2021年2月8日月曜日

伊藤眠「もう背伸びせぬてふ小声いわし雲」(「雲」第76巻)・・・



 「雲」第76巻(編集・発行人 伊藤眠)、作品中心の俳誌であるが、今号のエッセイには、中岡昌太「風天の寅さんこと/渥美清は俳人だった」。中に、

 

    乱歩読む窓のガラスに蝸牛          風天

    赤とんぼじっとしたまま明日はどうする


 の句がある。先般の「俳句界」(文學の森)一月号では、特集「渥美清の俳句」(俳号・風天)があった。そこでは、かつて俳句仲間だった浅井慎平「旅鞄重きは春の深さかな」、矢崎泰久「風と共に去りぬ」などが想い出を語っている。

 ところで「雲」は順調に号を重ねている。愚生は、一昨年の、現代俳句通信講座では、一緒に講師を務めさせてもらった。年一回行われる吟行会は中止だったが、久しぶりに彼女にお会いした。「雲」の作品欄には、愚生が何十年もお会いしていないが、当時から注目していた作家の作品も読める。懐かしいし、その健在ぶりを遠望している。ともあれ、以下に同誌本号より一人一句を挙げておきたい。


  帰心ふと水辺を歩く冬の鷺       大木あまり

  鯨骨のしらじら熊野冬はじめ       大西健司

  人の世の病はるけし冬銀河        脇本公子

  去年今年生涯飲まぬ般若湯       加賀谷三棹

  朗人逝き秞子も去りて年惜しむ      劒物劒二

  青梅にはへそ饅頭屋冬ともし       柳堀悦子

  総持寺の屋根の力みも冬構へ       織本瑞子

  「一人で来たの」と医師の問ふ小六月  和気千穂子  

  白露を作りて遊ぶ風の船         小林深春

  焼鳥の串で時局を解説し         齊藤至旦

  追憶の唐傘通学初時雨          高堰明光

  鳳仙花杖無き日々の卒寿なり      高堰レイ子

  うなづきて湯豆腐となる夕餉かな    堀江いさを

  干支頭未知の八起は初明かり       宮﨑空拳

  藤十郎逝き顔見世の遠かりき       石田 眞

  寒晴れやフジコへミングカンパネラ   川嶌ますみ

  祖父ありし日の外套の重さかな      伊藤 眠

  


        芽夢野うのき「冬枯れの髭にひっつき枯れすすむ」

2021年2月7日日曜日

らふ亜沙弥「初雪や袋綴じなるダンディズム」(『世界一の妻』)・・・


  らふ亜沙弥『世界一の妻』(創風社出版)、帯文は坪内稔典、それには、


 らふさんは紫夫人。衣装も持ち物も車も紫づくめ、唇も爪もだ。しかもこの紫夫人、フットワークがととても軽い。ランチの時間に京都に現れ、夕方にはもう横浜を歩いている。〈柿喰えばウエストあたりが性感帯〉〈禁欲のピンクのチョコの暮の秋〉などという俳句では、柿もチョコも紫夫人の身体感覚の現象みたい。自分の世界を思いっきり拡げながら、彼女はつぶやく。「私は大変なのである」(本文127頁)。


 とある。その127頁はというと冒頭と巻尾であるかは別にして、「枇杷の花」の章に、


   シクシクとじくじくとくる春のガン     亜沙弥

   あらたまや元気に病気しています


 の句が置かれている。で「私は大変なのだ」のエッセイの冒頭には、


 四年目を迎えた。がん告知を受けた六四歳の二月から。(中略) 

 私が手術も抗がん剤もしたくないと夫につげると、

「僕が治すから二人で頑張ろう」

わたしはどんな自然治療が待っているとも知らずに喜んでいた。

夫がすすめるままにアメリカ製のバイオマット、足湯器、枇杷温熱器、といった機械ものの治療の他に、整体と枇杷温灸に通いだした。どれも保険がきかないので、永い間掛けていたがん保険の一時金をもらおうと保険会社に電話を入れた。しかし、病院での治療が始まらないと保険は一切おりませんと向うは言い張る。病院のお墨付きがあると主張したが無理だった。

