2015年7月20日月曜日

中村光影子「朝顔のからまる始終見えて病む」(『雲海』)・・・



中村光影子(なかむら・こうえいし)は1944年京都市生まれ、小学一年で山口県山口市へ移る。
1966年、大中祥生師と出合い弟子入りし雅号「光影子」を戴く。
1975年、赤尾兜子「渦」、同人誌「鷺」に参加。
2005年同人誌「ロマネ・コンティ」に参加。
2015年古希を機に『雲海』(私家版)出版。

などと、記された経緯をみて、いささか驚くとともに興味を抱いたのである。
というのも、山口県生の愚生が高校生の折に、毎日新聞・防長俳壇に投句したときの選者が誰あろう大中青塔子(祥生と改名)だった。
さらに、愚生は立命館の二部学生になって京都に住んだ折に、俳人を誰も知らなかったので、数回、大中青塔子にハガキに句をしたためて送ったことがある。
その折り返しのハガキに添削がほどこされていたこともあった。
愚生は1970年初頭には赤尾兜子「渦」に投句していた時期もある。また、「鷺」にはその編集発行人であった三浦健龍の計らいで高柳重信論を連載させてもらったことある(重信はまだ健在だった)。
三浦健龍は父を三浦秋葉といって飯田蛇笏・龍太「雲母」の同人だったと思う。
その三浦健龍は、いまどうしているのだろうか。
つまり、中村光影子は愚生のたどった俳歴の部分の多くに重なっているではないか。
ただ、愚生は以後、きちんと師をもつことなく、デラシネだったが、光影子は大中祥生を師と選んで現在も「草炎」同人として活躍されいるらしい。
本句集『雲海』には「草炎」現主宰の久行保徳が序を寄せ、解説を松原君代が寄せている。
いくつかの句を挙げてお礼にしたい。

    鰯雲溢れ盆地の葬始める          光影子
    今日だけの魔法使いよ春帽子
    父と子の花うらないや秋の果
    首太の義母見え隠れ菖蒲園
    薄氷やあの世との道開けてあり
    真っ直ぐに上げた子等の手夏来る
    蝉の穴覗くと別れより深き
    ポケットの穴から冬の星こぼれ
    バス停の先頭にいて冬日の出
    

終りに一言のみの苦言を.・・・本句集「冬の象 二十代」の章に、山口新聞・防長俳壇の青塔子選に入ったとあって「夜の潮目玉濡らさず泳ぐなり」の句が収められているが、先に鈴木六林男のあまりに有名な句「暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり」(昭和23年)があるのだから、しかもさすがに六林男の句の方に、軍配が上がる句なので、光影子の若き日の記念とはいえ、あえて掲載に及ばずともよかったのではないかと思う次第である。



    

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