2020年10月9日金曜日

石嶌岳「魂魄は菫の影と睦みをり」(『非時』)・・・

 


 石嶌岳第4句集『非時』(角川書店)、集名に因む句は、


   いちにちに非時(ときじく)のあり薄氷    岳


と思ったが、「あとがき」によると、


 句集名は、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」からいただいた。非時香菓は、田道間守(たじままもり)が天皇の命により常世の国から探し求めた実のことである。この田道間守は菓祖として祀られている。また、この言葉から日常と非日常という時間の関係を感じさせてくれる。俳句を詠むことによって、この二つの時間の間を眼差しは往還しながら時を超えていっているもかもしれない。俳句は時を超えていつでもあるものである。


  ということらしい。ともあれ、集中より、愚生の好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。


   陽炎に骨のゆるんできたりけり

   睡蓮の黄と白と黄と夕風と

   酒よりも餡の渾沌年詰る

   切能の急進之出や月涼し

   老鶯の強情通す気でありぬ

   冬菊の震への蝶におよびたる

   野暮用の戻りの秋の暑さかな

   花よりも花のごとくに雪ふれり

   頭の端の冥(くら)くなりたる蟬時雨

   鏡より風吹いてくる五月かな

   たまゆらの水の淡海の水は春

   晩春に拾うて骨のさくら色

   

  石嶌岳(いしじま・がく) 昭和32年、東京生まれ。



       撮影・鈴木純一「秋の蝶ぬくもりしばし掌に受ける」↑

2020年10月7日水曜日

折笠美秋「雨だれは/目をみひらいて/落ちるなり」(『火傳書』)・・・



  折笠美秋『火傳書』(騎の会・限定108部・平成元年春分刊)、奥付華印ー折笠冬航、装丁・制作ー舟蕃舎。舟蕃舎こと寺田澄史の「入舞の記」によると、


 『君なら蝶に』(昭和六十一年、立風書房刊)は折笠美秋兄の第二句集であるが、その企画が出た際、勝手ながら私は、〈火傳書〉だけはその集の埒外として欲しい旨、作者に申し出た。〈火傳書〉は、私たちの同人誌「騎」に進行中であったし、どうせなら、騎の会が存続しているうちに、是非に単行冊作品集として、共に、¨騎の會版¨としたかったからである。(中略)

「騎」の誌上に限って、なぜ折笠美秋は多行作品を書き続けるのか。本集各章の前説や後記にも、著者自身、必ずしも真意に触れているとは言えないが、いつも名伏しがたく、熱い思いに駆られるのは、つまり此の多行の句句に、先師高柳重信との、こんにち既に六年に及ぶ、いわば魂魄同行旅の仮託を垣間見するにほかならない。

 句集『火傳書』は、只一冊と言えど献本は無い。著者の意向には反するだろうが、、企画、発行人の思念において、敢えてそうさせていただくのであって、先に¨異風¨と書いたのはそのことである。


と記されている。また、折笠美秋「火傳ノ事」の中には、


 確かに高柳重信作品は類を絶し、その外見は十七文字一行書きの俳句慣習に全く反している。だが、それは、十七文字一行書きの俳句慣習を破壊してみようとする単純な試行ではなく、逆に伝統の奥処、形式の淵源に遡ってみた結果に他ならない。


 と記す。といっても、全身不随、自発呼吸ゼロ、発声不能のなかで、妻の智津子が、瞼や唇のうごきなどから、解読し、作品として録された句である。「微笑(ほほえみ)が妻の慟哭 雪しんしん」「俳句おもう以外は死者か われすでに」「ととのえよ死出の衣は雪紡(つむ)ぎたる」とも詠まれている。ともあれ、折笠美秋の唯一の多行作品60句は、高柳重信の享年と同数である。以下に幾つかを挙げておきたい。