 こうなりゃ仕方が無い、抗がん剤治療でも受けてみるかと覚悟したものの、まさか主治医に保険金目的とは言えず、神妙な面持ちで「抗がん剤を受けたいと思います」とお願いしたのだった。

 細かい説明を受けた後「当日は付け爪を剥がして来るように」との言葉に「これは生爪です」ときっぱり答えた。

 六四歳の誕生日に、とにかく、とりあえず生れて初めて抗がん剤治療を受けた。(中略)

自然治療二年目に入ったころのこと。

枇杷の葉温灸を習得した夫が、毎夜、温灸をしてくれるようになった。と同時に他の治療もふえ、私は息苦しくなり始めていた。(中略)

 ついつい、これ以上はもう無理、もうどうでもいいから一人で暮らしたい、家を出る。などと喧嘩を買ってしまっただけならまだ可愛いが、貴方は自分のためにやっているのであって、お前のため、ためと押し付けないでほしい。とまで言ってしまった。

数日、お互い口をきかない日々が続いた。

その間も押し黙ったまま一時間以上の枇杷温灸は続くのだった。(中略)

四年目を迎えたというものの、この三年は、白血病を克服した九一歳の母や、息子や娘、そして俳句の仲間に心配をしてもらった。(中略)大学一年生、高校一年生、小学一年生、五歳の孫たちの将来を見て見たい、九十一歳の母より先にいくわけにはいかない。

 そしてそして、がん告知より数カ月間、隠れて泣いていた夫をおいてはいけない。

 私は大変なのだ。


 がんはステージⅢの乳がん、すぐに全摘手術をいわれたが、手術を止めた。ただ抗がん剤も副作用など、二度目の当日にドタキャン。二枚目の若い医師が前向きに手術を考えて、というが、再び自然治癒療法に戻る。現在も、無農薬玄米正食らしい。とはいえ、若き日々のエッセイには、愚生の近しい人が幾人か登場する。愚生のことを、恒行(オオイ・コウコウ)と言っていた加藤郁乎、句集『風の銀漢』の跋文を書いてくれた福島泰樹、愚生は福島泰樹の第一回短歌朗読の会に、確か明大前まで出かけている(録音されたライブテープには愚生の歓声の指笛が偶然入っている。まだそのときは絶叫コンサートという命名になっていなかった)。そして、今は無き銀巴里や野村秋介のことなど・・・。集名に因む句は、

     

   世界一の妻やってます心太   


 であろう。ともあれ、以下に集中よりいくつかの句を挙げておきたい。本復を祈りながら・・。 


   野アザミの一方的に生きている

   何もしていないのに石楠花に雨

   観念の顔みなおなじ実むらさき

   階段を落ちる寸前月つかむ

   住所のない名刺をもらう桜の夜

   耳たぶをさわる癖あり花あけび

   一瞬とか束の間とか枇杷の花

   悲しいほどに離れている黒豆

   大根引男殺して水注ぐ

   男+女=冬霞

   リンゴ送りました好きだから 

   

        撮影・鈴木純一「月朧すきなひとには左側」↑

2021年2月6日土曜日

樋口由紀子「ひとことでいうとジャングルジムの上」(「晴」第4号)・・・

 

 「晴」第4号(編集発行人・樋口由紀子)、巻頭のエッセイは関悦史「にぎやかな虚無ー『晴』第3号を読む」、主要には、月波与生「目玉 おやじ解体されクーデーターらし」、広瀬ちえみ「絶景を見に行く殴り倒しつつ」、樋口由紀子「おじさんがいたからおじいさんをけす」評に費やされている。その冒頭に、


 「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉おやじが解体されるときは、やはりまず目玉と解体以下とで切断されるべきである。「目玉 おやじ」の一字空けはタイポグラフィのような視覚効果を帯びつつそのことを暗黙のうちに物語る。一字空けは新興俳句などでも見かけるが、単語をぶつ切りするパターンはさすがにあまりないのではないか。ここが切れてもいいのだという妙な爽快感がある。(中略)

