2015年4月30日木曜日

「ー俳句空間ー豈」57号・・・



4月初旬には校了になっていた「豈」最新号・57号が発行になった。
いつもながら、そろそろ呆けはじめた愚生のお詫びの言からはじめたい。
表2にいただいた渡部伸一郎追悼の渡邉樹音氏「秋の蝶」の玉文をいただきなら、お名前を表紙に記すことを失念したことと、寄稿者住所にも漏れてしまったことについて、まずはお詫び申し上げる。
また、前号56号の石母田星人氏の「五島高資小論」は、2行脱落を補って再掲載されている。
今号の主な内容は、
特集・安井浩司『句篇』シリーズ・・・
・曾根毅「『句篇』シリーズ読後随想」、竹岡一郎「安井浩司、あるいは炎上する世界の観照」 他。
特集・「俳句と歴史」・・・
①戦後俳句を読む 仲寒蟬「場末の椅子」他。
②戦争と俳句 樽見博「戦争と俳句について」他。
③リアルでホットな俳句 網野月を「ポストモダンの系譜」、小野裕三「バーチャルでクールな俳句」、黒岩徳将「赤と青」、澤田和弥「現在という二十世紀」、西村麒麟「十年ほどの話」、堀田季何「リアルでホットであること」、堀下翔「福田若之の往還」。
書評・本田信次「高橋修宏詩集『MOTHER HOTEL』」他。
渡部伸一郎追悼・渡邊樹音「秋の蝶」。
56号の再掲載訂正「特集・第三次『豈』の新撰世代」 石母田星人「五島高資小論」。 
招待作家・金原まさ子、曾根毅、冨田拓也から句をいくつか紹介する。

  てのひらの死蛍を流木へ移す       金原まさ子「パラパラ」
  火のなかの鶴見殺しの二日月
  けものの声で桜がわらうむふむふと

  鏡餅そっくりな顔集まれり          曾根 毅「祝箸」

  ビル内の壁に化石や梅雨の冷え     冨田拓也「微光」




◎第3回攝津幸彦記念賞募集(「豈」創刊35周年記念)

・内容  未発表作品30句(川柳。自由律・多行も可)
・締切  平成27年10月末日
・応募  郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」と記し、原稿には、氏名、年齢、住所、
      電話番号を明記。(原稿の返却はしません)。
・選考委員 関悦史 筑紫磐井 大井恒行
・発表掲載 「豈」及び「俳句新空間」 
・送り先 183-0052 東京都府中市新町2-9-40 大井恒行 宛



2015年4月29日水曜日

「いつのまに虹とよばれぬ巣に星ふる」(『冬野虹作品集成』)・・・



四ッ谷龍の謹呈紙にしたためられている。

 ポプラの葉は高い梢の輪転機かがやきながら活字打つ音    冬野 虹

十三年前に世を去った作家、冬野虹に遺珠をあつめて文芸作品集として刊行しました。お読みくだされば嬉しく存じます。
                   二〇一五年四月二五日   四ッ谷 龍

四ッ谷龍は冬野虹との二人誌「むしめがね」を出している。そこでは、冬野虹は絵も描いていた。確か四ッ谷龍の句集『慈愛』の装画もそうだった。俳句作品、エッセイ、そして四ッ谷龍は戦時の俳句を丹念に調べ、また、自由律俳句の中塚一碧樓の作品などを載せ、地味だが良い、大切な仕事をしていた。
このたびは、まったくの急逝だった彼女の遺稿を全三巻の大册にまとめた見事な一本である。版元の書肆山田から出版したいというのは虹の希望だったとあった。
愚生らは、これまで冬野虹句集『雪予報』のみに接することができていたのだが、これで、彼女の未完の句集『網目』、短歌作品、詩作品などの多くに接することが可能になった。

四ッ谷龍と冬野虹はいつも寄り添っていた。
愚生は、若き日に、いまやおぼろげににしか覚えていないが、インタビューを受けた記憶がある。
あるいは、また、神戸の街だったと思うが(愚生が西下した折り)、まこと偶然に、お二人に会い、そのまま元町でやられていた永田耕衣の句会に飛び入ったこともあった。

『冬野虹作品集成』(書肆山田)全三巻は、装幀・間村俊一、装画・冬野虹。編者は四ッ谷龍。栞は吉岡実・中西夏之(第一巻)、白石かずこ・高橋睦郎(第二巻)、永島靖子・野崎歓(第三巻)。