     多行俳句は高柳重信氏一代でこそと固く思いおり候 されどされど 

     多行形式の火消し置くは返す返すもくちおしく候て

   鬼  およそ

   その背姿 は

   桔梗  なり             美秋 


   一人は火

   二人は炎

   その余は

      淡し 


   高山

   柳川

   重き蟬啼

   信は夫(ソ)レ言に


   織笠(おりかさ)と

   記せる書あり

   雪深く

   祈り鎮むと


   生き替わり

   咲き替わり

   征く

   騎影なお


   わが死後も

   夜来の雨を

   人の聞く


折笠美秋(おりがさ・びしゅう) 1934~1990年、神奈川県生まれ。



            芽夢野うのき「足音もなき家中を金木犀」↑

2020年10月6日火曜日

藤原暢子「とんぼうの翅あをぞらになりにけり」(『からだから』)・・・


  藤原暢子第一句集『からだから』(文學の森)、第10回北斗賞受賞とある。序は飯田晴。跋は大塚太夫「アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉」。序の結び近くに飯田晴は、


  今井杏太郎が亡くなって八年。

  鳥居三朗の急逝から五年。

  今井杏太郎、鳥居三朗を見送った私は、藤原暢子旅立ちの第一句集を「魚座」から「雲」につながるひとすじの光として受け取った。


と記している。そして大塚太夫は、写真家でもあるという藤原暢子に、


  (前略)そういえば、暢子さんに好きな写真家は誰かと訊いたことはない。しかし、アンリ・カルティエ=ブレッソンのこのエスプリ、精神はわかってもらえるだろう。

「瞬間は永遠につながる」

これもブレッソンの言葉だ。藤原暢子はそこを歩いている。 


 という。集名にちなむ「からだから」を含む句はいくつかあるが、それに関わる句を挙げていくと、


   若竹の揺れ体から音のする        暢子

   夏至歩きたがる体をつれてゆく

   かさかさと体はなるる夏蒲団

   とうすみのつるむ体の数字めく

   からだから海あふれだす夏休み

   からだから音湧いてくるをどりかな

   古巣見る目は体から離れゆく

   

などである。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておこう。


   声あげて神輿は熱になりにけり

   新米をおかはりする日三朗忌

   火の神のゐない厨を鉦叩

   白菊のしづかに音を吸ひとりぬ

   神様の息のかかりて初紅葉

   秋の日のしみこむ色のつむがるる

   木の芽和喰ふ口が言ふ山のこと

   ものの芽や山はくすぐつたからうに

   春愁の列車は山に来てしまふ


  藤原暢子(ふじわら・ようこ) 1978年、鳥取生まれ、岡山育ち。




      撮影・鈴木純一「ひとつですが山女の色をおすそわけ」↑

2020年10月5日月曜日

黒沢孝子「ひと日死をひと日桔梗を思ひたる」(「現代俳句」10月号より)・・


  「現代俳句」10月号(現代俳句協会)は、第40回現代俳句評論賞と第21回現代俳句協会年度作品賞の発表号である。愚生は年度作品賞の選考委員の一人でもあるので、少しばかり触れておきたい。選考委員は浦川聡子・こしのゆみこ・原雅子・佐藤映二・大井恒行。選考評を読むと、直接参加された選考委員は女性軍のみで、愚生と佐藤英二は、自宅からのFAXと事前の簡単な評と電話での参加であったことがわかる。選考委員長は浦川聡子が務めていた。コロナ禍もあり、直接の論議に参加できなかったことは、残念で、申し訳ないことであったが、愚生の選考評の末尾を以下に挙げて、お詫びに替えたい。ともあれ、北村美都子「雪の賦」を最初から意中の一位に置いていたのだが、


 (前略)ぼくが最終選考段階で推したのは、「雪の賦」を一位に、二位に山本掌「あるがまま」、第三位に黒沢孝子「夜桜」であった。結果は黒沢孝子「夜桜」の受賞、北村美都子「雪の賦」は佳作になった。いずれもぼくの選んだ作品に含まれており、どれが受賞であってもおかしくなかったので、もとより異存はない。いずれの作者も身の内深く覚える詩心を受け取らせていただいた。

   夜桜の先へ先へと白狐かな          黒沢孝子

   しやぼん玉吹けば抜け行くさみしさよ

   ひと日死をひと日桔梗を思ひたる

   病み抜きし頬剃られおり牡丹雪       北村美津子

   春雪や諸手を合わせ洗う箸

   ゆきやまに稜線われに心電図

   ぼうたんやにわかに夜はこぼれだし      山本 掌

   濃紫陽花影蹌踉(たずたず)とみちてくる

   おんきりきり五臓六腑に火蛇走り


 もう一つの記事は、第40回現代俳句評論賞で、外山一機「星空と夕かげ―頴原退蔵、その晩年のまなざしについて」が受賞。こちらの選考委員は髙野公一、久保純夫、高橋修宏、林桂、五十嵐秀彦、橋本直。満場一致だっったという。ここでは高橋修宏評の冒頭を紹介しておこう。