 目玉おやじの句ではない可能性もある。この一字空けを「目玉がある」「おやじが解体され・・・」という二つの像を並べ、しかもそれは「目玉おやじ」のことではないと示すためのものと取るならば、目玉を脱落させただけの普通の人である「おやじ」がバラバラにされたとも考えられるのだ。


 とあった。嬉しかったのは築網耕平「妹尾凛『Ring』評」に、じつに久しぶりに彼の文に出会えたことだ。筆法は穏やかなれど、以前と同じく自身の句観に照らし、きちんと評されていた。最後に「乞うご期待というところかな」という終わり方などは、いかにも彼らしい締めだった。また、いなだ豆乃助「川柳についての短い覚書」には、説得力があった。


 (前略)川柳とは何かという定義や、これは川柳じゃないという論争は不要なのである。何故なら川柳という世界は大人になれない、永遠の少年少女の爲のものだから。さらに言うと、

 われわれは常にアウトサイダーであることを意識し続けなければならない。メインストリームには決して足を踏み入れられないのだ。だからこそ、開き直ってゲリラ的に活動しなくてはならない。その点川柳という文芸は実にゲリラ的活動にうってつけの詩形である。なにせ所謂季語や切れ字などの縛りはないし、師系という厄介なものにも無縁だからだ。

 われわれは言葉を武器とするテロリストであり、孤独なアナキストである。決して川柳では革命は起こせないが、名も無き市民がわれわれの川柳を読むことにでほんの一瞬、わずかな時間でも読者の日常を変えられるかもしれない。その爲に書いていこうと思う。


 と述べられている。ともあれ、本誌本号より、一人一句を以下に挙げておこう。


   虚無ノ街 地蟲ムラガル犬ノ皺        いなだ豆乃助

   ふんわりとあぶらかだぶらあんぶれら       妹尾 凛

   父に鎌借りし田畑よめでたけれ         きゅういち

   咳をするあなたがいると知る車両         水本石華

   ぴかぴかの電車に乗って泣きました       樋口由紀子

   ワセリンを塗る真冬日の人体図          月波与生

   老境にはいるぶらんこすべり台          松永千秋

   「ん」が来たらみんなで風船あげましょう    広瀬ちえみ



           芽夢野うのき「絶対なんてない絶対綿の花」↑ 

2021年2月5日金曜日

桂樟蹊子「放射路の末は消えつゝたゞ夏野」(『満州俳句 須臾の光芒』より)・・・


 西田もとつぐ『満州俳句 須臾の光芒』(リトルズ)、序は川名大「満州俳句史研究の最先端」、その中に、


 (前略)昭和十年代に新京の満州国政府興農部に勤務し、俳誌「韃靼」(ハルピン)の連作欄の選者だった桂樟蹊子氏との出会いがあった。桂樟蹊子氏からの励まし、教示、史料をてがかりに史料収集を続け、研究は着実に進捗した。「戦争俳句と大陸俳句」(『俳句史研究』六号・平・6)・「キメラの国の俳句―満州俳句史序論」(『俳句文学館紀要』九号・平8)・モダニズム俳句の系譜」(『俳句史研究』十三号・平17)。平成十九年には「京大俳句を読む会」を立ち上げ、その代表を務める。(中略)本書はそれらの論考の成果を精選、集約した一冊。満州俳句史について新たな知見や創見が加えられ、この困難な研究分野を着実に前進させた画期的な論考集である。(中略)

 「韃靼」とは限らず、満州俳壇では女性の投句者は少なかったようだ。その中で、西田氏は井筒紀久枝句文集『望郷』と天川悦子句文集『ふるさと』を当時の生活をリアルに描いた完成度の高い作品として新たに言及する。

  解氷期野原動くや豚生まる(開拓地)       井筒紀久枝

  帝国が唯のにほんに暑き日に(敗戦)

  盗み来しねぎ煮る鍋は鉄かぶと(現地脱出)

