2016年11月11日金曜日

「古くならないことが新しいことだと思うのよ」(小津安二郎監督映画『宗方姉妹』)・・・



小津安二郎監督映画「宗方姉妹」を観た。というより仕事先の研修の一貫で見ることになったのだ(従って、客席の空調や映像・音声・客席の反応などのごく簡単なレポートはある)。
愚生の勤務先・府中グリーン・プラザ(府中シルバー人材センター派遣業務)で11月10日(木)~12日(土)まで「名作映画会」をやっている。今回の上映作品は小津安二郎監督作品「宗方姉妹(きょうだい)」(1950年・東宝作)と滝沢英輔監督作品「絶唱」(1958年・日活作)である。

その「宗方姉妹のなかで、姉の節子(田中絹代)が、妹の満里子(高峰秀子)に向かって言うセリフが、

  それが、古いことなの?それがそんなにいけないこと?--あたしは古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとに新しいことは、いつまでたって古くならないことだと思っているのよ。そうじゃない?

である。まるで、俳句作品の新しさについて述べられているのではないかと思った。



また、この映画について、前田英樹著『小津安二郎の喜び』(講談社)は、小津の前作『晩春』と比べて、次のように述べている。

 『晩春』は豆腐だったが、『宗方姉妹』は〈現実的なもの〉をたっぷり吸ってガンモドキになった。客の好み、会社の要請に応じて、小津はどちらにも作り分けることができる。映画の知覚に二重化を起こす原理や方法は、いつでも同じになるほかないからだ。しかし、豆腐屋として最も腕を試されるのは、やはり純然とした旨い豆腐を作る時ではなかったか。そこでは、知覚を二重化する働きは、結局その全体が、永遠の現在に、過去それ自体の持続に、深く沈み込んでいくのでなくてはならない。これは、想像を絶して難しい仕事である。

ガンモドキについては、この前段で、

 『晩春』の次に撮られた『宗方姉妹(むなかたきょうだい)』(昭和二十五年)では。その摂理は、登場人物たちの逃れられない運命のようなものとして、話の全面に押し出されてくる。これは、ずいぶんこってりしとした味の濃いガンモドキになった。

と記している。もっとも小津が豆腐屋だとすれば、という話しなのだが・・・キャメラマンは小原譲治。

 三人が暮らす東京の「大森の家」は忠親が構えた住居だった。これがまた、『晩春』の曾宮周吉の家によく似ている。セットが似ているだけではなく、その家屋を内側から捉えるロー・ポジションのキャメラの視覚が、あたかも『晩春』のフレームを再現するかのようなのである。
 多層化したそのフレームのなかに、三人の家族が出入りする。

ともあれ、前田英樹は小津の37本の映画について辿り、23年前に上梓した前作『小津安二郎の家』(書肆山田)につづき再び『小津安二郎の喜び』を書いた。

前田英樹、1951年、大阪府生まれ。愚生にとって、彼は批評家であるよりも、忘れること能わぬ新陰流兵法の兄弟子=師範であった。


                  カツラ↑

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