  応募作では、「星空と夕かげー頴原退蔵、その晩年のまなざしについてー」(外山一機)が群を抜いていた。戦後、俳句の本質を〈象徴詩〉と定位してみせた頴原退蔵。彼の戦前における日本浪漫派との共振という危うささえ孕む評伝的事実を跡づけながら、晩年にかけての詩的なるものへの傾斜、また彼の生涯を貫いた原風景と呼びうるものを見事に浮彫りにして出色である。


 因みに、外山一機の論は、以下のように結ばれている。


 (前略)その蕪村について頴原はこうも述べている。


 だから蕪村の句にはその背後に彼自身の生活よりは、彼の美しい詩の夢がいつも見ら

 れるのであります。


 そういえば「西鶴の日記よりも、夢で見た西鶴の方が本当の事を語って居るのかもしれない」とも言っていた頴原である。頴原は、いわば詩のもたらす夢をいつも追いかけていたのであった。


 外山一機(とやま・かずき)1983年、群馬県生まれ。



         芽夢野うのき「秋深し都こんぶを手にすれば」↑

2020年10月4日日曜日

佐伯喜誠「山ひとつ背中にかつぎ冬耕す」(「俳句展望」第188号より)・・・



  第26回全国俳句コンクール(主催・全国俳誌協会)、ブログタイトルにした句「山ひとつ背中にかつぎ冬耕す」は、全国俳誌協会賞の句。二度目の受賞者だいう佐伯喜誠の「受賞のことば」の締めは、以下である。


 (前略)私の俳句の素材は、海・空・河そして村々の営みが中心です。老いゆく姿の中で一生懸命な人間が脳裏にあります。今、田舎の青田風がここち良く吹き抜けてゆきます。今後とも五七五の力を存分に生かしてゆきたく思っています。


 本誌本号には、もう一つの目玉ともいうべき第3回新人賞が発表されている。選者の陣容がなかなかで、それに見合う応募者層のようである。一人一句を挙げておこう。


  花冷えや精子は溶けた骨の色    横井来季(第3回新人賞)

  幼児期が虹の高さに架かったまま  丸太洋渡(新人賞準賞)

  星月夜あまつぶで貼る切手かな   本野櫻魚(新人賞特別賞)

          註:名の「魚」は、愚生のパソではこの字のみ。

  割箸はすごき棒なり遅桜    綱長井ハツオ(新人賞特別賞) 

  作品の一つは非売春の虹      笹岡大刀(神野紗希奨励賞)

  悴んでエレベーターが全部窓    中矢 温(鴇田智也奨励賞)

  燃えてゐる影にはどれも首がない  漆 拾晶(堀田季何奨励賞)



★閑話休題・・『十年目の今、東日本大震災句集 わたしの一句』を募集・・・

募集の趣旨について、宮城県俳句協会会長・高野ムツオは、以下のように要請している。


(前略)宮城県俳句協会では、東日本大震災の犠牲者を祈り、明日への一歩を刻む礎といsて、2013年と2016年に『東日本大震災句集 わたしの一句』を刊行することができました。

 来年3月で東日本大震災より10年が経ちます。

 この節目を俳句の力で掬い上げ、震災を風化させることなく未来へ伝えるために、ここ十年間に作られた震災に関わる俳句を全国に募集し、『十年目の今、東日本大震災句集 わたしの一句』をかんこうすることといたしました。被災や居住地、未発表、既発表を問わず、どなたでもふるって応募くださいますようご案内申し上げます。(以下略)


●応募作品 大震災後十年を句還る今日までの自作一句から三句まで。既発表可。

      応募者は原則もれなく一句掲載します。

      四六判ソフトカバー /内容は自由ですが、趣旨にふさわしい俳句に限ります。

●応募方法 B5原稿用紙や便箋など一枚の用紙に、①俳句三句以内 ②大震災当時の居住地―市町村名 ③氏名または俳号(ふりがな)、現在の年齢 ④郵便番号、住所、電話番号 ⑤句集購入希望の有無を問わず明記(一冊以上の場合は希望の冊数) *二句以上応募された場合は会長及び事務局が選を行います。