  蠅憎し屍体にふたつ耳の穴(チチハル収容所)

  祖国は木枯(こがらし)パンパンといふ者に逢ふ(祖国)

  「あじあ」去りし曠野夏雲まで駆ける(望郷)    天川悦子

   露兵が捨てしリンゴ拾うも雪の中(三十八度線)

     注・「あじあ」は満鉄の特急列車「亜細亜号」。


 とあった。井筒紀久枝は、当時の「大陸の花嫁」の一人。満州俳句といって、愚生がすぐにも思い出すのは、樋口覚『昭和詩の発生ー三種の詩器を充たすもの』(思潮社)である。それは、詩誌「亞」(1924年11月創刊)に集った安西冬衛、北川冬彦、三好達治、尾形亀之助、滝口武士ら二十代の詩人たちが、大連の地で発行した雑誌である。尾形亀之助「韃靼のわだつみ渡る蝶かな」の句もみえる。これらの状況を思えば、満州俳句はどのようなものだったのか。昭和俳句史のなかに、空白の俳句史がそこにあるということになる。西田もとつぐは、「第3章 キメラの国の俳句ー中国東北部(旧満州国)俳句史序論」で、次のように言う。


 俳句史でも戦後俳句史、昭和俳句史の再検証がなされている。しかし、現在の戦後俳句史再検討は戦前、戦中俳句史から戦後の俳句史への移行の接点が無視されている。物理的な時間の経過では昭和二十年(一九四五)八月十五日からが戦後俳句史の始まりであるが、その間の断絶の有無が明らかにされていない。内地では敗戦により言論統制という外圧が除去されると、戦前、戦中の俳句がそのまま戦後俳句に移行したと思われる。一方、植民地での俳句は植民地支配の枠組みの中にあって、内地の俳句の動向とは異なった状況による様々な課題を内蔵していたのである。満州に展開した俳句活動も同様である。しかし、満州俳句史は、他の植民地の俳句や戦争俳句と共に、昭和俳句史においては全く黙殺されている。在満州俳人が戦後にまとめた句集からは満州時代の俳句は二、三の例外を除いて、ほとんど削除され、公に論じられることはない。

 日露戦争後、大正期から昭和初期にかけての河東碧梧桐等の自由律俳句運動の展開、大連を中心とした安西冬衛らのモダニズム詩運動と俳句の関わり合いや、昭和七年(一九二三)の満州国建国宣言から昭和二十年の満州国瓦解まで、「王道楽土・五族協和」という植民地政策の枠組みのもと「 」付きながら満州の地に土着を志し、日本と異なる風土、文化に接し「異境の俳句」を創造しようとしたことは、それ以前の俳句史にはあり得なかったことである。(以下略)


