2015年11月16日月曜日

四ッ谷龍「津波後三年門扉を門へ縛る綱」(「むしめがね」第20号)・・・



「むしめがね」20号の四ッ谷龍俳句作品は「いわきへ第6回~第8回」と題された被災地を詠んだ百数十句、第6回には2014年6月の但し書きがある。ちなみに第8回は2015年8月。
特集は『冬野虹作品集成』。特集の執筆者は、冬野虹の俳句・短歌・詩作品のそれぞれに、津川絵理子、鴇田智哉、杉本徹、井辻朱美と四名の寄稿者が配されている。各執筆者とも冬野虹作品に寄り添って、それぞれ執筆者の特質がうかがえるもので、愚生をよく頷かせてくれる。冬野虹の作品にそうしたものを引き出す資質がそなわっているのだ。
しかし、なんといっても、さすがに冬野虹の夫君だった四ッ谷龍の生活を共にしてきた強みで、その現実生活につながるリアルさにはかなわない。虹作品に引用された織物の在処を、余すところなく開陳していることには驚かされる。そのことを述べた「あけぼののために」は「一、君あらあらし」「二、穴川家の三姉妹」「三、野生の少年」「四、精神の空を飛び交う外国語」「五、デジタル」「六、コメディアン」「七、音韻は回転する」「八、クロスモーダルは創作の沃野」として35ページを費やしている。その中の一節には、

 虹が求めるのは、そうしたことばとはまったく対照的なものだ。ヘレンケラーが味わったような、はじめて飛び出してくることば、目覚めの喜びをうながすことばなのだ。金勘定や権力の保持のために使われる言語ではなく、夢を知るための想像力、つまり美を理解する力を与えてくれる言語なのだ。

また「クロスモダール」については、以下のように、注釈を加えている。

 通常、クロスモダールという語は、たとえば映画の画面にどのような音響や音楽を合わせると観客は興奮するかというように、復数の感覚刺激を並列的に与えることを指すのに使われる。しかし、私の場合はもっと突っ込んで、ひとつの事物を感覚をまたがって表現するという意味で用いており、一種の造語である。形容詞なので、名詞として用いるときは「クロスモーダル俳句」「クロスモーダル表現」などと書くのが本来正しいだろう。

この表現の特徴の端緒を芭蕉に見、冬野虹に見、最近の若い俳人の鴇田智哉、関悦史、斉木直哉などにみているのである。

さらに、それら虹作品の創作の契機をもたらしたさまざまなものを、論とは別に「冬野虹詩歌作品引喩集成」として巻尾にまとめている。労を讃えたい。

最後に、四ッ谷龍作品からいくつか挙げる(前書きは略す)。

   
   津波後三年門扉門へ縛る綱
   ゆきのした傘さすほどは降らざりき
   仮の家また仮の家また躑躅
   鹿踊(ししおどり)まるで兎が飛ぶように   
   ワイパーが人無き巷搔いて居り




1 件のコメント:

  1. 大井恒行様
    「むしめがね」読んでいただき、ありがとうございました。長い文章を発表したので、読んでくれる人はいるだろうかと案じていたところでした。
    深謝申し上げます。

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