西田もとつぐ『満州俳句 須臾の光芒』(リトルズ)、序は川名大「満州俳句史研究の最先端」、その中に、
(前略)昭和十年代に新京の満州国政府興農部に勤務し、俳誌「韃靼」(ハルピン)の連作欄の選者だった桂樟蹊子氏との出会いがあった。桂樟蹊子氏からの励まし、教示、史料をてがかりに史料収集を続け、研究は着実に進捗した。「戦争俳句と大陸俳句」(『俳句史研究』六号・平・6)・「キメラの国の俳句―満州俳句史序論」(『俳句文学館紀要』九号・平8)・モダニズム俳句の系譜」(『俳句史研究』十三号・平17)。平成十九年には「京大俳句を読む会」を立ち上げ、その代表を務める。(中略)本書はそれらの論考の成果を精選、集約した一冊。満州俳句史について新たな知見や創見が加えられ、この困難な研究分野を着実に前進させた画期的な論考集である。(中略)
「韃靼」とは限らず、満州俳壇では女性の投句者は少なかったようだ。その中で、西田氏は井筒紀久枝句文集『望郷』と天川悦子句文集『ふるさと』を当時の生活をリアルに描いた完成度の高い作品として新たに言及する。
解氷期野原動くや豚生まる(開拓地) 井筒紀久枝
帝国が唯のにほんに暑き日に(敗戦)
盗み来しねぎ煮る鍋は鉄かぶと(現地脱出)
蠅憎し屍体にふたつ耳の穴(チチハル収容所)
祖国は木枯(こがらし)パンパンといふ者に逢ふ(祖国)
「あじあ」去りし曠野夏雲まで駆ける(望郷) 天川悦子
露兵が捨てしリンゴ拾うも雪の中(三十八度線)
注・「あじあ」は満鉄の特急列車「亜細亜号」。
とあった。井筒紀久枝は、当時の「大陸の花嫁」の一人。満州俳句といって、愚生がすぐにも思い出すのは、樋口覚『昭和詩の発生ー三種の詩器を充たすもの』(思潮社)である。それは、詩誌「亞」(1924年11月創刊)に集った安西冬衛、北川冬彦、三好達治、尾形亀之助、滝口武士ら二十代の詩人たちが、大連の地で発行した雑誌である。尾形亀之助「韃靼のわだつみ渡る蝶かな」の句もみえる。これらの状況を思えば、満州俳句はどのようなものだったのか。昭和俳句史のなかに、空白の俳句史がそこにあるということになる。西田もとつぐは、「第3章 キメラの国の俳句ー中国東北部(旧満州国)俳句史序論」で、次のように言う。
俳句史でも戦後俳句史、昭和俳句史の再検証がなされている。しかし、現在の戦後俳句史再検討は戦前、戦中俳句史から戦後の俳句史への移行の接点が無視されている。物理的な時間の経過では昭和二十年(一九四五)八月十五日からが戦後俳句史の始まりであるが、その間の断絶の有無が明らかにされていない。内地では敗戦により言論統制という外圧が除去されると、戦前、戦中の俳句がそのまま戦後俳句に移行したと思われる。一方、植民地での俳句は植民地支配の枠組みの中にあって、内地の俳句の動向とは異なった状況による様々な課題を内蔵していたのである。満州に展開した俳句活動も同様である。しかし、満州俳句史は、他の植民地の俳句や戦争俳句と共に、昭和俳句史においては全く黙殺されている。在満州俳人が戦後にまとめた句集からは満州時代の俳句は二、三の例外を除いて、ほとんど削除され、公に論じられることはない。
日露戦争後、大正期から昭和初期にかけての河東碧梧桐等の自由律俳句運動の展開、大連を中心とした安西冬衛らのモダニズム詩運動と俳句の関わり合いや、昭和七年(一九二三)の満州国建国宣言から昭和二十年の満州国瓦解まで、「王道楽土・五族協和」という植民地政策の枠組みのもと「 」付きながら満州の地に土着を志し、日本と異なる風土、文化に接し「異境の俳句」を創造しようとしたことは、それ以前の俳句史にはあり得なかったことである。(以下略)
ともあれ、本書より、ランダムになるが、いくつかの俳句を挙げておこう。
夜光虫潮深ければ深く棲む 井上白文地
囚獄見て萎えし心に金魚視る 平畑静塔
噴煙は遠し萩咲き野菊咲き 藤後左右
うつうつと杭に煙鬼の國がある 桂樟蹊子
霜月の霜の剣を踏み征けり 佐々木有風
煙霧濃くまことスパイの都市らしく 竹崎志水
十月を細りてルージュ濃ゆうしぬ 桂美津女
風花に魂なき雉子を抱き還かへる 岡田京兎
夕焼野曠野の出水燃えんとす 金子麒麟草
放射路のいづれを行くも凍て死なん 大場白水郎
梨の花しろじろ咲いて恙かな 安西冬衛
郭公や韃靼の日の没るなべに 山口誓子
赤十字の和服の医員や水泳場 鈴鹿野風呂
華妓の手のつめたき指をまさぐりぬ 森 鴎外
雲あかく時雨に燃ゆる溶鉱炉 加藤楸邨
龍彫りし陸の割目の夏の草 高浜虚子
石獣のほとりの草の萌えそめる 臼田亜浪
国境の河を見にゆく時雨かな 日野草城
西田もとつぐ(にしだ・もとつぐ) 1934年、兵庫県西宮市生まれ。
撮影・鈴木純一「震える/震える/春の気配だ」↑
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