冬野虹は昭和18年1月1日大阪生まれ。鷹新人賞、61年鷹退会。平成14年2月11日急逝。享年59。
 
    初春の切手のジャンヌダルクかな           未完句集「網目」より
    よるべなき十字路なりし夏衣
    白牡丹わがしにがほの海に向く
    両の眼のひらかれてゆくまんじゅさげ
    しろすみれ原子炉の扉(と)に触るる指
    穴あきの靴下ならぶ神の旅
    まひまひや室内に陽が死んでゐる
    水澄んでトキさんといつも笑った  

  
      

2015年4月28日火曜日

「角川書店」の消滅(「大波小波」)・・・



去る4月24日の東京新聞「大波小波」が、「『角川書店』の消滅」として、2013年グループ9社を合併し「KADOKAWA」が発足、本年4月1日に、その社内カンパニー制を廃止して「角川書店」「富士見書房」などのブランド名は残るものの組織名からは消滅した,と(BUNGAKU)氏は書いている。そして最後に「それゆえ今回の『消滅』は自社が仕掛けた市場に自身が呑み込まれてしまったように見える。これも運命と新たなコンテンツ産業を仕掛けるのか、はたまた市場の藻屑と消え果てるのか」と続けている。
軌を一にするように、「俳句」5月号は鈴木忍編集長の交代(退社?)の編集後記があった。角川「俳句」の初の女性編集長だった彼女の華麗なる転身はあるのか、是非期待したいとところだが如何に?。
ともあれ、愚生らの時代は角川といえば、角川源義のことを思い出さずにはいられない。
そしてまた、高柳重信と源義との、いまからおもえばある種の信頼関係があったと確かに思えるのでもある。
かつて、重信の口から「源義は頑固なんだよ」と、ふと漏らした声を聴いたようにも思う。
その高柳重信は「俳壇時評ー角川源義の死」(「俳句研究」昭和51年2月・追悼文は三谷昭と加倉井秋を)で、以下のように偲んでいる。

 もっとも、源義と僕とは、一般に俳壇で考えられているほど、絶えず対立して仲が悪かったというわけではない。 (中略) だから、源義が「河」を創刊して間もなく、同志と信頼していた数名に一種の反乱を起こされたときなど、それまで甘い言葉しか掛けてくれなかった人たちすべてに対して疑心暗鬼となり、その唯一の例外の僕だけが正確な情報を伝える可能性のある人物と考えられ、その相談相手に選ばれたことがあった。そういうときの源義を、つくづく孤独な人だと、僕は思った。
 僕は源義に対して、それこそさまざまな批判を口にしてきたが、その俳句については、ついに一度も触れたことはなかった。おそらく、源義は、そのことが気がかりであったにちがいない。
 そこで、新しい句集が出るたびに、かならず僕の家に持参して、直に僕の口から批評の言葉が出るのを期待する風情であった。しかし、僕の態度は最後まで変わらなかった。
 いま、ここで僕が特に言っておきたいと思うのは、俳句形式に対して、みずから一つの経綸を抱き、その実現に本気で邁進しようとするとする俳人が皆無に等しいとき、それと類を異にした唯一の例外が、この源義であったということである。源義はその経綸に殉じたのであった。そして、何かが終ったのである。

源義が没したのは1975(昭和50)年、享年58.すでに没後40年である。「俳句文学館」創設によって、いま多くの俳句関係者はその恩恵を受けている。その後、高柳重信の没したのは83(昭和58)年、享年60だった。重信もまた頑固だった。そしてまた、何かが終っていたのだ。



2015年4月27日月曜日

俳人「九条の会」新緑の集い・・・


                挨拶する大牧広氏↑

昨日、4月26日(日)は、北区王子の北とぴあで、「俳人『九条の会』新緑の集い」が行われた。俳人「九条の会」はもとはといえば2004年に、大江健三郎や鶴見俊輔らが呼びかけて創られた「九条の会」に呼応して、2005年3月3日に金子兜太・石寒太・大牧広・夏石番矢・復本一郎・諸角せつ子など15人の俳人たちの呼びかけで結成された会である。
この日は、「『思想の自由』と『表現の自由』の今」と題して、弁護士の澤藤統一郎と俳句関係では愚生が「高屋窓秋について」と題して講演をした。
弁護士・澤藤統一郎は靖国訴訟、日の丸・君が代訴訟を手掛け、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」を安倍内閣誕生の時から、毎日書かれている。昨日ですでに766回を超えた。DHCから賠償請求訴訟を起されている被告であるという。
「新緑の集い」の開会は、田中陽、閉会の挨拶は大牧広だった。参加者約120名。
愚生の高屋窓秋については、新興俳句の金字塔のような「頭の中で白い夏野となつてゐる」「ちるさくら海あをければ海へちる」「山鳩よみればまはりに雪がふる」という、窓秋22~23歳の作品のみが人口に膾炙し、甘美な抒情の俳人であったという伝説のみが独り歩きしているようだが、書下ろし40句の第二句集『河』(昭和12年)に抱え込まれた社会に対する批評的なまなざしこそが、高屋窓秋最晩年句集『花の悲歌』までを貫いているものだという趣旨のお話しをした。
また、新興俳句運動の切り開いた詩法の柱は①題詠と②連作であり、窓秋はその方法を最後まで手ばなさずに貫いているということ。
『河』(昭和12年)は窓秋27歳。『花の悲歌』は83歳の時の刊行である。
以下に『河』と『花の悲歌』から句をいくつか挙げておこう。

