子規庵の枯れヘチマ↑ ヒメザクロ↓
新潮社「波」2月号から、新連載で森まゆみ「子規の音」が始まった。
不明を申せば、森まゆみについて、愚生はほんとんど何も知らない。子規についての連載というので、思わず読まされたしまった。
森まゆみは「谷中・根津・千駄木」の地域で相当に貢献されている方らしいから、根岸の里の子規は掌中の玉なのであろう。読む楽しみが増えた。
子規はこれまでにも様々な小説のモデルになっているくらいだから、よほど魅力的な人物に違いない。時代背景も明治という時代精神を負っているところなどがそうさせているのかも知れない。
俳人の末席を汚している愚生は、もっぱら子規によって出発した「俳句」の革新的な部分に生涯の興味を抱いているのだが、功罪というものは何にでもあって、子規が排した月並俳句は、まったくそれらの俳句を実際に読むことなく、長いあいだ唾棄すべきものだと信じてきたぐらいだ(反省・・)。
先日は伊集院静『ノボさん』を書店で立ち読みして、じっくり読もうと思って近くの図書館に出かけた(何しろ部屋は狭いし蔵書にするには、もはや苦しい、さらに年金生活ではちと、出費が嵩し・・・)。
『ノボさん』は人気らしく市内にある分館もふくめてすべて貸し出し中。図書館員の方が「リクエストされたら、順番でお知らせしますよ」と言うので、それではと、お願いしておいたのだが、3週間のちの今になっても、音沙汰がない。
じつは「波」でこれまで毎月読んでいたのは、嵐山光三郎「芭蕉の修羅」と堀本裕樹と穂村弘の「俳句と短歌の待ち合わせ」を楽しんでいたのだ(VS方式だから、俳人方を贔屓にしているのだが、穂村弘の才にはちと分が悪い)。その前は、歌人・永田和宏の河野裕子についてのエッセイを毎回涙を流しながら読んでいた。
ボケ↓
0 件のコメント:
コメントを投稿