2021年1月4日月曜日

萩山栄一「いちょうちる 鳥になれずに銀杏散る」(「祭演」62号)・・・


  自由句会誌「祭演 Dionysosoの宴」62号(ムニ工房)、愚生の所属する「豈」は63号が発行されたばかりで、40年かかって62号を出していたのだ。一方、「祭演」は、その半分の20年間で62号に達している(創刊2000年4月)。倍のペースだ、もちろん、時代に乘らないという鈍重なペースの「豈」とは違っているので、当然といえば当然かもしれないが、主催・編集の森須蘭は「豈」の同人でもあり、この持続した営為は讃えられてよい。また、同じ「豈」の同人・萩山栄一が「『祭演』の詩性(ポエジー)について」と「現代語俳句小論」を寄稿している。最近の萩山栄一は、一時の休俳期を脱してからは、句も、それにともなう俳論も一皮むけた感じである。かつて長期にわたり、楸邨系の俳誌に所属し、しっかりした有季定型の俳句を作っていた時期を思えば、自在にして、刮目の境地である。その「現代語俳句小論」の結びには、


  (前略)もう一点、最近古典語俳句に感じた事がある。新興俳句の雄、渡邊白泉を例に挙げよう。

 1 憲兵の前で滑つてころんぢやつた

   この俳句を失礼ながら改悪して見る。

 2 憲兵の前で滑りてころびけり

 この改悪が明らかにしている点は、「けり」を使用すると、この句の骨子である「反骨精神」が消えている点にある。つまり心情が消されている。我々は日常会話において語尾によって心情を表している。現代語俳句では「した」「しちゃった」「しました」のどれを選択するかで心情は万化する。

 ただ勘違いしないで欲しいのは、私は俳句が抒情詩であるとは思っていない。萩原朔太郎(「詩の原理」)を筆頭に、抒情詩だと思いたがっている人々が多いので指摘しただけだ。


 と記している。ともあれ、以下には、本誌招待作品と「豈」同人諸氏の掲載句を、いくつか挙げておきたい。


  茗荷汁妻を看取るなどと言う       坂田直彦

  秋天へ筆にたっぷり白絵具        萩山栄一

  存分にひだまり使う草紅葉        森須 蘭

  着ぶくれて共産主義のビラもらう     川崎果連

  ぼんやりをはっきりさせる水を打つ   杉本青三郎

  擦れ違ふたび逃水を尋ねられ       夏木 久

  柵を越え光妊る恋の猫          高橋修宏

  平家琵琶ぽろんと銀河こぼしけり     山本敏倖

  秘めてゐることは略せり水の澄む     山﨑十生

  解放区は何処にでもある帯を解き     藤田踏青

  蝋燭屋の猫が出てくる曼珠沙華      坂間恒子

  ふうせんかずら異国の風となら遊ぶ   羽村美和子



     撮影・鈴木純一「あな惜しや日をふふみたる枯尾花」↑

0 件のコメント:

コメントを投稿