2022年1月17日月曜日

安井浩司「キセル火よ中止(エポケ)を図れる旅人よ」(『自選句抄 友よ』)・・

  


  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(2) 


   キセル火よ中止(エポケ)を図れる旅人よ    浩司


 二〇二二現在、「キセル火」を見知る者は高齢の者のみであろう。絵画に描かれ、文化財となるキセルは、棒状の先に小さな火皿があり、吸うたびに火種は赤くなる。

 安井浩司は自らを旅人という。安井の句集は旅人として書かれた句集である。過去となった火種=俳諧への明治期以降の中止へとエポケ、判断を控えようではないか。そして純粋に旅人には、「図れる」つまり、俳句への意図があると句は語る。



   夢殿へまひるのにんじん削りつつ       浩司


 法隆寺の夢殿は聖徳太子の夢に仏陀が現れ教示したという伝説から、夢殿と呼ばれる。そして、夢は夜眠りの中に見る。

 「にんじん」は人身(にんじん)または人参(にんじん)。人身(じんしん)は古くはにんじんと読んだ。夢見の仏像からも、仏教的に覚り得たものを人(ひと)と言わず人(にん)と言われることを考えれば、人身(にんじん)と捉えることが出来る。

 人身(にんじん)を「削りつつ」、つまり、身を削る、身体を削るがごとく、自然、夢殿へと出向く。夢殿、この身を削りつつ出向くことをどのように、読み取ればよいのだろうか。

 夢殿に仏陀が立った聖徳太子の言葉に「世間虛仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」がある。聖徳太子の仏教思想が表れた言葉だ。一九四五年以後の戦後、現在まで西洋思想キリスト教文化を表面に、根底に仏教思想・東洋思想をもって、私達の生活、文化、芸術などがある。表面は欧化された私達の根底にある東洋・仏教思想に対して身を削るほどにしても学ぶ、作者の姿が読み取れてくるのだ。

 掲句が収められた第三句集『中止観』の句集名そのものも、「止観行」を含む。止観行は安井の俳句道でもある。

 夜眠りの中にあるものを「まひる」に直視せねばならないのは詩の本質である。



    撮影・鈴木純一「梅早し受けてみしゃんせ一打ちを」↑

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