2022年1月25日火曜日

安井浩司「睡蓮やふと日月は食しあう」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・


 

  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(7)


    睡蓮やふと日月を食しあう       浩司


 広々と水を湛え澄んだ池に咲く睡蓮は、蓮の東洋的イメージより広汎な世界、アジア・エジプト・西欧まで含んだ世界をイメージさせる。

 ふと、睡蓮の池に立ったとき「日月は食しあう」。

 それは、沈む太陽と上る月、日の出と有明の月。夜と昼、昼と夜の入れ替わる万象は混じり合い、分離し「食しあう」ごとくの交感の世界となる。

 そして、「日月」が「つきひ」であることを含ませてみれば、「日」・「月」の宇宙での無限と、地上の「日月」に咲き枯れる生命の連なりとの同時の一瞬の世界ともなる。

 昼と夜の、太陽と月の交替を「食しあう」感覚と受け取るとき、「睡蓮」を眼前に、天空に日と月を見上げた一瞬の世界はすべてがひとつとなった万有の世界。どこまでも、宇宙の静寂の世界が現れる。

 ひとつはすべてであり、すべてはひとつであるとは安井汎神論であり、荘子(内篇)の万有や無限を重んじる思想と通じ合う句と思える。


   芋嵐かさと死ぬとき荘子妻      安井浩司句集『汝と我』より

   空涼しなれど死ぬるなよ荘子妻

   釣鐘やふと荘重体に蝶とまり


 「荘子妻」二句は荘子の死んだ妻への話、『荘子・至楽篇』にあり。三句目の「蝶とまり」は「胡蝶の夢」、『荘子・一斉物論』にある話を、たとえば人が重体(息詰まったとき)においても、蝶になって飛ぶ夢の中が現実か、荘周である現実が現実なのか、分からず、区別もつかないのだから、ただあるがままに生きよとの作者の人生観の句。

       

  

    石榴種散って四千の蟲となれ      浩司


 掲句の「四千の」は詩語として、現代詩の「四千の昼と夜」(田村隆一)に用いられたものだ。この詩が収められた詩集『四千の日と夜」は一九五六年に刊行される。戦後十一年、四千日すぎて、戦争で死んでいった人々の追悼の意が込められた詩集である。 

 この田村隆一の詩のテーマ「死」に対して、再生の願いが込められた「石榴種」の句は、種から虫へのメタモルフォーゼによって、「なれ」と、祈りの句となった。

 なおも直径五センチメートル程の赤茶色の堅い実の中にびっしりと詰められた赤い果肉にくるまれた黒い種。細長く垂れた茎に付いた黒い実は地面に落ち、芽ぶきのときを待つ。この芽ぶきのときにメタモルフォーゼした黒い点のような種を虫に変え、四方へと飛び立たせる作者。意味の見えない掲句の語の十七音は、「四千」という現代詩の詩語へと、「なれ」によるメタモルフォーゼの作用が働きはじめたとき、花と虫、日と土と水の関係のすべてが緑によって言語の世界で動き出す。この動き出した言語世界で、戦争の時代に亡くなったすべての人々への再生の祈りを捧げる一句の意味が現れてくる。 



                 photo:kunigou ↑     

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