 ともあれ、本書より、ランダムになるが、いくつかの俳句を挙げておこう。


   夜光虫潮深ければ深く棲む      井上白文地

   囚獄見て萎えし心に金魚視る      平畑静塔

   噴煙は遠し萩咲き野菊咲き       藤後左右

   うつうつと杭に煙鬼の國がある     桂樟蹊子

   霜月の霜の剣を踏み征けり      佐々木有風

   煙霧濃くまことスパイの都市らしく   竹崎志水

   十月を細りてルージュ濃ゆうしぬ    桂美津女

   風花に魂なき雉子を抱き還かへる    岡田京兎

   夕焼野曠野の出水燃えんとす     金子麒麟草

   放射路のいづれを行くも凍て死なん  大場白水郎

   梨の花しろじろ咲いて恙かな      安西冬衛

   郭公や韃靼の日の没るなべに      山口誓子

   赤十字の和服の医員や水泳場     鈴鹿野風呂

   華妓の手のつめたき指をまさぐりぬ   森 鴎外  

   雲あかく時雨に燃ゆる溶鉱炉      加藤楸邨

   龍彫りし陸の割目の夏の草       高浜虚子

   石獣のほとりの草の萌えそめる     臼田亜浪

   国境の河を見にゆく時雨かな      日野草城


 西田もとつぐ(にしだ・もとつぐ) 1934年、兵庫県西宮市生まれ。



       撮影・鈴木純一「震える/震える/春の気配だ」↑

2021年2月2日火曜日

杉浦圭祐「背の高き子が鬼となる春の宵」(『異地』)・・・


   杉浦圭祐第一句集『異地』(現代俳句協会)、装幀は、杉浦圭祐が熊野御燈祭の上り子仲間という中山銀士。愛情あふれる跋は宇多喜代子「二月六日の神火」。そのなかに、


 (前略)杉浦圭祐さんが生地「熊野」を「異地」と感じているのも、どこにもない実の熊野と、概念の熊野との折合いの狭間での擦過傷のような思いであるのかもしれないのだ。この思いを理屈抜きに整合しているのが、上り手として手にする「神火」であるのだろう。おそらく二月六日の火には概念の熊野ならぬ実の熊野が満ちていて、満身でもってこの火に親和しているのだろうと思う。

 もとより杉浦圭祐さんは器用に立ち回る性分でもないし、ハイクの巧さを追う性分でもない。だが、一端、俳句に縁を得たからには、今後も愚直に自分の思うところを是として精進していって欲しい。


 とあった。また、著者「あとがき」には、


 十八歳まで過ごした和歌山県新宮市へ二十二歳の時に戻ったのは、地元の先輩で作家の中上健次さん主宰の「熊野大学」に関わりたいと思ったことが理由のひとつだった。熊野大学とは、中上さんが中心となって一九九〇(平成二)年に発足した「建物もなく、入学試験もなく、卒業は死ぬ時」を合言葉に、熊野とは何かを問い続ける自主公開講座である。(中略)

 新宮には中上さんの十九歳年上の親友である松根久雄という俳人がいた。(中略)

俳句部に誘われることがあまりにも多くなったことを不思議に思いつつ、句会に参加してみた。一九九四(平成六)年一月八日のことである。その日、講師として参加されていたのは宇多喜代子先生と松根久雄さんだった。

 句会に参加してからというもの、一人暮らしだった松根さんは頻繁に私を自宅に呼び出し、ビールを飲みながら俳句のこと、熊野のこと、中上さんのことを話してくれた。(中略)その年の七月に当時の仕事の都合で大阪に転居した。(中略)

 郷里を遠く離れてもことあるごとに熊野に帰った。松根さんに会うため、御燈祭に上るため、毎年八月開催の熊野大学夏期セミナーを手伝うため、そして家族の用事のため等々である。帰る目的はいろいろだったが、熊野に帰っても「帰省」という言葉を聞いて想起するようなどこか心安らぐというような気持ちは私にはなかった。熊野は「異郷」や「異境」などと言われることもあるが、私にとっては「異地」と呼ぶのが相応しい。私には熊野は今でもなお異地である。(中略)

『異地』には俳句と出会った一九九四(平成六)年から二〇一九(平成三十一)年四月まで、すなわち平成時代に作った句に限り三六五句を選んで収録した。この間、松根久雄さんは一九九八(平成十六)年十二月七日に七十一歳で、桂信子先生は二〇〇四(平成十六)年十二月十六日に八十九歳で逝去された。


 とある。長い引用になってしまったが、愚生にはお会いしたこのないにも関わらず、松根久雄に対する尊敬の念が、なぜかあったのだ(確か書肆山田から句集が出ていたと思う)。新宮と聞けば、中上健次と松根久雄の名をなにかの折に思い出してもいたからである。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておきたい。


   微震あり木の芽に水のゆきわたる    圭祐

   他人とは自分のひとり残る雪  

   上り子は身元不明の白頭巾

   春暮ぐつぐつ頼むでえ頼むでえ

   神の火を怒れる者ら振り回す

   背に移る上り子の火を叩き消す

   太陽の塔の麓の法師蟬

   蟷螂の両手一生鎌のまま

   白日傘釦を押せば町のなか

   綿虫よ地下街に来てどうするか

   宵戎闇に烏の嗚咽せり

   衣被雨ふらぬのに雨のおと

   家のある者は家へと鰯雲

   父母の存命中の桜かな


  杉浦圭祐(すぎうら・けいすけ) 1968年 和歌山県新宮市生まれ。 


   

