2019年3月29日金曜日

金子兜太「子馬が街を走っていたよ夜明けのこと」(「兜太」Vol.2より)・・



「兜太」Vol.2(藤原書店)、特集は「現役大往生」。兜太自筆生原稿・兜太百句の写真掲載。創刊記念イベント、1「兜太を語りTOTAと生きる」シンポジウム(芳賀徹・下重暁子・上野千鶴子・いとうせいこう、司会に黒田杏子)、2「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」(筑紫磐井・木村聡雄・高山れおな・関悦史・柳生正名・江田浩司・福田若之」など,また、「兜太俳句の現場を歩く」(夏井いつき他)、その他、第4回正岡子規国際俳句賞受賞の講演・金子兜太「ア二ミストとして」。宮坂静生講演「兜太と一茶」、そして「金子兜太氏生インタビュー(2)」等々、盛りだくさん充実の第2号である。加えて投句選者陣こそ豪華である「兜太俳壇(第一回)」の特選作品は以下、

 ・黒田杏子選 平和な日々見守る役目案山子立つ   鈴木 靖
 ・筑紫磐井選 ゾウガメのどたりと重し檻の中    浅野幸司
 ・横澤放川選 一本の線香二月二十日かな     曽根新五郎
 ・橋本榮治選 八月の日本の金子兜太かな     曽根新五郎
 ・坂本宮尾選 綿虫の綿の平和を守り抜く      梅田昌孝
 ・井口時男選 泣きながら生まれる者に冬銀河    菊池 健 

 創刊号につづく、「兜太氏生インタビュー(2)」は興味深いが、「編集整理は最小限にとどめ、なるたけ語り口をそのまま残すようにした」(筑紫磐井)というだけあって、兜太調が髣髴とする。兜太の「ドストエフスキー体験」について井口時男が尋ねた場面、井口時男「金子兜太とドフトエフスキー」(藤原書店「機」NO.323)では、上手くかわされているが(もっともそれが兜太らしいところだが)、愚生がかつて兜太に「もっとも影響を受けたのは?」という質問に「サルトルの実存主義だよ」と答えられたことがあり、確かに戦後の一時期、愚生の若い時代は、マルクス主義?というよりも、たしかに実存主義が大流行り、一世を風靡していたという記憶がよみがえったのを覚えている。もろもろ、金子兜太という傑物像の話題にはことかかないが、ここは、その俳句作品をめぐっての井口時男「社会性とイロニー~前衛・兜太(二)」に指を屈しておきたい。そのイロニーについて、三鬼「広島や卵食ふとき口ひらく」と兜太「霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ」」の句を挙げて、三鬼にはイロニーがあり、兜太はイロニーを知らない、という。それを「金子兜太はイロニーを拒むー兜太と草田男」にまで敷衍している。そしてその論は腑に落ちる。
 
(前略)巧妙なイロニーは意味の非決定性を保持する。それは意味の反転可能な両義性を、さらには不確定に揺らぎつづける多義性を作り出す。両義性や多義性は日常会話にあっては不都合な誤解の因だが、文学、ことに詩にあっては本質である。よって文学言語の本質にも通じる。

 また、草田男「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」については、赤城さかえの『戦後俳句論争史』には、イロニーという言葉は出て来ないが、としたうえで、

(前略)重要なのは、作者の「真意」を問うこのまなざしが、戦後「民主主義」陣営の(主観的)善意にもかかわらず、戦時下の検閲官と同じまなざしだ、という一点である。そして、隠者共同体の無風空間の外には、いつでも、この政治的暴風が荒れ狂い得る、という一点である。

 であると述べる。この玉文こそイロニーである。さらに戦時下(昭和14年)の草田男の句「世界病むを語りつつ林檎裸になる」について、

 私がこれをイロニーの名句とするのは、ここ世界を対象的に認識するまなざしと、世界を認識している自分自身を反省的に見つめる自意識の屈折したまなざしとの両方が、あざやかな形象化となまなましい体感をともなって、詠みこまれているからである。

 といい、もちろん、兜太「いどみ齧る深夜の林檎意思死なず」の句とも比較している。あるいは、

 「創る自分」を強調しても、金子兜太はやはり中村草田男と同じく充溢した「実」の倫理的主体なのである。そして、たとえ兜太が草田男の倫理の求心性に飽き足らなくとも、倫理性は常に社会的である。(「虚」の主体であることにおいて、高柳重信的前衛は、実は俳句的主体の「正統」に属している。むしろ草田男や兜太の「実」の主体の方が「異端」である)。

 と記すのである。本論のいたるところに、ここに引用した以上の示唆に富む指摘がある。興味のある向きは、直接本誌に当たられたい。論の結びは、

 ともあれ、金子兜太はイロニーを拒み続けた。それゆえに六〇年代の前衛・兜太は七〇年代以後も社会性から「転向」しなかったのだ、と私は思っている。それはまた、イロニー的諧謔とは似て非なる金子兜太のユーモアとも関わるのだが、それは別稿とする。
 
と、これまた、次号以降に期待を持たせてくれている。因みに、ブログタイトルに挙げた「子馬の」句は、兜太が80歳半ばに、NHK俳句王国で詠んだ句だと、神野紗希が紹介していた句である。




★閑話休題・・府中市美術館「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」(~5月12日まで)

 その案内に、「見事な美しさや完璧庵な美しさに、大きな感動を覚えます。しかし、その一方で、きれいとは言いがたいもの、不格好なものに心惹かれることもあるでしょう。『へそまがりの心の働き』とでも言ったらよいでしょうか」とあった。なかに、藤田真一が、蕪村の絵画作品は600点以上あり、俳諧と絵を融合させた俳画の分野では、他の追随を許さぬ味わい、と『蕪村余興』(岩波書店)で言っていたが、本展の蕪村は、「寒山拾得図」「寿老人図」など、その彩色された水墨画にはたしかに追随を許さないものがあると思えた。そのほかにも、このテーマのもとにアンリ・ルソー、伊藤若冲、蛭子能収、小川芋銭、小林一茶、小出楢重、仙厓義梵、歌川国芳、徳川家光、長沢芦雪、夏目漱石、白隠慧鶴、また、丸山応挙、三岸好太郎、村山槐多、萬鉄五郎など、飽きない充実の面々である。
 美術館のある府中の森公園は、愚生の散歩コースのひとつで、今回の展示の二回目の観覧料は半額、また、いくつかの店のポイントカードをみせるて、さらに割引となるのは嬉しい。


          撮影。葛城綾呂 二ホンタンポポ ↑

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