2021年1月17日日曜日

安里琉太「日本の元気なころの水着かな」(「滸」2号より)・・・

              


 「滸(ほとり)」2号(編集 安里琉太、髙良真実)、特集Ⅰは安里琉太『式日』(西村麒麟選『式日』抄)、特集Ⅱは西原裕美『わたしでないもの』探訪、他に、同人作品(安里琉太・酢橘とおる・髙良真実・西原裕美・屋良健一郎)と企画「相互評」とある。ここでは、紙幅と愚生の都合で、句と歌の作品のみの紹介に留めたい。『式日』評の福田若之「たそがれの飽和から」の中に、


 (前略)琉太はむしろ龍太の句のモチーフを借り受ける。たとえば、琉太の《寒雲の蒐まつてくる筆二本》は、龍太の《春暁の竹筒にある筆二本》を踏まえたものと読める。ところで、同じく『式日』に収められた《ひかり野に蝶が余つてゐるといふ》は、折笠美秋が彼の妻に宛てた句とされる《ひかり野へ君なら蝶に乘れるだろう》を踏まえたものだ。琉太は、いわゆる「伝統」もいわゆる「前衛」も、隔てなく自らの句に取りこむことができる。ただし、それは彼が句から表層的なイメージを抽象することによる。琉太は、龍太のように書くのでも、美秋のように書くのでもない。仮に同じ二本の筆を得たとしても、琉太は琉太としてしか書けない。

 『式日』の帯に置かれた「書くことは/書けなさから始まっていると、/今、強く思う」という彼の言葉を、こうした文脈のもとに読むことができる。実際、自らの郷土を《かたつむり甲斐も信濃も雨のなか》と書きえた龍太のようには、琉太は彼の「沖縄」を書けないでいる。(中略)

 はじめに記しておいたとおり、『式日』という句集はすでに何度も評されてきている。しかし、どういうわけか、その表題句については、付録の栞に載っている鳥居真里子「雲籠めの白花」に「枯れる」という主題をめぐって軽く触れられている程度で、これまでほとんど語られてこなかった。

  式日や実石榴に日の枯れてをる

 率直に書いてしまうなら、この句はさほどおもしろいものではないと思う。(中略)

 『式日』には《くちなはの来し方に日の枯れてゐる》という句もあるのだが、さして代り映えしない、そのうえこの薄められたような書きぶりで、どうして二句も収めてあるのか。

 鍵は、季節順の配列のなかで、二句がそれぞれ「実石榴」の秋季、「くちなは」の夏季に置かれていることなのだろう。(中略)四季を問わないひかりの古びを、すなわち、おそらくはたそがれのことを言っているのだ。このことはたしかにいくらかあたらしい。(中略)

安里琉太は、ミネルヴァの梟よろしく、たそがれの飽和から出立する。自らの門出の式日を祭りのあととみなすことからはじめた彼は、ここから、さらにいかなるあたらしみを育むのだろう。

  炎昼や未生の鳥を浮かべたる

『式日』の意義は、この句に予感された「未生の鳥」が象徴しうるもの、すなわち、彼の未来の句に懸かっている。

  

 とあり、結ばれている。「書けなさ」とは、彼にとって書けないことではなく、書きたいことはあるが、むしろ、はやばやと書けてしまって、書き切れていない、ということなのではないだろうか。ともあれ、本誌本号より一人一句、一首を挙げておこう。


  紀ノ国の炭うつくしき大暑かな   

  運ぶべく千手観音千の手のひとつひとつのはづされてあり     安里琉太

  乱れ歯の青年笑むに笑み返かへし受け取らざき神も思想も     髙良真実

  泡盛にしぼれば声をあげながらシークヮーサーから小人の落ち来 屋良健一郎



       撮影・芽夢野うのき「知りたいのその奥の葉牡丹の杳」↑

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