2022年1月29日土曜日

安井浩司「冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・・


   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(9)


    冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ       浩司

 真冬、今日は晴天と戸外に出で、空を見上げると、どこまでも透明な空の青さに心洗われる。「冬青空」の無音の静けさに鷹が泛かぶごとく飛んでいる。
 俳句の読解は読者との出合いの交差である。俳句に意味を求めていくのは無意味だとする説もあるが、一句との出合いの交感作用に誰しも意味を求め読解したくなるのではないか。
 若き頃の安井は芭蕉狂いであったと評論集にある。そこで、「鷹一つ」の芭蕉の句とともに読んでみることにする。


  鷹一つ見付てうれしいらご崎  (笈の小文)

 保美村で、流罪により、隠棲生活をしていた杜国(とこく)を芭蕉と越人(えつじん)が訪ね、翌日、伊良湖岬へ「三人彼浜に出で」、鷹を発見した日の一句。「鷹一つ」で、保美村での杜国の孤独を言い表したと山本健吉は読む。杜国の孤独は誰しもが感じることであろう。
 「絶景の面白さに、かへる事ともにわすれ(越人書簡)」(正徳五年九月付)るほどの伊良湖岬。この岬を「南の果てにて、鷹のはじめて渡るところといへり」と記す芭蕉の一羽の鷹の発見は、杜国との再会を同時とする「見つけてうてし」の喜び。天真の一句と思える。
 では、安井の句、「鷹ひとつ」も、同様に孤独を言い表しているが、芭蕉句の「一つ」が個を指しているのに対し、安井句の「ひとつ」が平仮名書きによって、単一、そのものだけであるとの意味に変化する。
 次に「総序」であるが、基本的な国語辞典には無く、親鸞の書「教行信証」六巻の最初に「総序」、最後に「後序」が置かれている(日本大百科全書)例を見る。
 次に「総序」を一語づつ分解してから、意味を組み合わせてみる。
 「総」は多くのものを集め合わせる。全部との意味を持つ。「序」に対して、序破急の一点にしぼれば、形式上の三区分である「序」は初部、導入部、つまり初めであり、「破」は展開部の中、「急」は終結部の終りの意味であるから、「序」は初めの意となる。
 このように表れた意味から、「総序」の俳句的意味を考えれば、多くのものを(俳句史を含めて)集め合わせた俳句作品、それらのすべての始まりであるところ、と思える。
 このように表れた意味は、それぞれの読者のイメージに帰りつく。
 「冬青空」の句は、芭蕉のように絶景の地に旅するのではない。私たちの日常にふと見上げる空、その空のどこまでも透明な青空に空華のごとく鷹を一羽思い泛かべれば、鷹はゆっくりと泛かぶごとく姿を現わす。
 誰でもない己一人、すべての俳句作品の初めにあるような、己一人、そのものだけの俳句を創ろう。安井は俳句を創ることを「俳句が起こる」という。自らの内に起こる俳句を、自らの言語で書く。その自ら書いた俳句は孤独の深層で詩言語となり無限に連なる。
 人は人との関わり、縁によって生かされるが、ほんとうのことばを伝え合うのは不可能に近い。そのことばの限界をこえることが出来るのが詩言語である。そうであるが故に、人と人の精神を結び合わせ、交感し、真の友愛を創るのが詩言語なのであるという導かれた支杖の一句である。
 俳句とは何か。
 俳句とは俳句自身であり、俳句を創るその俳人の韻律の言語である。
 そのように安井俳句から学んだ。見えないものを見るように言語化する芸術的精神を「安井浩司の俳句」に見るのはあやまりだろうか。



       
撮影・鈴木純一「善き人であるは快楽よ実朝忌」↑

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