「子規新報」第2巻81号(創風社・子規新報編集部)、今号の特集は「米田双葉子の俳句」。その寺村通信と小西昭夫の対談のなか、「東洋城と白蓮」の部分に、
小西 今回、双葉子のことを調べていると、むしろ今まで知らなかった東洋城の姿が見えてきて面白いのですが、白蓮との恋にも触れられています。長崎の東洋城研究家の長川虎彦の話として、伊藤伝右衛門に嫁いだ白蓮の歌集『踏絵』はほとんどが相聞歌、すなわち恋の歌ですが、それはすべて東洋城に当てた歌であることを伝えています。
妻もたぬ我と定めぬ秋の暮 東洋城
という句を三十歳の時に残し、東洋城は生涯妻帯しませんでした。七十四歳になった白蓮は東洋城ゆかりの深い栃木を訪ね大平山の東洋城の第一句碑を訪ねたそうです。白蓮はその時、目を患っていて失明に近い状態だったそうですが、碑面を静かに撫でていたそうです。
その時白蓮は乞われるままに歌を色紙に書いて栃木を立ち去ったそうです。その歌が、
夢をうつゝうつゝを夢とみる人に
おもひ出の日ようつくしくあれ
ながれゆく水の如しとみづからを
思ひさだめて見る夏の雲
の二首だそうです。
とあった。あと一つ、面白かったのは、
小西 (前略)これも今回双葉子の特集を組むことで知ったことですが、双葉子の文章を引用しますね。「今は故人となられたかの山本健吉氏が若年にしてある俳句の綜合誌を担当されてゐた頃、各結社の代表作家の句を順次掲載しようと先生を訪ねたことがあるといふ。『渋柿』の優秀な作家の句を掲載させてほしい」と要請したところ、先生は『渋柿』の作家は皆優秀だよ』と言つて謬もない。爾来山本氏は先生を毛嫌いしたものか、後年山本氏の編んだ歳時記の例句に渋柿の句は一句も載せないといふ珍現象となつたのは、知る人ぞ知る話である」。(中略)
寺村 今、小西さんのお話を聞いて山本健吉の『現代俳句』を見てみましたが、確かに松根東洋城は取りあげられてないですね。もちろん「渋柿」の俳人は取りあげられていません。東洋城の「狷介」が山本健吉の「狷介」の話になりましたね(笑)東洋城を含め「渋柿」の俳人たちを読み直す必要があるかもしれませんね。
という件りだった。そうそう、それと堀本吟「近くの他人ー現代川柳論ー132回」で、愚生のブログに、句と写真で、たびたび登場していただいている鈴木純一について、次のように触れられていたので、紹介しておきたい。
(前略)「垂人」には、風変わりな短詩系作家鈴木純一が居て、今は実例を掲げるスペースがないが、歴史をさかのぼって昭和のモダニズムの時空に生れたような、ダダイストとか未来派のアバンギャンルドに似かよう作品を出してくる。あるいは、言い方を変えると、純一は、江戸趣味を残した辻潤のような風狂人の心情の再現なのだろうか?
「垂人」は、俳句や川柳の様々な言葉のスタイルを、一つの重要な言葉遊び領域と受け止めて、自在に追求している個性派たちのモダニズム集団である。方法が多様であれば、反面虻蜂取らずの浮薄さも出てくるものであるけれど、いまのところ、彼らの差し出す作品群は、コンセプトもわかり、レベルが高い。
ともあれ、せっかくの米田双葉子(1910・2・28~2001・12・18、宇和島生まれ)の特集なので、いくつかの句を本号より挙げておきたい。
一姫二太郎その一姫のうらゝかな 双葉子
老いらくの恋しづかなり桜漬
桃咲ける丘やぽかりと昼の月
笑はれてわが屁なりけり日向ぼこ
息つめて蛇見き蛇も我を見き
煮凝りやあらぬところに目玉ある
教員の授業放棄は教職の自己生命の断絶なり、
と絶叫してスト参加に反対して敗れし双葉子へ
雪に凍て果てゝも守る誠かな 東洋城
突如の指令によりスト中止のため正義を
貫徹し得る結果となりし同子へ
雪の竹直き即起ちにけり 東洋城
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