2016年4月18日月曜日

浅沼璞『俳句・連句 REMIX』(東京四季出版)・・・



自らをレンキストと呼び、創案の連句形式「オン座六句」の普及につとめている著者・浅沼璞(あさぬま・ハク、1957年東京島嶼生まれ)の新著『はいく・れんく リミックス』である。
愚生も何度か、そのオン座六句の席に座したことはあるが、何と言っても、捌きの浅沼璞にすべてなすがまま、言われるままに付いていくのがやっとという体たらく。それはそれで彼の志向性に、いつも何かを啓かれる思いがするのである。
本著もすべての構成が連句仕立てになっていて、序の章の「俳句的連句入門」、急の章の「連句的西鶴論」など、門外漢からすると実にスリリングな展開である。
それは、他のいわゆる連句入門書ともちがう連句に対する道筋のようにも思える。高柳重信の「連句への潜在的意欲」の論も攝津幸彦をめぐる平成の西鶴論も興味深いものだ。
愚生の不勉強ゆえだが、子規が「俳句」という、そして虚子が俳諧連歌を「連句」と読み替えて「連句」という呼称を一般化したという功績・・・には、そうだったのか、と改めて感じ入ってしまう。
さらに浅沼璞は「平句への潜在的意欲」で以下のように述べている。

 そもそも重信が新興俳句にみた「連句への潜在的意欲」とは、〈発句ではない自由な五七五〉つまり季語や切字に拘束されない平句(付句)への潜在的な意欲であった。具体的にそれは、連作俳句やそこから派生した無季俳句として顕在化された。ひるがえって虚子が自派にみた潜在的意欲とは、〈人事をも縦横に詠じ〉る平句へのそれであり、当然のことながら季語を否定するものではなかった。
 このように季語志向の有無が、両者を微妙に差異づけている。その微妙な差異に針をたてることもできようけれど、「平句への潜在的意欲」という、より大きな概念でそれらを包摂しうることも、また否定できない事実であろう。いうまでもな平句には、雑(無季)もあれば季句もあり、人情(人事)句もあれば場(写生)の句もあるわけで、さまざまな潜在的意欲に応えうる多様性を想定できる。だから私がここで針をたてたいのは、季語志向云々ではなく、別の面にある。それは多義的な平句への「潜在的意欲」を虚子がリアルタイムで認識していたという点である。

「オン座六句実作例」から「ある心地」の巻より、第一連のみ以下に紹介する。

  秋  たてがみのある心地して初嵐      鈴木純一
  🌜     雲の狭間をいそぐ月影       浅沼ハク
      電話機が一件の録音を待ち     中西ひろみ
        ペットの餌を捜しあぐねる     広瀬ちえみ
  冬  知らぬ間に川を見おろす白息     ますだかも
  冬★   氷柱を下げて舞台登場         ちえみ  



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