2021年1月20日水曜日

遠山陽子「鬼北風や毛の国のみな尖り山」(「弦」第43号)・・・


 「弦」第43号(弦楽社)、主な内容は、遠山陽子令和2年作品「杜國の地」、その作品鑑賞を髙野公一「米寿白光」、そして、澤好摩「不思議な共感ー三橋敏雄と高柳重信」、遠山陽子「三橋敏雄を読む(6)/『しだらでん』(平成八年十一月十八日刊より)」。その遠山陽子の「あとがき」には、


 今年は三橋敏雄生誕100年の年である。平成生まれの若い作者にとっては、敏雄はすでに歴史上の作家となっているのだろう。しかし、敏雄の予見どおり、三・一一があり、フクシマがあった。世界中が分断と対立の様相を呈し、そしてコロナ。「人類憐憫(あはれみ)の令あれ天の川  敏雄」の句は、未だに生々しくわれわれの目前にあるのである。


 と記されている。本誌中、愚生が興味をひかれたのは、澤好摩の、


(前略)ある話をしているとき、どうも高柳重信の記憶が間違っているように思ったので、「先生、それは違うと思います、それは・・・」と言いかけたら、高柳重信は「澤は帰っていいぞ、明日から来るに及ばず」と、いきなり破門を言い渡されたのである。あまりに突然なので、驚いたが、ここで簡単に破門されてはかなわないと思ったので、「いいえ、そうはいきません。明日、『俳句研究』の校正刷りが出ますので、それを持ってお宅に伺います」と言って、席を立った。

 恥ずかしいことながら、高柳重信から破門を言い渡されたのは、これで二回目であった。一回目は北山印刷の社長が仲に入って、何とか取りなして戴いたのであった。

 そのとき、「俳句評論」の同人ではないが、時折、句会に顔を出していたB氏が「澤君、あのねぇ」と高柳重信と私の仲裁に入ろうとした。その瞬間、大きな声で三橋敏雄が「おい、やめろ。余計なことをせず、こっちへ座っていろ」とB氏を引き止めた。これは正解だった。仲裁なんか入れば、話は余計にこんがらがるし、収まるものも収まらなくなったに違いない。三橋敏雄はそのことをよく分かっていたに違いなく、助けられたのである。


 とあった。澤好摩が、高柳重信のことを「先生」と言ったか、どうかは怪しいが(というのは、当時、先生と言っていたのは女性陣で、男性群はみな、「高柳さん」だったような・・・)、こうしたエピソードは、じつに三人の機微を得ている。もっともこのエッセイでは、「俳句評論」(創刊十五周年記念号・昭和47年11月)に掲載された、高柳重信・三橋敏雄・折笠美秋の「座談会ー『有季・定型』をめぐって」が引用紹介されていて、それが、示唆に富んだもので、これについては、読者諸兄姉が直接当たられたい。ともあれ、ここでは米寿健在の遠山陽子の作品をいくつか以下に挙げておきたい。


  帰去来(かへりなむいざ)星載せて冬欅     陽子

  蛇覚めるころペンキ屋がやつて来る

  ウイルスいづこピンクのスーパームーン

  果て知れぬ花の奈落やわが昭和

  筍のけもののごとき抱き心地

  身籠りてより紫陽花を知り尽す

  古びゆくものに佳人や鳥渡る

  鎮座せし南瓜に悪しき空模様

  色好む男は佳けれ長ひさご

  見たかりし米寿の敏雄十二月


     撮影・鈴木純一「いつだつてモグモグタイム春擦り」↑

2021年1月19日火曜日

可野謙二「母は海三界一同にひらく海の花」(「不知火海のエビガレ」)・・・


            1993年ごろ(28年前)との添え書き↑

 本日、さとみ謙作こと可野謙二の訃がもたらされた。元妻という方の、その便りには「1月10日に可野謙二はおりからの寒さで『低体温症』で他界しました。1月2日でちょうど80歳になったばかり」とあった。彼は山中で一人で暮らしていた。30年以上前から、愚生の娘や息子にと、山で拾った団栗や木の実、木彫りの牛を贈ってきてくれていた。だから、まだ、子どもだった姉弟は、彼のことを「牛のおじさん」と呼んでいた。そして、物心ついたころには影絵の組み写真を贈ってきてくれたり、彼が手作りの竹笛・篠笛もあった。福岡県みやこ郡にあるらしい、その山小屋は「風工房」と名付けられていた。電気も水道もなく、自給自足の生活だったという。そして、時折、俳句を作っていた。「豈」誌の購読を申し込んできてもいた。自ら影絵と物語を作って、近所の小学校で、ボランティアでみんなに披露していたこともあったらしい。そのうちの一つが、「不知火海のエビガレ」だった。短いので以下に紹介したい。