      撮影・芽夢野うのき「春隣めざめよ火の鳥水の鳥」↑

2021年2月1日月曜日

富澤赤黄男「目つむれば虚空を赤き馬おどる」(『戦争と俳句』より)・・・


  川名大『戦争と俳句』(創風社出版)、副題に『富澤赤黄男戦中俳句日記』・「『支那事変六千句』を読み解く」とある。帯の表側の惹句には、


 落日をゆく落日をゆく真赤(あか)い中隊 富澤赤黄男/ は、なぜ句集『天の狼』から漏れたのか。

 捕虜を斬るキラリキラリと水光る 富澤赤黄男

 敵の屍まだ痙攣す霧濃かり 熊谷茂茅  /なぜ、かくも冷徹な句が詠めたのか。

 大盥(オスタッブ)・ベンデル・三鬼・地獄(ヘル)・横団 渡辺白泉 /あなたは、この句を読み解けますか。


 とあり、また表紙裏帯には、


Ⅰ『富澤赤黄男戦中俳句日記』を読み解く

Ⅱ『富澤赤黄男戦中俳句日記』翻刻

Ⅲ「支那事変六千句」八十年目の真実ー皇軍へのバイアスと情報操作ー

富澤赤黄男俳句研究史の再先端を切り開く新資料『戦中俳句日記』の翻刻と読み解き。時局に同調した「支那事変六千句」の皇軍へのバイアスと情報操作の剔出。戦争と俳句にかかわるテクストを犀利に読み解いた画期的な一冊。


 とあった。労作の全容をよく伝えていよう。研究者としての川名大の執念のようなものさえ感じる。興味を持たれた方は、是非、本著に直接当たられたい(本ブロブで紹介するには、困難ゆえ)。それでも一例は挙げておきたい。例えば、ブログタイトルにした「目つむれば虚空を赤き馬おどる」の句には、以下のように記されている。


(前略)第一章で引用した「武漢つひに陥つ」の中の、

   めつむれば虚空を赤き馬おどる

の「赤き」を「黒き」と改変したのも、血みどろの馬のイメージが戦意高揚に悖るからであろう。逆に、冒頭で引用した「戛々とゆき戛々と征くばかり」の表記は「旗艦」(昭12・11)「戛々とゆき戛々とゆくばかり」の表記よも戦意高揚にフィットするので、『天の狼』では「征く」の表記の句を収録したのである。

 赤黄男と「戛々と」の句の表記と逆なのが、西東三鬼の、

  兵隊が征くまつ黒い汽車に乗り

である。この句は「京大俳句」昭和十二年八月号に掲載されたもので、日中戦争(支那事変)勃発(昭12・7・7)直後に出征の光景を詠んだもの。三鬼はこの句を第一句集『旗』(昭15・3)へ収録するとき、

  兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り

と「征く」の表記を「ゆく」へと改変した。真黒い汽車に乗って出征する兵隊のイメージが、彼らの未来の死を連想させるので、三鬼は弾圧を回避するために「ゆく」とすることで出征場面をカムフラージュしたのである。 


 愚生は、これらより他に、実は少しばかり気にかかったことがあった。それは使用されいる用語について、「前線俳句」「銃後俳句」という分類なのだが、確かに、その語がもたらす俳句の詠まれた環境を示すには、よく理解できるものがある。ただ、当時の「俳句研究」には、その用語はついに見られない(もっとも、愚生の手元にないだけなのかもしれないが)。 例えば、「俳句研究」(昭18・8)の座談会「戦争俳句その他」、出席者は渡邊白泉・中村草田男・佐々木有風・加藤楸邨・石橋辰之助には、「戦線俳句」、「想像戦線俳句」という言い方はある。また時代はさらに進んで「俳句研究」(昭17・10)の「大東亜戦争俳句集」には、「本書は大東亜戦争を記念する戦線俳句の第一輯であります」とあり、「前線俳句」という呼称は用いられていない。余談だが、この号には、「南方篇」「馬來方面」のなかに、「評論家 三木清(日)/風の吾も南に宣べんとす/註。文人部隊也。これは昭南島に入城せる時の作品」とあった。そして、昭和17年2月には、日本はシンガポールを占領したが、6月にはミッドウェー沖海戦で、米軍に敗北した。