●応募料 無料。ただし、句集は一冊 1000円(送料共)で頒布。頒布希望者は、現金または定額小為替で、句とともにお送りください。

●応募締切 令和2年12月15日(火)

●応募先 989-2351 宮城県亘理町北新町23-13 坂下遊馬方「東日本大震災句集」係 電話090-2982-7230 主催・宮城県俳句協会



            撮影・鈴木純一「蟷螂は秋とて色を直しけり」↑

2020年10月2日金曜日

星野高士「つくつく法師楽しきことは先延ばし」(「玉藻」10月号・創刊90周年特集号より)・・・

 


 「玉藻」10月号・創刊90周年特集号(玉藻社)、高浜虚子の二女星野立子が結婚後,家事に忙殺されて、その天分を発揮できる機会を亡くすことを惜しみ、立子に発刊を勧め、昭和5年6月に創刊された日本最初の女性主宰誌が「玉藻」である。その創刊90周年。星野椿の卒寿記念号でもあり、かつ、鎌倉虚子立子記念館設立20周年でもあるという。まずは、心よりお祝い申しあげたい(9月4日に予定されていた祝賀会も、コロナ禍により来年に延期されている)。

 90周年への祝詞は有馬朗人、宮坂静生、宇多喜代子、中村和弘、黒田杏子、稲畑廣太郎。特別寄稿に筑紫磐井「虚子の復活ーコロナ時代の『玉藻』を激励する言葉」、本井英「『玉藻』の晴子時代」、高野ムツオ「高士近作鑑賞ー天高しー見るということ」、仁平勝「椿俳句鑑賞ー五七五のディテール。他に会員による「創刊九十周年に寄せて」、さらに「玉藻合同祝賀会祝句」と続いている。そして、連載は齋藤愼爾「つれづれ草紙(10)」。

 なかでも、特に印象に残ったのは、短いので、引用するが、タイトルを祝句にして、


    虚子立子椿高士や月今宵      

                    「藍生」主宰  黒田杏子


 微笑佛   星野 椿

 阿修羅   星野高士   (以下略)


あと一つ、本井英の結び近くに、


 「玉藻」九十年の歴史を振り返る時、虚子・立子・椿・高士という太い絆のあることは洵に輝かしい事実であるが、その中の「十五年ほど」を担った俳人に高木晴子のいた事も、これまた記憶されてよいことであろう。殊にその「虚子恋ひ」と「虚子顕彰の実践」は、まことに頼もしい実行力に裏打ちされて、今に光を失わない。


と、記されている。ともあれ、本誌より、高士・椿のいくつかの句を挙げておきたい。


  コロナ禍の巷に遠く秋の蟬          高士

  水餅の重さばかりを見てをりし

  日輪は動かし難しいぬふぐり

  風光る色鉛筆になき色も

  終はる旅これからの旅天高し


  恙なく会ふもえにしよ露の秋         椿 

  赤飯と一緒に届く桜餅

  門火焚き仏に留守を頼みきし

  九段坂上り下りの小春かな

  鎌倉は何と云つても山桜



          芽夢野うのき「狐花かそけくコンと泣きたまえ」↑

2020年9月30日水曜日

金子兜太「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」(『金子兜太の〈現在〉』より)・・・


  齋藤愼爾編集『金子兜太の〈現在〉ー定住漂泊』(春陽堂書店、2500円+税)、その後記の「編集余滴」に、


 主要メディアが追悼を早々とすませ、百年に一度というコロナ禍の自粛要請という生権力が発生する最中の『金子兜太の〈現在〉-定住漂泊』の刊行です。(中略)

 こうした冊子こそを兜太さんは待ち望んでいた筈だとの確信が、執筆者を含めた私たち編集者にはあります。兜太さんの〈現在〉というより、執筆者自らの〈現在〉を問う姿勢が、どの論考からも熱く伝わるであろうことを約束いたします。