 


      不知火海のエビガレ

不知火海は島々にかこまれて まるで湖のようです。

まだ夜中の3時過ぎ船だまりでは漁師らの声がとびかって それぞれ夕方仕掛けた立網を目指して船をだします。

薄暗い海にチロチロとタルの熾火浮きが咥えて近づいて来ると船首に身をのり出して構えて一瞬の内に浮きを引き寄せます。それから2時間余り所々に仕掛けた網をヨイショヨイショと引き上げます。

海の底から生まれた様に網にかかった車エビがビビンビビンとはねると年輪を刻んだ漁師等の顔にきらりとひかる微笑が浮かびます。


    他にも、影絵「しまった!!オオカミ」ろいうのもあった↓

            


 とはいえ、彼(さとみ謙作=可野謙二)と直接会い、話したことは、たぶん数回にしか過ぎないだろう。愚生が二十歳のとき、つまり立命館大学2部・夜間部の学生だったとき、彼は既に28歳(10歳くらい上だと思っていたが、このたび正確な年齢をはじめて知った)。大阪にある某大学に、彼を含めて3,4人で、夜、その学内に入ったことがある。学園闘争が吹き荒れていた頃のことだ。その大学のキャンパスは右翼が支配していた。いきなり我々は7,8人の男たちに取り囲まれて、逃げようにも逃げられない。袋たたきにされて放り出されるか、闘うかしかない、と観念した。その時、愚生より、わずか斜め前にいた彼が、突然、空手の構えを見せて、「お前らやるのか!!」と恫喝した。数では圧倒的不利だった愚生らは、その一喝で、向うが折れて、無事に学内を案内してもらった。彼は小柄だったが、すでにして、そこらの学生より遥かに年上のいいオッサンだったに違いない。事実、空手は相当な腕前だったらしい。生まれは、和歌山県熊野の山奥(中辺路町内井川)と言っていた。縁はあるもので、大牟田の俳人・谷口慎也とは地元で知り合いになっていたらしい。さらに大昔、堀本吟・北村虻曵宅に泊まったこともあるらしい。

 この度の訃の便りには、一人で山小屋を作り、50歳から30年を一人で自給自足、これまでさしたる病もなく、生き抜いて、自分のスタイルを貫いての大往生、とあり、100日をめどに実家のある和歌山にいくまで、地元の人の世話になりながら、遺骨も春先までは、その山小屋に安置されいるという。無宗教だったので、戒名は、元妻と娘さんで次のように付けられたという。いい戒名である。


  風魂貫宙赤捲遊泳仙人


 最後に、愚生の元にある5年前のレターパックに記されていた彼の俳句をいくつか挙げさせていただいて、ご冥福を祈りたい。

  

 平成29年3月「上関原発を建てさせない祝島島民の会/御礼とご報告」が貼りつけられていたレターパック↑


   湖底の月の溺れて空に沈む刻         謙二

   地震降りて闇一頭のいななきを聞き

   たんぽぽのぽぽのあたりで風にのれ

   汚染水垂れ流すなよ魚怒る

   金玉を直して強き相撲かな

   虚空よく物容ると兼好いふてダークマター

   水の面にあや織り乱れアメンボ

   尺取虫宇宙に広さ刻々告げり

   樹液あびた個体は暗から闇へ転化をはかれ

   3・11春の心の置き所なし

   母は海漁師魂と枇杷の島

   山怒る核汚染どうしてくれる

  

  可野謙二(かの・けんじ) 1941(昭和16)年1月2日~2021(令和)3年1月10日、和歌山県生まれ。享年80.

