2014年7月14日月曜日

「現代俳句」7月号・ブックエリア・・



「現代俳句」7月号に「豈」同人の二冊の書評が掲載されている。
川名つぎお句集『豈』(現代俳句協会)と筑紫磐井句集『我が時代ー二〇〇四年~二〇一三年』(実業公報社)である。評者は前著が山本敏倖、後著は八木幹夫。それぞれ、その句集の特徴をよくとらえた評となっている。
例えば山本敏倖は、

    荒地あり月曜日が届けられる
    縄文の忘れものなり梅雨山河
    草食の行きつく果ての鎖国かな
    蓋なきパンドラの箱の中だった
  二句目の縄文の句以外はすべて無季である。この句集の特徴として無季、通季の句の多いことに気づく。まさに現代俳句の一面を意識させられる。
  荒れた地があり、そこへ週の仕事始めの月曜日が届けられると、月曜日をモノ化する事で荒地をどうにかしたいという意図が汲みとれる。(中略)かの神話中のすべての悪と災いを封じ込めたパンドラの箱、現在の立ち位置が蓋のないその箱の中だった。この機智的設定だけで物語は無限の様相を呈する。

と記し、また、八木幹夫は、

     柱時計の刻む時間はいまとちがふ
   季語がない。字余りだ。これは俳句ではないと失笑する俳人たちをさらに失笑する筑紫がここに立っている。言葉は時々刻々、「時代」と交錯し変化する。「時間」の質的な変化を見事に捉えた句。
     流行歌実にゆつくり雪がふる
     さういふものに私はなりたくない
     バカといふイヴのつぶやき天の園 
     犬を飼ふ 飼ふたびに死ぬ 犬を飼ふ
        (略)
     悪い子がいい子をいぢめ水遊び
        (略)
     欲望が輝いてゐた戦後とは
 第二部の〈総括〉として「律(形式)を自由に」と示された作品は深く日本語の奥行きと意味の両義性をとらえた鎮魂の名詩。痛快な句集である。

と評している。これ以上に読みたいという興味ある方は「現代俳句」7月号を是非ご覧いただきたい。


*閑話休題。
少しバタついて、このブログを書けなかった間に、山口県は大内中学校時代の同窓会を開催する前に、上京するので、一度会いたいというK君からの便りがあって、会った。ちょうど半世紀、50年ほど会っていないのだ。まるで初めて会ったようなものだが、それでも、中学時代の卒業アルバムをみると面影がある。故郷のあれこれのことを話してくれた。今度、いつ会えるかもわからない。お互いそういう年齢になってしまったというべきか。彼の家の付近にはまだ青々とした田圃の風景がひろがっている写真を持参してくれた。比して愚生の育ったあたりは、田畑の多くが住宅地となり、いまや町名が変更されようとする事態になっているらしい。


               ノウゼンカズラ↑
   

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