 とある。350ページの大冊であることもさることながら、今後、金子兜太を語るとすれば、逸することのできない資料となるだろう。かつて、いわゆる俳壇が、まだかまびすしかった頃、金子兜太の作品を問い、自らの句作を問いながら、31歳で夭逝した中谷寛章の金子兜太論(「元の木阿弥ー社会性論議にふれて」〈「渦」1969年4月・「社会性から自然への成熟」〈「俳句研究」1969年11月号〉)が掲載されていることは、何より嬉しいことだった。愚生らが乗り越えなければならない戦後俳句作家の高峰への批評が出現しはじめた、最初期のものである。若き日の坪内稔典も続いていた。その後、たまたま愚生も、本書に収載された「金子兜太の挫折」(「俳句研究」1982年6月号)を執筆した。すでに38年前のことになってしまった。あるいは、また、多くの対談、例えば、安東次男と金子兜太「孤心と連帯」(「寒雷」1974年9月号)、小沢昭一との「戦中・戦後、生き方の原点」(「エコノミスト」1983年4月19日号)など、今となっては貴重な対談も多い。貴重な資料満載の一書である。手に取ってみられたい。

 ところで、愚生も「兜太読本」を試みたことがある。そのとき金子兜太は「角川からは絶対そういう話は来ない」と愚生にオーケーを出した。その後、兜太全集も出、角川「俳句」にもたびたび登場するようになる。まさに隔世の感であった。その承諾の旨の葉書(下写真)をみると、1995年9月5日の郵便日付がある。25年前だ。当時、安西篤、武田伸一両氏には、特にお世話になったが、愚生の非力と職の現場を変わるなど、ついに愚生の手では実現しなかった。申しわけないことだった。



              愚生の旧住所です。↑


    ともあれ、兜太の句を「95歳自選百句」のなかから、いくつかを挙げておこう。


   白い人影はるばる田をゆく消えぬために

   湾曲し火傷し爆心地のマラソン

   人体冷えて東北白い花盛り

   二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

   暗黒や関東平野に火事一つ

   梅咲いて庭中に青鮫が来ている

   夏の山国母いてわれを与太という

   左義長や武器という武器焼いてしまえ

   おおかみに蛍が一つ付いていた

   津波のあと老女生きてあり死なぬ


 金子兜太(かねこ・とうた) 1919~2018年、享年98.





★余談・・「俳句研究」高柳重信から愚生への督促状・・・

 じつは、上掲本所収の愚生の論「金子兜太の挫折」は、原稿締切り日が過ぎても、何の連絡もせず、原稿が遅れていたのだ。今思えば、こんな若造に、丁寧な督促状を出すことになって、愚生なら「まったくどうしようないヤツだ!」くらいに思ったはずだ。にもかかわらず、励ますように、「奮発して」とある。愚生は、申し訳なく、遅れに遅れた原稿を、荻窪駅前にあったマンションの高柳重信宅まで届けた。まだFAXも無い時代だった。



                    青磁碗 銘「満月」↑


★閑話休題・・染々亭呆人「茶席にも覆輪の月まろく出づ」・・・

 染々亭呆人の便りが面白いので、無断で以下に引用しよう。


 明日の10月1日は旧暦の8月15日、葉月望の日、仲秋です。
ところが、今年の中秋の満月は10月2日に見ることができるのだそうで、
毎月、望の日(旧暦15日)が満月とは限らないのは天文学の常識なのだ
そうです。
 さて、その日、曇ったりして月が見えなかったら、と思って、大阪の藤田
美術館所蔵の宋(12世紀)、竜泉窯で焼かれた青磁、銘「満月」を御目
にかけます(上掲写真)
 この碗を藤田伝三郎が買い取ったのは、井上馨からで、長州閥が寄ってた
かって、維新のどさくさに収奪した、江戸の遺産の象徴のような茶碗です。
なにしろ、藤田財閥の基礎は、井上が財務卿のとき秋田の小阪銅山を官有
化し、それを藤田に払下げたのが始まりで、のちの同和鉱業として、日本
全国の金属鉱山を手中に収めていったのでした。藤田の係累は久原房之助
が日立、日産を、田村某が日本水産を牛耳り、三井、三菱、住友と対抗す
る長州閥の牙城だったのです。
 あの目白の椿山荘も長州閥の総帥・山県有朋が乗っ取って別荘にしたのを
藤田が買い取って藤田観光のものとしたもので、長州閥の相互扶助の象徴で
すねえ。話がそれてしまいました。



       撮影・鈴木純一「其ノ月ㇵ呑マバ不死ナリ構ㇵヌカ」↑