  


         芽夢野うのき「どこまでも冬野いっそう白き野風」↑

2021年1月18日月曜日

大牧広「昼すぎて白疲れゐし初国旗」(「こんちえると」第38号)・・・

  


 月刊俳句通信紙「こんちえると」第38号(牛歩屋主人・関根どうほう)、師系/大牧広とあるように、大牧広にまつわる記事も多々あるが、他誌に見られない特徴は、何と言っても、関根道豊「時評もどき・12月」で、三大新聞「俳壇」の投句欄、ならびに、総合誌の秀句を拾って、しかも、いわゆる社会詠・時事詠を多く、これでもか、と言わんばかりに収録していることではなかろうか。月刊紙とされているので、愚生などには、この煩瑣を徒労の積み重ねのようで、むしろ心が痛むくらいだ。しかし、それは、関根道豊という人の使命感のようでさえあり、大牧広の以下の言葉を挙げていることからも伺えよう。


 大牧広先生が逝かれて、はや1年9カ月になろうとしているが、私の耳を離れないのが次の言葉である。

 「『風雅の誠を追う』という俳人の姿勢に溺れることなく地球上に何が起きているかを、しなやかな精神で詠み続けることが現代俳人の課題であると考える/地球上の不幸な出来ごと、戦争、テロ、病気、これらを直視して俳句となす。この姿勢こそが俳句に永遠の力を与えるものだと考えている。」

 大牧先生と「港」30年の、俳句の到達点がここに凝縮されている。


 例えば、「朝日俳壇」、ここでは「豈」同人の高山れおなの選句のみを引用しておこう。


 12月13日・寡婦多く空家も多し柿の村       宇部市 萬 洋子

 12月20日・十二月八日国民マスクせよ       白河市 佐藤佳夫

       マスクして羊の如く冬を征く      宝塚市 沖 省三

 12月27日・出て籠り籠りては出る年の逝く  京都府精華町 土佐弘二  


 その他、特別寄稿に武良竜彦「高野ムツオの震災詠総括1」、高橋まさお「核の時代をどう詠むのか 時事詠を読む(21)」、波切虹洋「虹洋の練習塾」など、愚生の老いの眼には、少し難儀な、文字小さめの記事が満載されている。 ここでは、特集の「2020年の秀句を振り返る」から、「こんちえると俳壇・雑詠【天】の句」の第7回~第18回を以下に紹介しておきたい。


   柿の木は残し故郷の墓仕舞       早川信之

   あの頃の茶房のマッチ雪が降る    朝賀みどり

   「生きる」とは全身麻酔さめて咳    青野草太

   シャボン玉幼き息を継ぎ足して     波切虹洋

   捨て畑に意地のごとくに葱坊主    足立貴志子

   人を避け人に避けられ暮の春     石原百合子

   曝書して師の終焉の五句に逢ふ     角田大定

   人類が創りし忌なり原爆忌       青野草太

   締め直す蛇口のゆるび敗戦忌      熊谷美之 

   手花火の落ちた闇から昭和の春     田村専一

   オムライスやさしくくずす賢治の忌  若林ふさ子

   鍵盤の一つ沈ませ愁思かな      前田千恵子  


       撮影・鈴木純一「臘梅や母のむくろに触れた手で」↑

2021年1月17日日曜日

安里琉太「日本の元気なころの水着かな」(「滸」2号より)・・・

              


 「滸(ほとり)」2号(編集 安里琉太、髙良真実)、特集Ⅰは安里琉太『式日』(西村麒麟選『式日』抄)、特集Ⅱは西原裕美『わたしでないもの』探訪、他に、同人作品(安里琉太・酢橘とおる・髙良真実・西原裕美・屋良健一郎)と企画「相互評」とある。ここでは、紙幅と愚生の都合で、句と歌の作品のみの紹介に留めたい。『式日』評の福田若之「たそがれの飽和から」の中に、


 (前略)琉太はむしろ龍太の句のモチーフを借り受ける。たとえば、琉太の《寒雲の蒐まつてくる筆二本》は、龍太の《春暁の竹筒にある筆二本》を踏まえたものと読める。ところで、同じく『式日』に収められた《ひかり野に蝶が余つてゐるといふ》は、折笠美秋が彼の妻に宛てた句とされる《ひかり野へ君なら蝶に乘れるだろう》を踏まえたものだ。琉太は、いわゆる「伝統」もいわゆる「前衛」も、隔てなく自らの句に取りこむことができる。ただし、それは彼が句から表層的なイメージを抽象することによる。琉太は、龍太のように書くのでも、美秋のように書くのでもない。仮に同じ二本の筆を得たとしても、琉太は琉太としてしか書けない。

 『式日』の帯に置かれた「書くことは/書けなさから始まっていると、/今、強く思う」という彼の言葉を、こうした文脈のもとに読むことができる。実際、自らの郷土を《かたつむり甲斐も信濃も雨のなか》と書きえた龍太のようには、琉太は彼の「沖縄」を書けないでいる。(中略)

