と私」も感銘深い玉文であったが、何と言っても、川名大「桂郎対と兜子、十対九という誤伝ー第九回現代俳句協会賞選考の誤伝を正すー」は、選考経過について、当時の選考経過資料を駆使して、これまでの誤伝に終止符を打って、事実を明らかにしたものであり、貴重な論である。結びに、

 なお『証言・昭和の俳句上下』(角川書店ー平成十四・三)は語り手の記憶の風化による多くの錯誤だけでなく、語り手によっては意図的な虚飾も含まれている(たとえば、中村苑子ー「昭和三十六年と言う年は現代俳句協会が分裂した年です。その当時、高柳も私も幹事をしていました〈・・・・・・・・・・・・・・〉-傍点部は虚飾)。こうした語り(聞き書き)や評伝等の二次資料を使用する場合は、特にその信憑性に留意する必要がある。

と、念を入れて述べている。


2019年3月11日月曜日

ますだかも「蓑虫の身じろぐ揺れと思ひけり」(「垂人」35号より)・・



 「垂人(たると)」第35号(編集発行、中西ひろ美・広瀬ちえみ)、俳句、川柳、短歌、詩、連歌、エッセイ、吟行記など、何でもそろっているが、そう分かりやすい雑誌ではない。今号では、広瀬ちえみ「こんな本あります⑨・別役実童話集『おさかなの手紙』も、中西ひろ美「樋口由紀子のゆうぐれ・最新句集『めるくまーる』(ふらんす堂)より」も、中内火星の詩「にっこり笑う」も、野口裕は、俳句・短歌・詩も面白く読ませてもらったが、とりわけ、鈴木純一「武蔵國一之宮(LOTUS・垂人合同吟行)の記事を面白く読んだ。愚生の耄碌したアタマではいくつか引用しても、その醍醐味は読者には、とうてい伝わらないだろう。直接、本誌にあたっていただくしかない。ここでは、LOTUS派(純一は自らを日和見派と記しているが)の一人一句のみを以下に挙げておこう。

   もとほるや
   かのあきかぜと
   ともあるく              酒巻英一郎

   水涸れて生気抜かれて豹と熊       井東 泉
   神池の外様の亀に秋の日箭        上田 玄
   奥社(ヤシロ)奥の鎮守の出雲族     松本光雄

 本号では作品下段に唯一、ミニエッセイを入れている坂間恒子が、先般、亡くなった佐藤榮市との思い出を語っている「月光の待合室の句会かな」恒子。ともあれ、垂人派の一人一句を以下に・・・。

   迦陵頻の天冠の色石蕗の花         坂間恒子
   会釈してまた晩秋とすれ違う       髙橋かづき
   綿虫や四五人みえてゐてひとり       川村研治
   人恋しまでは読めたが雪の句碑      中西ひろ美
   小鳥来て古楽の木の実啄むや        渡辺信明
   一本一本(ひとつづつ)管が外れて日脚伸ぶ 鈴木純一
   鬣の痕なき老ひや曼珠沙華        ますだかも
   ほんとうに死んだことにする取り囲み   広瀬ちえみ
   惨状のコンビニの棚サラダ油のみ      野口 裕



   

★閑話休題・・今泉康弘「川柳的な、あまりに川柳的なー川柳との違いについての試論ー」(「蝶」連載)・・
   

「蝶」235号では、昨年開催された42周年蝶俳句大会の記事で多くが費やされている。
「青玄」の伊丹三樹彦の盟友であった「蝶」前代表のたむらちせい(現・顧問)は、肝硬変で入院し、老人ホームに入所しているとあったが、さすがに健在である。

  豆ごはん愛の言葉は無尽蔵          ちせい(「蝶」235号) 
  見舞いの子老し手を撫ぜながら聞く「死ぬの?」
  ぐちよぐちよに潰し何ぢやこれや奇怪なおせち       (236号)   
   
現在「蝶」の代表は「円錐」同人でもある味元昭次である。

  反核の鵙護憲派の団子虫         昭次

「蝶」大会のテーマは「俳句と川柳」。浜田妙「味元昭次108句に寄せて」の結びには以下のように書かれていた。

 「川柳の持つ批評性、笑い、野放図、とりわけ・・・毒・・・そんなものから吹いてくる風は、淀んで濁った俳句の世界にいささかの清々しさを運んで来てくれるのではないか」と。

 で、その「川柳的な・・・」の今泉康弘の連載だが、小見出し「現代川柳の分析とまとめ」(「蝶」236号)では、以下のように述べている。

(前略)ぼくの思うに、映像性を回避することは、川柳の本質なのである。なぜなら、映像性を持つと、俳句に近づいてしまうからである。(中略)
 かつ、川柳作家たちは川柳独自のものを求めてきた。人生論であり、謎解きであり、隠喩性である。このうち、謎解き性は時事川柳が担当している。なお、川柳作品に隠喩の使われている時、その隠喩が一見したところでは何を意味するか理解しにくいことがある。そのとき、隠喩は謎として機能する。隠喩を理解することは謎解きになる。現代川柳の最左翼の作家は、きわめて難解な隠喩を駆使している。

 本論中に、川上三太郎は「どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ、それ以外は全部川柳でもらおう」と言ったとある。では、俳人も言うしかないだろう、「どこまでが川柳か川柳の方で決めてくれ、それ以外は全部俳句でもらおう」。  

  天界へ徒歩で行けますBAR「マリア」  きゅういち(2018「晴」1号)
  空腹でなければ秋とわからない   樋口由紀子(2018『めりゅくまーる』)