2017年7月8日土曜日

車谷長吉「名月や石を蹴り蹴りあの世まで」(『夫・車谷長吉』より)・・



 高橋順子『夫・車谷長吉』(文藝春秋)、文字通り、高橋順子が夫・車谷長吉との出会いからその死までの二人のことを綴った一本である。関係者が実名で出てくる。愚生とは長い付き合いである沖積舎・沖山隆久、九州の俳人にして詩人の高岡修、あるいは愚生が自筆の第一句集『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』と第二句集『風の銀漢』を出してくれた書肆山田の鈴木一民、そして編集者の大泉史世は高橋順子の大学時代からの盟友(車谷長吉曰く)とあった。
 愚生が車谷長吉の名とその本を知ったのは、かつて大本義幸が車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』を読め、と言って、わざわざ贈ってくれたからだ。その頃、推測するのだが、大本義幸は四国・松山での店を連帯保証人になった責として手放し、かつ背負った借金のために、名前を変えてまで、大阪に逃げ、印刷所の社員として働き、他人にしょわされた借金を返している最中だったのではないだろうか。アルコール依存症になっていた大本は入退院を繰り返していたはずだ。
 あるとき、攝津幸彦は、ボソッと「オオモッチャン、年収300万くらいで生活してるらしい、大変やなあ・・」と言った。愚生だって、それくらいの年収しかなく、たいして変わらなかったが・・。その頃、攝津幸彦は、広告代理店でバブル景気の波をかぶりながら、辣腕をふるっていた。
 印刷関連企業や書店労働者は当時、劣悪な労働条件と低賃金だったのだ(労働省の統計では下から二番目の賃金水準だったと記憶している)。そして、借金を返し終わった大本は、最初の癌を患った。咽頭がん、胃癌、食道がん、大腸がんと続き、今度は肺癌らしい。七度目の手術だとしたためられていた。

     声なし味覚なし匂いなしこの軀    大本義幸

 『夫・車谷長吉』を読むと、かつて車谷長吉が起こした俳句の盗作問題だが、確かに彼の頭のなかには、他人の印象深い句が残っていて、盗作とは無縁のようにそのフレーズが口をついて出て、句に書き留めたのではないかと、思ったことだった。それぐらい車谷長吉という人の思い込みは強かったのではなかろうか。
 以下に「永訣」の章の二人句会の句を挙げておこう、席題で鮟鱇、寒椿、まばたき、だった。

   鮟鱇を喰うて昼寝妻思ふ    長吉
   寒椿今日も女から手紙来る
   まばたきをする間に昔の女恋ふ
   鮟鱇の行部岬吊られけり    順子
   寒椿散り落ちしまま家に入る
   まばたきをすればこの海若返る


 
  

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