 はじめに記しておいたとおり、『式日』という句集はすでに何度も評されてきている。しかし、どういうわけか、その表題句については、付録の栞に載っている鳥居真里子「雲籠めの白花」に「枯れる」という主題をめぐって軽く触れられている程度で、これまでほとんど語られてこなかった。

  式日や実石榴に日の枯れてをる

 率直に書いてしまうなら、この句はさほどおもしろいものではないと思う。(中略)

 『式日』には《くちなはの来し方に日の枯れてゐる》という句もあるのだが、さして代り映えしない、そのうえこの薄められたような書きぶりで、どうして二句も収めてあるのか。

 鍵は、季節順の配列のなかで、二句がそれぞれ「実石榴」の秋季、「くちなは」の夏季に置かれていることなのだろう。(中略)四季を問わないひかりの古びを、すなわち、おそらくはたそがれのことを言っているのだ。このことはたしかにいくらかあたらしい。(中略)

安里琉太は、ミネルヴァの梟よろしく、たそがれの飽和から出立する。自らの門出の式日を祭りのあととみなすことからはじめた彼は、ここから、さらにいかなるあたらしみを育むのだろう。

  炎昼や未生の鳥を浮かべたる

『式日』の意義は、この句に予感された「未生の鳥」が象徴しうるもの、すなわち、彼の未来の句に懸かっている。

  

 とあり、結ばれている。「書けなさ」とは、彼にとって書けないことではなく、書きたいことはあるが、むしろ、はやばやと書けてしまって、書き切れていない、ということなのではないだろうか。ともあれ、本誌本号より一人一句、一首を挙げておこう。


  紀ノ国の炭うつくしき大暑かな   

  運ぶべく千手観音千の手のひとつひとつのはづされてあり     安里琉太

  乱れ歯の青年笑むに笑み返かへし受け取らざき神も思想も     髙良真実

  泡盛にしぼれば声をあげながらシークヮーサーから小人の落ち来 屋良健一郎



       撮影・芽夢野うのき「知りたいのその奥の葉牡丹の杳」↑

2021年1月16日土曜日

依田善朗「たつぷりと水に浸して鍬始」(「磁石」創刊号)・・・

 

「磁石」2021年1-2月/創刊号(磁石俳句会)、依田善朗「新俳誌『磁石』創刊の辞」に、


 (前略)鍵和田主宰は、「俳句は抒情詩の一つとして、作者の生(レーベン)の実感を、自分自身のことばで、生き生きと表現すべき」と語っていました。その精神を受け継ぎ、「命を伝える俳句」を目指します。生きとし生けるものの命を身体でしっかり受け止め、心で昇華し、全身から湧き出た言葉で語る俳句を作っていきましょう。五七五という短い詩のなかに、自然や自己の実相を表現できたとき、私たちは無上の喜びを感じるのではないでしょうか。


 と記されている。昨年6月に亡くなられた鍵和田秞子主宰「未来図」の後継誌である。特集は依田善朗句集『転蓬』。創刊に寄せては、鈴木節子「高らかに乾杯」、藤本美和子「大きな森」、それぞれに祝句が献じられている。

    

   朗々と磁石に年の立ちにけり     鈴木節子(「門」名誉主宰)

   新玉の年の磁石を森の央       藤本美和子(「泉」主宰) 


 そういえば、愚生の仕事先の府中市中央文化センターの会議室では、この新年にも、日曜日の午前中に「未来図」俳句会の名で句会が継続されている。また、府中市中央図書館の4階、郷土の作家たちのコーナーには、「未来図」全冊、鍵和田秞子全著作物が棚に収まっている(ちなみに坂口昌弘、愚生の本も・・)。本誌本号をみると、その府中句会の責任者は、極光集の井上ひろ子らしい。


   偲ぶ日や堀の一枝の帰り花     井上ひろ子


 とあった。ちなみに編集長は飯田冬眞、その編集後記には、


 (前略)私たちには、鍵和田秞子という「磁石」がある。「命を伝える俳句」の指針であり、磁力の根源だ。この磁石を胸に秘め、極域にあるオーロラ「極光」を目指して行こう。その「航路」こそが、俳句結社「磁石」の歴史になるのだと信じて。


