2014年7月26日土曜日

牧羊社『現代俳句の精鋭Ⅰ~Ⅲ』のこと・・・


断捨離よろしく?本の整理をしようとしたら一冊の文庫に目がとまった。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)である。
ぱらぱらとめくると線引きがある。
かつて、愚生が『現代俳句の精鋭Ⅰ』への参加を求められて、句もないので、それでは書き下ろしで100句を書こうと、そのテキストに選んだ本が『本郷菊富士ホテル』だったのだ。
愚生のタイトルは「本郷菊坂菊富士ホテル」。
菊富士ホテルは羽田幸之助きくえ夫妻が営んだ下宿屋がその前身である。菊坂長泉寺内の地所を借りて建てられた下宿屋は、晴れた日には富士山が眺められたところから菊富士楼と命名された。その後、東京大博覧会の外国人客を見込んで様式ホテルに増築された。
時に大正三(1914)年、三月、地上三階地下一階、南端屋上に塔の部屋をもつ30室の菊富士ホテルが誕生した。(三階建てだが、真砂町あたりからだと五層の外観をもっていたらしい)。
大正5年,大杉栄と伊藤野枝が滞在、やがて竹久夢二、宇野浩二、広津和郎、三木清、宇野千代、直木三十五、坂口安吾、中条百合子など多くの作家、芸術家が止宿した。ホテルの地下の食堂は外国人でにぎわい、さながら人種のるつぼであったという。その菊富士ホテルの歴史は第二次大戦末期昭和19年には旭電化の寮として売却され、東京空襲で灰燼となった。わずか30年の命脈だった。が、1920、30年代の日本の爛熟と、背中合わせのように、民衆への弾圧の時間を垣間見せてくれる光と影の風景だった、ように思う。
話を『現代俳句の精鋭』に戻すと、1~から3巻まで約40名の若い俳人たち各100句のアンソロジーである。この本の企画と編集をしたのが、いまは無き牧羊社社員、現在のふらんす堂社主・山岡喜美子女史である。その若き俳人たちのかなりがいまは大家の仲間入りをしているのだから、その慧眼と実行力には敬服せざるを得ない。
一巻の帯文には「俳句のルネッサンスがはじまる。 20代30代作家を一堂に結集して現代俳句の可能性に挑戦。1985年の作品100句を収録した精選アンソロジー。俳句の現在を映し出し、新しい夜明けを告げる。1986年版」とある。まぶしいばかりだが、今もなおこれを越える新人輩出のための企画はないに等しい。それから数年後、愚生の「俳句空間」の雑詠欄から登場した有望新人をあつめた「俳句空間」新鋭作家集『燦』、『耀』も規模からすれば、後塵を拝した(近年では『新撰21』が出色)。
その『現代俳句の精鋭Ⅰ』に、いわゆる俳壇とは遠かった愚生が入集しているのはひとえに山岡女史の慫慂によるものであった。感謝している。ちと、恥ずかしいがいくつかの句を以下に再録しておきたい。

     たびたびは狂えぬ花の咲きほこる         恒行
     胸にたまる汗と見(まみ)えし名は彦乃
     唇は血のくちづけで憐愛さる
     致死量の毒と思いて唇吸えり
     米騒動富強の国家文化鍋
     わが祖国愚直に桜散りゆくよ
     月光のあふれる駅をまたぎけり
     天奥に河原ひろがる春の午後
     一葉に裏日記あり菊の花
     十月は真一文字に消えゆけり



0 件のコメント:

コメントを投稿