2020年9月16日水曜日

田中裕明「春風にからだほどけてゆく紐か」(「コスモス通信」とりあえず29号より)・・


 「コスモス通信」とりあえず二十九号(発行者・妹尾健)、いつもながら、自身の句を「句日記」と題して130句ほど毎号掲載している。記事は「『たはぶれ考』田中裕明の作品にふれて」である。


 田中裕明氏の句に

  たはぶれに美僧をつれて雪解野は

という一句がある。氏の第三句集『櫻姫譚』に収められている句である。発表当時から評判になったくであったと記憶している。ところが、この句の当時から私にはよくわからなのである。何度読んでもよく分からない。句の意味としては「まるでたわむれに美しい僧をつれて歩いているように見える雪解野は」と解すればよいのであろうか。どうもこの「たはぶれ」にと「雪解野」が私の中でははっきりしない。「たはぶれに」美僧をつれているのは「雪解野」であることは「は」止めで、雪解野を強調しているといってよいであろう。。この句の中心は「雪解野」であろう。いくら私でも「雪解野」が「たはぶれに」「美僧をつれて」「雪解野」を歩いているように見える。ということまでは分かる。(中略)

ここには私の理解できなかった美的世界がひらけている。(中略)だがそれはここでは言語化されないで可視化されないで、句の背景にあって、この句を包んでいる。それは私流にいえば、ひとつの唯美的世界ともいってよいものであり、和歌的世界をかかえているものといえるであろう。つまり和歌的世界を換位したものー俳諧化である。(中略)更にいえば「たはぶれに」しているのは雪解野であるが、それは「美僧をつれて」いることによって春の道に難渋ささえ浮かばせる。(中略)だが、「たはぶれび」と置いたとき、すでに和歌の情趣は俳諧化されている。僧侶の中でも「美僧」ははるかに中世的である。美僧ということになればもっと古い歴史物語すらもっている。そうした和歌的世界を「雪解野」の下五に帰着させたとき、作者の美学は和歌の情趣よりも、俳諧の「たはぶれ」に置き換えられたのである。

 いささか長い引用になったが、本来であればすべて引用したかったが、許されよ。他に言及された田中裕明の句は、「西行忌あふはねむたきひとばかり」「いまごろの冬の田を見にくるものか」「春風にからだほどけてゆく紐か」

 ともあれ、以下に妹尾健の句日記より、いくつかを以下に挙げておこう。


  緋目高群れなしていつか離れ去る       健

  ビール飲むきのうのごとく夜は進む

  大昼寝うつろのままに世に帰る

  父の日の父となりても父恋し

  サングラスとればそのまま教え子よ

  サボテンに近づく勇気なかりけり

  日盛りやわれに終生資本論

  日盛りのひとりの道を坂のぼる

  むぐら生えてものみな高く大河原

  陰口をささやく間合い藍浴衣



★余白つれづれ・・・安井浩司「花野くぼこの天然の母に寝て」・・・

 安井浩司のこの一句(上掲写真色紙)。子守歌です。愛おしい子への「ねむれ、ねむれ、母の手に。ねむれ、ねむれ」の子守歌の記憶が俳句になったのだと思う。

                               ―救仁郷由美子―



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