「俳句界」10月号(文學の森)、特集は「鯨と酒とヨサコイ祭~土佐の俳人競泳」。巻頭エッセイは吉田類「土佐の思い出/龍の胎に還る」、論考は宮坂静生「地貌季語の宝庫土佐」。土佐の俳人紹介に、若尾瀾水と右城暮石。土佐の俳人競泳に7人、ここでは「俳句界・文學の森編集顧問」の姜琪東(カン・キドン)のミニ・エッセイから、
(前略)父親が一人で半年がかりで建てた家に住んでいた。四畳半と三畳だけの掘建て小屋だった。夜になると天井裏を蛇がシュウシュウと這いまわる音が聞こえる。やがて鼠がキーキー騒ぎ始めるが、あっという間に静かになり、夜のしじまにかえる。(中略)
中三の夏、父親が酒に酔って川へ転落、即死だった。父親の葬儀をすませて五日後、私は風呂敷包み一つを持って大阪へ出た。大阪駅の待合室で手配師に捕まり、飯場へ連れて行かれた。十五歳の少年にとっては、地獄のような労働だった。私は飯場を脱走し、大阪のスラム街釜ヶ崎へ逃げ込んだ。
野宿をしながら、住み込みで働ける仕事を探した。身元も分からない少年が働けるのは、食堂かパチンコ店くらいしか無かった。月給わずか四、五千円。ほとんどを高知の弟や妹へ仕送りをした。野宿は、天王寺公園の市立図書館の軒先。
いろいろあったが、今振り返ってみると波乱万丈、結構それなりに楽しかった。
とあった。愚生が最初に姜琪東の名を知ったのは、第二句集『身世打鈴(シンセタリョン)』(石風社・1997年刊)だ。愚生がまだ、文學の森に入社する以前のことだが、すでにアートネーチャーの会長は辞めておられた。たまたま縁あって、定年後の4年半を「俳句界」の世話になったが、たぶん、今でもワンマンぶりを発揮されているに違いない。最後は、愚生との生き方が違い、社を辞すことになったが、それらは、たぶん愚生の生き方の甘さゆえだったろう。辞めるときに「これからは俳人として付き合わせてもらう」と言われたのが、何よりの有難い言葉だった。もう80歳を越えておられるだろう。ひたすら、健在とご自愛を祈る。以下は句集『身世打鈴』から、
水汲みに出て月拝むチマの母
大山も姜(カン)もわが名よ賀状くる
冬怒涛帰化は屈服父の言
残る燕在日われをかすめ飛ぶ
帰化せよと妻泣く夜の青葉木菟
ともあれ、本誌本号より特集の一人一句を以下に挙げておこう。
土佐酒や鯨飲み干す四方の闇 吉田 類
走る子よ凧の上るがうれしさに 若尾瀾水
猟銃を手にして父の墓通る 右城暮石
山笑ふ土佐にはちきんいごつそう 岡崎桜雲
落人の太刀を祀りて山眠る 亀井雉子男
野となりし国衙(こくが)を照らす後の月 橋田憲明
塹壕の魂まとい出てすみれ草 橋本幸明
積む雪に谺かへらず紙砧 松林朝蒼
虎杖のぽきぽき折れる土佐ことば 味元昭次
ころぶなといはれてころぶ夏岬 姜 琪東
撮影・鈴木純一「杣なれば彼岸すぎての彼岸花」↑
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