2022年1月22日土曜日

安井浩司「御燈明ここに小川の始まれり」(『自選句抄 友よ』)・・


  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(5)


    御燈明ここに小川の始まれり      浩司


 掲句は昭和中期の俳句史に印されている句だ。

 神仏に供える「御燈明」だが、この選句抄に夢に仏陀が現れる「夢殿」の句があることから、仏へと供える「御燈明」と考えるのが自然であろう。

 ところで、仏陀最後の説法は次のようなものであった。抜粋引用してみよう。


  この世で自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島と  して、他のものをよりどころとせずにあれ。


 引用にある島と訳された言葉は灯明(とうみょう)とも訳され、仏陀最後の説法は「自灯明(とうみょう)・法灯明(とうみょう)」と言われもする。

 東洋的な感覚を呼ぶ「御燈明」の句を思い泛べる度に「自灯明」の言葉が思い泛ぶ。

 なおも、「叢林の中でー二十世紀の俳句に寄せて」の安井の一文を思い起こしてみる。

 この一文には「二十一世紀の俳句に係わる在りよう」は「”芭蕉以前の俳句”として、俳壇以前の規範の原点、いわゆる己が詩としての一個の俳句作品を書き続ける外ないのである」とある。そして、「往くも帰るもきみ一人である」それ故に「己が俳句を(略)己が個のものとして、俳句の根拠律に挑んで欲しい」、だからこそ、「唯一本の乞食杖だけ」を頼りに、二十一世紀の宇宙」へと「旅立って欲しいのだ」と書き綴られている。

 ここに、「自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず」の自灯明が「御燈明」となって見えてくる。自らをよりどころとして、創る俳句は「小川」の始まりとなって流れていく。

 その上で、掲句の静寂な暖かさに心が包まれていくのだ。山奥の寺、僧堂に灯された「御燈明」の光に、小さな流れは幽かに水音を立てて流れはじめていく。幽玄な世界の句である。



                 photo:kunigou↑

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