2017年12月10日日曜日

宇田川寛之「三島由紀夫の享年近づく僕たちは自決の秋の午後に生まれき」(『そらみみ』)・・



 宇田川寛之第一歌集『そらみみ』(いりの舎)、18歳のとき2歳年上の歌人・枡野浩一と知り合ったという。その時の短歌の一つが、

 「もうハタチ・・・・自覚しなきゃ」と言ったのに「自殺しなきゃ」と伝わる電話
                                   枡野浩一

だった。宇田川寛之が「短歌人」に入会したのも二十歳。そして言う。

 歌集をまとめようと思ったことが三十代半ばまでに二度ある。しかし、いずれも生活環境の激変があり、歌集どころではなくなってしまった。(中略)覚悟がなかった。以後も歌集刊行を勧めてくれる人がいないわけではなかったが、まさに生活に追われて、歌集をまとめようとは到底思えなかった。やがて勧めてくれる人は皆無に近くなった。

 纏められた短歌は2000年から15年の間の作品415首、二十歳から「短歌人」の欠詠がなかったというから、歌数は相当なものにのぼったはずだ。数首を除いて、20代の作品はほぼ捨てたようである。
 愚生が彼を知ったのは、「俳句空間」(弘栄堂書店版)の新鋭投稿欄である。もう20数年前のことだ。『燿ー「俳句空間」新鋭作家集Ⅱ』に参加してもらった。一人100句・16名のアンソロジーだった。その頃、宇田川寛之は俳句も作っていたのだ。当時23歳、アンソロジーのなかではもっとも若手であった。その時の正木ゆう子の評に、「追想に本音のような天気雨」「パラフィンのごとき言ひ訳繰り返す」などの句を挙げたのち、「もともと体質的にこの作者には『切れ』に対する必然性が希薄なのかもしれない。現在は俳句は開店休業中で、短歌の雑誌に属しているという。優しさは短歌では長所に転じるだろう」と記している。その優しさは本歌集に満ちている。愚生は年のせいか、おもわず涙腺を刺激された歌がいくつもある。宇田川寛之は、いまや充実の時を迎えようとしているのかもしれない。静かに六花書林という詩歌の出版社を一人で立派にやっている。
 ともあれ、いくつかの歌を以下に挙げておこう。

  愚図愚図と雨降りしきる。渋滞に連なるのみの二十代はも   寛之
  間の抜けた謝罪を朝に投函す酒のちからの口論の果て
  転居通知を投函せしが〈転居先不明〉と戻りきたるいちまい
  花水木はじめて見る子を抱きつつ五月の空のした抜けられぬ
  来年二月古稀を迎ふるはずの父、途切れ途切れの例のさびしさ
  待ち合はせ時間に遅れ焦る吾を背後から呼ぶこゑはそらみみ
  どしやぶりはおもひがけずに来るものぞひとつの傘に子と身を寄せて
  受賞者へ短きメールせむ「友がみな」などぼやくことなく
  無名なるわれは無名のまま果てむわづかばかりの悔いを残して
  匿名の許されてゐるゆふぐれを行き交ふひとはみな他人なり

一句献上! 

  宇田川のひろく散りたるこれは空耳   恒行

宇田川寛之(うだがわ・ひろゆき)、1970年、東京都生まれ。




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