森武司『昭和行進曲』(球俳句会)、森武司の来し方を一本にまとめた本で、「豈」同人のわたなべ柊が贈ってくれた。書中、「追憶の人・恒星さん」が巻末に収められている。著者「あとがき」に短いながら、そのあたりの事情が記されている。それには、
「球」へ連載したものをまとめました。
「昭和行進曲」は、あの戦中・戦後の時代を生き残った人も少なくなりました。生き残った者の仕事として書きました。
「追憶の人・恒星さん」は、恒星さんに親しく付き合って頂いたお礼のような気持で書きました。
とある。恒星さんとは、杉本恒雄のことで、昭和49年1月に南国市長となって初登庁したとあった。各想い出のエッセイの最後には、必ず著者の一句が添えられている。体裁としては俳文集である。ここでは「海軍」(2)を以下に抄出して紹介しておこう。土佐弁がいたるところにある。
(前略)「おい、森。矢崎が今日の野外訓練で銃の遊底を紛失したぞ。全員罰チョクを食らう。よその部隊へ盗みにいくぞ。」
矢崎は薩摩隼人にしては「きつかねぇ。」が口癖のへこたすこい兵じゃった。森は班のリーダー格で市商の一年上から来ていた。森と私は隣の兵舎にもぐり込んだ。(中略)私達はドロボウをした。海軍では人間の生命(いのち)よりも員数が大切にされた。何しろ天皇陛下から下賜された銃である。
ある日白い六尺の褌(ふんどし)を物干場に干した。乾いた頃物干場に行った。無い。私の褌が無い。私は他の隊の物干場に走った。そこらにぶさ下がっている何枚かの褌の中から一つをひったくると、ポケットにねじ込んで走った。私は又ドロボーをした。しかし、褌といえど天皇陛下か賜わった官物である。無くしたらただでは済まないのである。(中略)
八月十五日。(中略)
「戦争は負けたぞ。終ったぞ。」
と言った。その夜上官は、
「米軍が上陸して来る。貴様達はあの白虎隊にならって短剣で刺し合って自決じゃ。」
私は隣の菊間に、
「おい、菊間、貴様と刺し合うて死ぬか。」
と言うと、菊間は青い顔をして、
「死ねるだろうか。」
と言った。
翌日校庭に集合した私達に校長の中将は、
「七度生まれ代わって鬼畜米英と戦おう。」
と訓示した。
品川の海軍経理学校は、東京湾に面しており、水辺に沿った校庭には、月見草が黄色に乱れ咲いていた。
海軍亡び長い老後の月見草
また、「追憶の人・恒星さん」の中には、
(前略)そんな恒星さんと前衛現代派の闘将兜太は初対面であったと思われるが、同年輩の二人は意気投合し盃を交わした。この夜も恒星さんの周りに『壺」の美女が何人か侍(はべ)っていた。
ここからの話は又聞きの又聞きで、真偽の程は保証しない。兜太も五十代、若かった。酔った兜太が『壺」の美女の一人に抱きつこうとした。とたんに美女の平手が兜太の頬をパチンとぶん殴った。
「兜太!土佐の女(おなご)をなめたらいかんぜよ。」
兜太は東京へ帰って「土佐の女は怖い」と言ったとか言わざったとか。兜太を殴った美女は誰であったかわからないが、私は勝手に、それは山本佐保さんであると決めている。
曳きあるく影にとどめの稲光 佐保
(中略)佐保さんは私のエッセイの終るのも待たず急逝した。まだ三十才代の若さであった。恒星さんも『壺』の人達も慟哭した。
ともあれ、集中より、森武司のいくつか句のみを挙げていこう。
遠ざかる修羅と昭和と春の汽車 武司
望郷ののっぺらぼうの青空港
粥釣(かいつり)の一人シベリヤの木になった
鯖鮨を食いたいと言い戦死せり
まっすぐに征きし兄らよ春の雲
イギリス兵芋の天麩羅食わざりき
一点の野火へ凝視の目の熱く
星は子らの瞳(め)しくしく痛む鉄筆胼(だこ)
童女らが描く教師の冬の鼻
小砂丘と思うこおろぎ鳴いている
森武司(もり・たけし) 昭和三年、高知県生まれ。
撮影・鈴木純一「捨姥待月(としおいしははをすてんとつきをまつ)」↑
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