2018年3月1日木曜日
安井浩司「地中では逆さに歩み行く春ぞ」(「逸」38号より)・・・
「逸」38号、花森こまの個人誌である。森田智子、三島由紀夫につづく安井浩司論を書き終えたので、この号を出すことができた、とあった。というだけあって安井浩司私論「闇をすべる神話」が興味深い。なかばは石井峰夫のことが熱く語られている。そこには、
石井峰夫がさまざまな汚名を着せられ、憤死といってよい死に方であったこと、それは安井の耳に届いたであろうか。
世俗的な汚名の働き方は、俳句とは何のかかわりもない。
耕衣は、側近たちの石井に関する悪口雑言を一時は信じていたようだが、死の直前に当たって「わたしの生涯のもっとも大切な片腕を失ってしまった」と涙している。
と記されている。具体的に書かれていないので、何ともいいようがないが、阪神淡路大震災後、永田耕衣は、特養老人ホームにはいるまでに石井峰夫宅に仮寓している。
愚生はその頃、永田耕衣は、100歳までは生きるに違いないと思っていたが、97歳の生涯を閉じた。最近、金子兜太こそは100歳まで生きるだろうと、わけもなく確信していたのだが、あっけなく先日、98歳で亡くなった。ご両人については、いずれの晩年にも少しばかりの想い出があるが、今は、ひたすらに冥福を祈ることにしたい。
色々話が飛んで恐縮だが、花森こまは、安井浩司について、
安井作品の印象は、ごく大雑把にいうと、わたくしには、拒みつづけるものとして、ある。何を拒んでいるのかを考えたいのだが、、まず、開くという想念があり、その開かれ方に、おみなを投地したり、無垢に他の生物をついばむ生き物を投げ込んだりする。それは両手をひろげたイエスの謂いでもあろうか。
イエスは受け入れるひとであったのだろうか。
あるいは拒むひとであったのか。
と若干の飛躍を含んで記してもいる。花森こまはその他にも「こまのひとりごと」で野口裕句集『のほほんと』へのエッセイをしたためている。
ともあれ、同誌掲載の一人一句を以下に挙げておこう。
なかのひとが脱ぎ捨ててゆくゴジラかな 武邑くしひ
腕からけむりぬけゆく春の宵 木戸葉三
リウマチの語源はロイマ初時雨 杉山あけみ
ちちははの記憶隠せし大花野 花森こま
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