2016年5月16日月曜日

今泉康弘「この国の空を映して薄氷」(「円錐」第69号)・・・



「円錐」第69号の同人作品評・山田耕司「語るを超えて、なお」と澤好摩「語源に遡って捉え直す」を面白く読んだ。この二つの同人作品評で、最初に、それぞれに各人ごとに、別の句を批評することを決めてあったのか、あるいは、偶然にそうなったのか、二者の批評が重なった句は今泉康弘「この国の空を映して薄氷」のみであった。他はすべて各同人それぞれに違った句が取り上げられている。
ただ、共通しているのは今泉康弘の句への叱咤激励である。双方の評を以下に引用したい。
まずは山田耕司評、

 「薄氷」が「頼りなくて壊れやすいもの」という意の記号程度の役割であり、それが「この国」という存在への社会批評として機能させられるべく用いられているのだとすれば、世俗的かつ記号的意味に頼りすぎていて、面白くない。俳句を政治的見解に奉仕させたいのだとしたら、それは、俳句をも政治をも甘く見ていることになると思う。ま、今泉康弘は、本来が芸術至上主義ではあるけれど。
 
次に澤好摩、

若き日の作者の、繊細な叙情がらそこに一本の勁い芯を感じる作品が私は好きだった。掲句にもその頃の感覚がある。しかし、他の句(といっても四句しかないが)は、いつか見た手つきの句ではないか。評論に努力を傾けるのは、それはそれで貴重だが、作品もある程度の量を書いて検証しないと、新たな表現方法は開けてこない(これは、以前にも書いたような気がするが)。なんとも惜しい気がして、繰り返した。

批評としての水準と創作作品としての水準、いずれをも同水準に保とうとする困難を思う。山本健吉のように、批評家としてのみ立つという方向がないではない(山本健吉以後に、俳句界にいまだそうした人は現れていないようだ)。しかし、今泉康弘は、みずからを俳人として呼ばれたいとまだ思っているかもしれない。愚生がいうのも憚られるが、今泉康弘は、するどい批評家というよりは、人の心をうつ文章を草することができる散文家の風貌が意外に似合うのではないかともおもっている。
ともあれ、特別作品の中から一人一句を以下に、

    山茱萸の花より窓の夜明けかな        田中位和子
    夜櫻やキミハ「ウワバミ」ボクハ「ゲコ」     小倉 紫
    降る雪や今日浅草の傘屋風邪         三輪たけし
    山吹やハナグモのゐて風吹きぬ        江川一枝
    後朝の足結(あゆひ)に鈴の朧かな      和久井幹雄




   


   

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