2014年6月30日月曜日

いまどき「切れ」なんて、そんなに大事なものじゃないですよ(仁平勝)・・・


                蔵王↑

タイトルの言葉は、仁平勝。
6月25日(月)、読売新聞夕刊「俳句時評」のものだ。
「切れ」に関する仁平勝の持論は、彼のいわゆる俳壇デビューを飾った「〈発句変貌ー切字論序説」(『俳句の現在』南方社・1983年2月刊所収)から一貫している。
つづめて言えば切字は和歌の伝統的な情緒から切れるための方法である、ということであろう。
それは脇句の七七から切れる、固有の方法なのであり、発句の誕生は和歌の美学から脱却する批評意識の必然的な変貌だった、ということである。
当時、仁平勝が指摘し、何よりも重要だと愚生に思えたことは、
  
 
    かつては和歌的な美学に対する反措定として表現された俳諧的な自然観(あるいは人間観)は、今日では私たちの自由な感性を安易なところで統御しようとするもっとも保守的な観念として、ちょうどかつての和歌的な美学の位置に昇華してしまっている。そして発句形式としての五七五定型が、そういう美学そのものと不可分な形態でしかないとすれば、いま俳句などは私たちの〈詩〉にとってなにものでもない。逆に言えば、もし、俳句形式が単に保存するだけの古典芸能としてでなく、五七五の定型詩として現在的な詩的状況を生きているのだとすれば、〈発句〉とともに切字は、なんらかのかたちで変貌を強いられるはずである。(〈発句〉の変貌)。

と述べ、次の二句を引用してみせたことだった。

    まなこ荒(あ)
    たちまち
    朝(あさ)
    終(をは)りかな                        高柳重信

    リラリラと前世からの射精かな              加藤郁乎

言えば、現在、俳壇でかまびすしく言われているのは、いわゆる西洋詩的なことばの「切れ」論でしかなく、ほとんどが句の印象を披歴するにとどまっていることに、少しうんざりさせられてもいる。
それらの多くは、一句における「切れ」を断絶を創ると言い、あるいは単に意味上の切れを指摘し、そのことによって詩的飛躍を獲得する・・というような言説が多くを占めている。
挙句の果てが「季語がよく効いている」とか、どのように効いているのかは全くかかれてはいず、ひたすらな黙契と微笑を強いるのみである。
もうひとつ、この時評では、発句の変貌という意味では、具体的に今橋眞理子の句を挙げて、「現代の感覚では、逆に五七五の不安定さが効果的なこともある」と、切れの弱さの魅力的・効果的な一面を読み解いていることである。俳句の現代の読み方をも示唆しているのだ。これから俳句を担うであろう次世代の感覚を、読み解いてみせる仕事も大事である。新しい俳句には、常に新しい読み方が求められているというということでもあるだろう。
ともあれ、仁平勝にすれば、あまりに俳句は切れが大事などと言いつのられると、つい「そんなに大事なものじゃないですよ」と言いたくなったにちがいない(老婆心ながら・・)。

そして、次回の時評は「いまどき『取り合わせ』って、そんなに大事なものじゃないですよ」と来るかも知れないと推理、想像している。果たして結果はいかに?・・・次回の時評を楽しみして待つことにしよう。

                     
                     カラスウリ↑

*閑話休題・・・
実は、上記の読売の時評を読むきっかけは、先日の「件の会・高野ムツオを囲む夕べ」の仁平勝が挨拶のなかで触れていたので(きっと無視されるにちがいないと淋しく言っていたので)、愚生は、無視しないよ、というこれまた挨拶のようなもので、是非一言書いて置きたいと思ったのだ。というわけで会の翌日、府中市シルバー人材センターでの7月からの請負仕事先に入るための研修を終えた折に、降り出した雨の雨宿りを兼ねて府中市図書館に寄って、読んだ。

                                   マツバギク↑



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