とある。ともあれ、その極光集から一人一句を挙げておこう。


  澄む水の寺の鼓動となり巡る      池田尚文

  ひさかたの大和の杜の竜田姫      今田清照

  杖の身にうしろより傘秋の雨     柿沼あい子 

  太枝の如く生けたる破魔矢かな     角谷昌子

  曼珠沙華地球はいつも燃えてをり    河野絢子

  山頭火忌崩れ石積ふれて行く      長澤寛一

  人と人隔つマスクを外しけり       林 瑞夫

  人の世を揶揄す背高泡立草       細井寿子

  賀状掉尾「すべて仏のお導き」     守屋明俊

  隻眼の鹿も等しく角伐られ       山田径子



★閑話休題・・・鍵和田秞子「金目鯛夕映え色を手放さず」(『鍵和田秞子全句集』)・・・

『鍵和田秞子全句集』(ふらんす堂)、既刊句集に第10句集『火の禱り』以後79句加えた作品、4042句を収録。「句集解題」は角谷昌子、「年譜」は石地まゆみ、「あとがき」に守屋明俊。初句索引と季語索引が付されている。装幀は和兎。ここでは、既刊句集未収録ゆえ、最後の句集『火の禱り』以後の句から、いくつかを挙げておきたい。


   千年の礎石を支へいぬふぐり        秞子

   青すすき魔物にあふと占はれ

   ゆふさりを鳴くのがいのち秋の蟬

   文明が銃に行き着く春霙

   捕はれの鸚哥(インコ)騒げる開戦日

   草も木もなびきし世あり建国日

   わが部屋の寝乱れはげし沖縄忌

   深秋や笑つていいよと犬が言ふ

   

 鍵和田秞子(かぎわだ・ゆうこ) 1932(昭和7)年2月21日~2020(令和2)6月11日。神奈川県生まれ。享年88。



        撮影・鈴木純一「鉄筆ハ闇夜ノ霜ノ如ク引ク」↑

2021年1月15日金曜日

石井辰彦「大空を通ふまぼろし(飛行機が二機だつた、とか)には影がない」(『石井辰彦歌集』)・・

 

『石井辰彦歌集』(砂子屋書房・現代短歌文庫151)、帯には、


  歎きの歌人は自らの魂を削って歌を紡ぐ/決して希望を失うことなく/悲しみを祓い浄めるために/ひとり果てしなき道をゆく

単行本未収録連作短歌を多数収録した初の自選作品集


 とある。 石井辰彦にとって、表題に「歌集」としたのは初めてだという。かつ、巻末の「覚書」の中には、


 単行本未収録の連作短歌八篇を、文体の特色や創作時期により四つに分かって収録し、未公刊の長歌二首をこれに加えた。その時々の著書のテクスチュアと相容れなかったため、筐底に秘して来た作品群である。これら十篇は今後も他書には編入せず、本書でのみ読むことができる状態に留めおくこととしたい。


 と記されている。歌論は二篇「定型という城壁ーその破壊と再生」、「心情の器、詩の器ー二〇〇一年九月十一日以後の短歌」が収められている。ここでは、後者の歌論の終盤の部分を少しだが、引用紹介しておこう。


 (前略)詩は言葉で世界を認識しようとする行為である。短歌という詩型もまた、古来そのために使われてきた。詩型とはすなわち詩の器なのであって、言い換えればそれは、心情の器ではなく認識の器なのである。始まったばかりの二十一世紀は確かに困難な時代であり、酷薄なテロリストたちにせよ戦争好きの政治家たちにせよ、誰もがその時々の感情、大辻隆弘の言葉を借りれば、「デモーニッシュな感情」や「正しい認識」以前の、「原初的な心情」にまかせて行動しているように見えるが、そのような感情や心情の吹き荒ぶ嵐の中で歌人は、静かに世界を認識し、その認識を短歌という器に盛り込むべく全力を尽くさなければならないのだ。

 最後に連作短歌の部位に収められた大辻隆弘の一首を引用し、それに並べて、その短歌への批判として書かれたかのような岡井隆の一首を、連作短歌「葡萄系のことば」から引用しておこう。

 タリバンをわが精神の支柱とし耐へたる九月十日あはれ

 征戎(せんさう)を歌へばいきいきと溷濁(こんだく)ししやうもなやしやうもない短歌(みじかうた)

 短歌は「しやうもない」詩型なのだろうか?否!瞬間の心情を超えた認識の器であるかぎり、短歌という詩型は真正の詩たり得るはずなのである。言うまでもなく二十一世紀の短歌は、まず詩でなければなないのだ。