    河ほとり荒涼と飢ゆ日のながれ                窓秋
    日むなしくながれ流れて河死ねり
    母も死に子も死に河がながれてゐた
    嬰児抱き母の苦しさをさしあげる
    痩せて飢ゑて嬰児が胸の母
    おのれなき屍曳きゆき渇く夜か
    花を縫ひ柩はとほく遠くゆく

「回想」と題された4句のうちの一句「花を縫ひ」(昭和12年)に窓秋は、「9年の後、満洲の野にわが子を葬ったとき、このような光景であった。『河』はまるで葬送曲のようであった」(百句自註)と述べている。長女・鞠子のことである。

   核といふ一語に尽きて日が没す             『花の悲歌』
   兵一個骨一個又肉一片
   核の冬天知る地知る海ぞ知る
   死の灰に人は馴染めり天がふる
   砲弾に罪なき十万億土かな
   花の悲歌つひに国歌を奏でをり
   永遠と宇宙を信じ冬銀河
   雪月花美神の罪は深かりき

そして、高屋窓秋がいつも最後に話すことは平和と核のことであった。



     

2015年4月23日木曜日

阿部鬼九男「まだ死ぬチャンスは残つてゐるぞ にはたづみ」・・・



阿部鬼九男がハガキの裏表に(聖書と大きさの文字と仰るが、時に天眼鏡を用いる)、ところ狭しと書きつけられた通信が贈られて来る。
内容は古今の神話や文学や音楽、とりわけオペラについてはほとんど無尽蔵の博覧ぶりを示していて、愚生には、到底理解できない?内容が多くある。
それでも、たまに、うん、なるほどそうに違いないという真理の恩恵にあずかることもあるのである。
それと、気楽?即刻に書かれた一句が最初に記されているので、それだけはなんとか手が懸りそうな・・・気配。
その通信の名は、現在は「とよがおかつうしん」となっていて今号は「♯53」であった。
住まわれているところの地名なので、かつては「からすもりつうしん」、「かいどりつうしん」であったりした。それらは整理が得意でない愚生ゆえ・・・、散逸しているので詳しい号数はいま把握できないものの、トータルすると500や600、いや1000号ほどを迎えているのかも知れない。
先日、宗田安正と会ったおりににも、一冊の本になったら素晴らしいものができるだろうと仰っていた。
今号の締めの一節には以下のように書かれている。

  さて、ペトラルカをもってルネサンスの創始とする考え方がある。フランシスコ・ペトラルカ(1304-1374)はキケロを発見することでユマニスムを手にし、本来なら相容れない古典文化(研究)とキリスト教を折衷することからユマニスムを推進させた。彼はキケロに範をとってラテン語を整備したことでも知られる。キケローセネカーアクィナスーペトラルカ。この補助線的強靭なビームを以ってルネサンスの立体化が図れるだろう。だが、常に批判者が現われる。一例なら、マルティン・ルター(1483-1546)をユマニスム批判からみておくのもいい。鬼

ともあれ、何度もお会いしている阿部鬼九男なのだが、句集その他にも、一切経歴が書かれていないし、たまに年齢を聞くのだが、その都度、愚生は忘れてしまうのである。
とはいえ、何時だか、80歳を過ぎると、崖っぷちにいるような気がするとおっしゃていたのが記憶に残っているので、今回のブログタイトルにした句などを読むと少し気になってしまうのである。確か高橋龍(昭和4年5月8日生)と一歳違い?というおぼろな認識からすると、八十歳も半ばだろう。

その通信から、ランダムに句を挙げておこう。

九条の葱で戦ふ朝を待たう         (かいどり緑陰つうしん ♯72)
フェニキアにいくつむらさき貝溜(だ)まり  (かいどりつうしん♯109)
地中海 たとへば島に冬越すパウロ    (かいどりつうしん♯114)
海賊の裔に船遺る ようこそ いのち   (とよがおかつうしん♯32)
日めくりの洋梨のかたちのソナタ     (とよがおかつうしん♯24)




   

