2019年8月19日月曜日

井口時男「多摩川に無神の自裁雪しきり降る」(『大洪水の後で』より)・・



 井口時男『大洪水の後で』(深夜叢書社)、ブログタイトルに挙げた句は、集中「自死とユーモアー西部邁の死について」の文中、「西部邁の死に捧げた私の句である(句集『をどり字』所収)」とあるというものである。中に、

 (前略)ユーモアとは「こわばり」をやわらげるものだ、と私は椎名麟三から教わった。ユーモアは人間の愚かさ(有限性)の自覚に立脚する態度であり表現であり、だから自己を相対化し、地上のいかなるものの絶対化にも反対するのだ。ユーモアは批評を含むが、ユーモアの批評は愛を前提とし、愛を失えばアイロニーとなる、というのも椎名麟三に教わったことだ。

 と、また、

(前略)近年の私が俳句を好む理由の一つもそこにある。俳句は無神論的ユーモア表現の最も簡便な具として最適だと思うのだ。私にそれを示唆してくれた柄谷行人の「ヒューモアとしての唯物論」も、死という絶対なるものと向き合いつつ自己を客観化しつづけた正岡子規の写生文の分析から書き出されていた。

 と記している。愚生は、この一句に、これもやはり自裁した野村秋介の「俺に是非を説くな激しき雪が好き」の句を思い起こしていた。彼、野村秋介は平成5年10月20日、朝日新聞社東京本社において二丁の拳銃で自決した。享年58。(群青忌)。その一週間前に、辞世のように句を残している(のちに縁あってその辞世の25句を読ませていただいたことがある)。その最後の句が、

  惜別の銅鑼は濃霧のおくで鳴る     秋介
  赤蜻蛉 あばよこの世に未練なし
  日本の愚の中にゐて柿を喰ふ

 であった。 辞世の歌は、

  さだめなき世なりと知るも草莽の一筋の道 かはることなし  秋介  

 である。
 ところで、話を元に戻すと、本書は1988年から2018年の31年間、「ほぼ昭和の終りから平成の終りまで」の「時評的な小文を中心に集めた。ただ出し遅れの古証文ではなく、今日の状況とリンクしつつ『現代文学三十年』の流れを概観できる一冊になっていれば幸いである」(「あとがき」)と記されている。そして、帯文の惹句は、

 状況という磁場から/俺に食ひ気があるならば、まず石くれか土くれかーランボオ/
 存在論的な飢えと形而上学的な夢を彫塑した、現代の〈深夜版〉的証言(齋藤愼爾)。
 ポスト・モダンの浮力に抗して、ぶれず、媚びず、群れずーー貫く批評精神。

  とある。言い得ていよう。本著の背には「平成文学三十年の総括」とある。

  井口時男(いぐち・ときお) 1953年、新潟県生まれ。

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