 ともあれ、集中より、挙げれば切りの無い短歌から、いくつかの短歌を以下に挙げておきたい(原歌は正字)。


 (ノド)や渇く 深井の底のまひるまの乱るる星の天(そら)を汲まばや  辰彦

 神掛けて実も葉も赤き七竈(ナナカマド)心見せむややまとことのは

 弟の墓を守(も)るなる鈍色(にびいろ)の海にも雪は降りそめにけり

 水脈(みを)ひとつ残して暮れぬこのつぎは双子の兄として生(うま)れたし

 死者は生者/生者は死者の如くにて・・・ 掲帝(ギャテイ)! 暁天(ゲウテン)には鳥の聲

 難民(ナンミン)の列に我(われ)から加はりぬ。立入禁止区域(オフリミツツ)の(西の)外(はづ)れで

 遥けくも烟(けぶ)れる丘を(さういへば久しく見ない)見て泣きなさい

火と燃ゆる酒を賜(た)べ わが酔ひ痴れしうへにも酔ひてみたき夏の夜(よ)

新しき罪を照らさむ料(れう)として夜更(よふけ)しづかに月 のぼりくる

      反歌(単行本未収録長歌の)

灌頂を美酒もてなさば現身(うつしみ)は(即ち〔すなはち〕)墓碑(ぼひ)。と、言はば言ふべし


 石井辰彦(いしい・たつひこ) 1952年、横浜市生まれ。



          芽夢野うのき「紅梅の一輪崩した犯人いづく」↑

2021年1月14日木曜日

祖翁「清く聞ん耳に香炷(たい)てほとゝぎす」(『そのにほひ(全訳)』)・・


         

  中嶋鬼谷翻刻・解説『弘化三年刊 俳諧集 そのにほひ(全訳)』(私家版)、その「はじめに」の中に、


 (前略)ここに翻刻・解説する俳諧集『そのにほひ』は、弘化三年(一八四六)に芭蕉百五十回忌追福の句碑建立を記念して刊行された句集である。

  清く聞(きか)ん耳に香炷(たい)て子規(ほとゝぎす)   はせを

 句集名は右の句碑にちなんで名付けられたものである。

 ところで、この句集は永年不明であったが、福島幸八氏が「埼玉史談」(昭和四十年発行、第十二巻第二号)に記念句集の存在することを紹介した。

 句集原本所有者は小鹿野町長久保の旧家・高田家。

 写真家であり、郷土史研究家である野口正史氏が『秩父の俳句紀行』(二〇二〇年十一月一日刊)を刊行するにあたり、新たな資料を蒐集した際に原本に辿り着いた。ここに幻の句集が姿を現すことになったのである。拙著はその句集の全訳である。

 漢文の「序」は秩父が生んだ高名な学者、日尾荊山(「解説」参照)。

「仮名序」は江戸の俳人来孤山人卓郎で、句集に登場する見外、爲山とともに江戸三大家と称せられた人物。「後引」(跋)も意中人由之。(中略)

 投句者総数四三四名の大冊。句集は彫り、印刷から見て当時の地方で作れるものではなく、二松學舎大学名誉教授の矢羽勝幸氏によれば「江戸版」と呼ばれる句集であるという。

 

 とあり、また、著者「あとがき」には、


 私が古文書解読に取り組み始めたのは、わが家に残されていた安政年間の古文書の内容を知るためであった。どうにか解読した一部は拙著『井上伝蔵とその時代』(埼玉新聞社刊)の中に、

 第三章 幕末の下吉田村ー無宿甚蔵一件

として収めてある。


 と記されている。愚生がかつて、井出孫六の『秩父困民党群像』の次に、興味をもって読んだのが、秩父事件と俳句を描いた中嶋幸三著『井上伝蔵ー秩父事件と俳句』(邑書林)だった。この著者が、俳人・中嶋鬼谷と同一人物であると気づいたのは、しばらくしてからである。生まれ育った地への愛着であろうか、その地から輩出された文化に対する中嶋鬼谷の愛着にも並々ならぬものが伺える。ともあれ、本著から翻刻の冒頭「百韻」初折の表のみになるが、以下に紹介しておきたい。


        


清く聞ん耳に香炷(たい)てほとゝぎす  祖翁

 ここにもうつし夏の俤          不識

晴れて行く雨のあと追ふ風吹いて      卓郎

 ふねさしもどるゆふべせはしき      兎仙

肴さへあらば開かんひと徳利        双湖

 出入りに袖のさはるまき藁        由之

(こおろぎ)鳴く音も細る月かげに    叩月

 露の光りのもみぢかつちる        幻外  (以下略)


 中嶋鬼谷(なかじま・きこく) 1939年、埼玉県秩父郡小鹿野町生まれ。



     撮影・鈴木純一「草の葉の枯れて楽しもしゆるりぴよん」↑