2022年1月19日水曜日

中村草田男「日の丸に裏表なし冬朝日」(『草田男深耕』より)・・


 渡辺香根夫著・横澤放川編『草田男深耕』(角川書店)、横澤放川編註に、


 中村草田男(なかむらくさたお)の主宰誌「萬緑」のいわば最後の代表同人といっていい渡辺香根夫(わたなべかねお)が「草田男深耕」という題目のもと各月書き下ろしてきた、鏤刻(るこく)を尽くした文章である。草田男は第八句集『時機(とき)』以降、晩年へのほぼ二十年間の作品をもはや句集として上梓することはなかった。(中略)俳壇への配慮を断ったかに見える後半生の草田男の作品については、破調、難解、自己満足といった批判が少なからずいわれてきたが、草田男はその生涯の終りまで文学としての、そして文学を超えたともいうべき自己探求を決して忘ずることはなかった。その草田男固有の、あるいは唯一無二のいっていい精神世界は、それが解明されることなしには草田男の全貌を理解することはかなわない。(中略)さらに一層の理解のために、「萬緑」の大会において行われた同じ著者の三篇の篤実な講演録と評論二編を添えてみた。草田男のいわば深みの次元をとくと味読していただきたい。


 とある。また、著者「あとがきーただひとこと」の冒頭には、


 「草田男深耕」の筆をとりながら不断にたちかえった問は〈継承〉とは何かということである。それは俳壇で草田男調や萬緑調の名でよばれる異形リズムへの寛容ないし偏愛を、詩的許容として江湖に喧伝する営みでは無論ない。忘却されがちだが、五音ー七音ー五音の俳句定型をそのリズム形態の美しさもtづいて〈紡錘形の結晶〉という卓抜の比喩に託し得たのは他ならぬ草田男である。だから冒頭の問は、その同じ草田男がなぜ自らの句作においても、主宰誌の添削指導においても、敢えて破調を厭わなかったのかという問におきかえられなければならない。


 とあった。ともあれ、以下に文中より一例を挙げ、かつ、いくつかの草田男の句を挙げておきたい。


   ムッソリーニの如き大螇蜥(ばった)今も見たし   昭49


 大型のトノサマバッタ(・・・・・・・)は、あの庇(ひさし)のない帽子を被ったファシストの親玉を髣髴(ほうふつ)させて思わず頤がゆるむ。初めてこの句を読んだときからの心身的反応だ。(中略)これがどこまで厳密な固定なのか私に判定する能力はないが、彼岸的かつ夢幻的なあの舟形の美しい虫がムッソリーニだと言われると、途端に、直喩の励起する諧謔が分からなくなる。みなさんはどうだろうか。結びに「今も見たし」とある。無秩序な都市化の影響で虫の世界もいたく貧しくなったという感慨であろう。


   人体背後はふさがりきつてゐる裸      昭39 

   白足袋の中へ白足袋妻在らず        昭40

   泉辺にとどまらんか友訪(おとな)はんか  昭43

   わが罪は我が前背より日雷         昭44

   北窓塞がず隠花植物常(とこ)眺め     昭49

   「火宅」の語世にあれど「花宅」やわが隣家 昭55



   芽夢野うのき「さまざまな実のさまざまな鬱も虚も」↑

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