 また、愚生は以前から、ことあるごとに記しているのだが(だれも振り向いてくれていないが)、「俳句研究」(昭17・12)の「「大東亜戦争一周年を迎へて」の特集において、他の、詩人や多くの俳人が戦意高揚の句を寄せているのにもかかわらず、石田波郷のみが「一周年に当りて」と題した5句のなかに、唯一人、戦争讃歌を詠まず、


  山行や群山氷るその一つ    石田波郷

  石打つや鏘然と瀧涸れにけり

  十二月鎌倉の海来て見ずや

  霜に呵す茂吉光太郎亦老いず

  霜柱俳句は切字響きけり


  を掲載している。とりわけ、「霜柱俳句は切字は響きけり」の句のみが、人口に膾炙しているが、むしろ、世間の動向を無視したかのように、この句をこういう場面で発表すること自体が、すでに、国家や世間から、指弾の怖れがある状況だったことは、銘記されてよいと思う。石田波郷の気骨を見たとおもっていた。



        撮影・鈴木純一「尋ねあてて心細さや梅の白」↑

2021年1月31日日曜日

箭内忍「凍空へ無人の波打ち際の音」(「となりあふ」創刊号・2021春号)・・・

 

 「となりあふ」創刊号(となりあふ発行所)、「『となりあふ』創刊に寄せて」は今井聖「只の道」。招待俳人の句は、


  明るみに出て狼狽の蓮根(はす)くびれ  中原道夫

  三寒の思案四温の決意かな        神田松鯉


 箭内忍「『となりあふ』創刊にあたって」の冒頭には、


 師、故吉田鴻司は酔ってよく「俳句ってのはねぇ(ドンッとテーブルを叩いて)、むにゃむにゃなんですよ!」と俳論を語った。むにゃむにゃは、その時々によって違ったり、よく聞こえなかったりする。俳句は座の文芸、作者ありきの作品、継続は力なりとよく言ってた。俳句の「いろは」は「わらがみ句会」という心底楽しい句座で教わった。

 二〇〇六年、吉田鴻司が他界して消沈していたある時、『河』の先達の追悼句会があり、そこで出会ったのが今井聖と清水哲男だった。その縁で『街』に入った。

 今井聖の俳論は、吉田鴻司とは真逆だ。俳句は文学だ、『街』の句会は大学院(初心者向きではない)だという。共通点はどちらも常に俳句のことばかり考えている(いた)ことだ。


 とあった。構成は「んの衆」と「いろは衆」に分かれていて、「いろは衆」には「春季・巻頭選考会議」というのがあり、箭内忍と神保千惠子の選考評が付されている。ともあれ、ここでは「んの衆」の一人一句と「いろは衆」巻頭作家の一句を挙げておきたい。


  ちやらちやらと嘘つくポインセチアかな    箭内 忍

  冬天のその先宇宙ステーション       神保千惠子

  尻振つてペンギン陸へ冬来る        鈴木わかば

  寒鴉ケバブに匂ふ裏通           谷川理美子

  ショーウィンドウの中は三密クリスマス    原 美鈴 

  煤逃の貧乏ゆすり強くなり         廣川坊太郎

  隣より聞えて来たる大くさめ        眞鍋芙美子

  「ご遠慮します」烏賊墨のスパゲッティ   水谷由美子

  マスクして羽根のやうなる眉の形      安田のぶ子

  短日や口と同時に手も動き         山口ぶだう

  笑ひ声足さるるテレビ歳の暮       久保田真由美



         芽夢野うのき「青空の艶をしたがえ枯れすすむ」↑