2015年4月21日火曜日

高屋窓秋「花の悲歌つひに国歌を奏でをり」・・・



 あと数日・・4月26日(日)午後1時半~「俳人『九条の会』、王子の「北とぴあ」・15階ペガサスホールで、愚生は「高屋窓秋について」と題して講演することになっている。どうにでも話せるように、あいまいな題をお願いしておいたが、あいまいな故に、いまだに何を話してよいのやら迷っている。
 「俳人・九条の会」だから、愚生より先に講演される方は、弁護士・澤藤統一郎という方で、たぶん現今の情勢について具体的に話されるだろう。その題は「『思想の自由』と『表現の自由』との今ー権力と社会的圧力に抗してー」である。きっと有意義な話に違いない。
 問題は愚生の軟弱な講演?だろう。高屋窓秋は「僕の言葉は、視覚への定着から、つねに離れようとする。できれば、それに徹したい、とさえ思っている。絵画など到底及ぼさないように」(百句自註)というその透視のシンプルさを貫いた人だ。また、「言葉が言葉を生み、文字が文字を呼ぶ、そうした形式主義的な僕の世界、つまり、技術者として生長して来た僕は、それだけにその活躍を今後にこそ期待されなければならない・・・」と昭和十年「馬酔木」5月号に「訣れの言葉」を記して「馬酔木」を去り、俳句まで止めてしまう。しかし,俳句を辞める宣言するとほぼ同時に句集『白い夏野』(龍星閣)を出版し、その2年後には、沈黙を破って、書下ろし40句の句集『河』(昭和12年・龍星閣)を上梓し、結婚して遠く満洲に去っている。昭和13年、窓秋28歳のときである。

       河ほとり荒涼と飢ゆ日のながれ        窓秋(昭和12年)
       嬰児抱き母の苦しさをさしあげる 

 そして、『河』は俳壇では、じつに評判の悪い句集となった。この「河」の一連の作品をみて、石橋辰之助は「こんなことを書くと捕まるぞといった」(百句自註)という。
直後、満州に渡った窓秋に、憲兵が来て「京大俳句」との関係を訊ねた。

 長い休止を、間歇泉のように作品生み出してきたミスター新興俳句こと、高屋窓秋は最後まで新興俳句の精神の人であったし、彼の話の終りは、いつも、平和と核のことだったことだけはたしかである。愚生の弘栄堂書店における最後の句集の仕事は三橋敏雄の口添えもあって実現した高屋窓秋最後の句集『花の悲歌』だった。挿画は糸大八。思い出深い一冊となった。


                   『花の悲歌』(弘栄堂書店)↑


     死の灰に人は馴染めり天がふる         『花の悲歌』(1993年)
     死の灰の天がひろがり天がふる
     核の冬天知る地知る海ぞ知る
     血に染みし遺品の白旗なりしかな
     永遠と宇宙を信じ冬銀河
     雪月花美神の罪は深かりき
     白く又黒きひかりの冬の旅




2015年4月15日水曜日

鳥居真里子「うぐひすの空の真中の坐忘かな」(「門」5月号)・・・



掲出の鳥居真里子「うぐひすの空の真中の坐忘かな」の句は鈴木節子「門燈集珠玉抄」に挙げられている句である。この句、愚生は勝手に、先日亡くなられた和田悟朗への追悼句として読んだ。
それは、和田悟朗第8句集『坐忘』(花神社)があり、かつその句集の題ともなった句「冬山の姿定まり坐忘かな」を踏まえ、挨拶をしていると思ったからだ。思えば、鳥居真里子の所属する「船団」においても、和田悟朗は、宇多喜代子とともに健筆をふるわれていた。
ついでと言えば失礼なのかも知れないが、「坐忘」と言う言葉は、和田悟朗は当初、自身の造語である積もりだったがと言葉を挟んだのちに、句集「あとがき」において、広辞苑に「正坐して心をしずめ、自分を取り巻くものを忘れること」とあると言い、荘子の内編第六「大宗師篇」にも「顔回曰わく、枝体を堕(こぼ)ち聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同(どう)ず、此れを坐忘と謂うと」。続けて「ああ、ぼくは聡明を黜け知を去ったのではなく、ただ無知であったに過ぎなかったことが判った」と述べているのだ。
とはいえ、早いもので「門」は鈴木鷹夫を喪って、今年3回忌を迎えた。「門」を継承した主宰・鈴木節子は「脚註シリーズ・鈴木鷹夫集」(俳人協会)を前書「鷹夫脚註句集出版」として、以下のように詠んでいる。

     しやぼん玉死後もその名の生きてます       節子

「門」のご恵送、深謝!


                 シャガ↑