2015年10月20日火曜日

多賀芳子「霜柱素足に踏みて逝かむかな」(『芳子俳句おぼえ書』)・・・



今日は、多賀芳子忌である。平成10年10月20日に亡くなった。
大正5年東京芝生まれだから、存命ならば99歳。享年は82だった。
手元にある『芳子俳句おぼえ書』は手書きの句集である。美しい文字でつづられたおよそ150句、

俳句という化物にとりつかれ
ウロウロ幾十年かすぎました
毛筆などもつ柄ではないのに下手
な字をならべご容赦を
ご笑納下さば幸甚です
       平成元年六月
大井恒行様          芳子

と扉前に記されている。
多賀芳子は、和綴じの芳名帳を自筆の句集として、それまでも幾人かの俳人に渡していた。
久しぶりに取り出してみたら、すっかり忘れていた便りも挿み込まれていた。なかに「本人の知らぬ間に『ゴリラ』のおっかさんにされ、めんくらったり、よろこんだりです」とあった。
毎月行われていた芳子宅・碧の会の句会で「ゴリラ」の原万三寿、谷佳紀、早瀬恵子などに会い、また唯一の弟子の川名つぎおや、小泉飛鳥雄、田村みどり、渋川京子、そして、妹尾健太郎、中西ひろみ、杉田桂、吉浜青湖、谷山花猿などとも面談の機会を得た。
最初に多賀芳子に会ったのは、確か現代俳句協会の月例句会で、多賀芳子の席の横だけが空いていて、手招きをされ横に座らされた。愚生の選句には「馬鹿だね~!この子は、こんな句を選んで・・」とか言われ、その後、「馬鹿のオオイ君」と言われがらも、句会にはよく誘っていただいた。
席の空いていたのはたぶん、その毒舌が敬遠されていたのかも知れない。それでも、渋谷の鬼婆と言われながら、自らもまんざらでもない様子が窺えた。
便りには、自らの来歴も記されていた。
 
 戦前「睦月」という温室で蝶よ花よと甘やかされ、敗戦で、お嬢ちゃまが突然、大地を這う大蛇に成り上がり、旧知の高柳にさそわれ、「薔薇」「俳句評論」といじめられてきました。どう考えても「海程」に入ったのが、私の失敗。やがて此処を出、「頂点」に腰をおちつけましたが、鈴木六林男に去られてから、この小誌もカビが生え出しています。(以下略・六月二十三日の日付がある)

時は流れて、今はその「頂点」の代表を唯一の弟子・川名つぎおが務めている。                                        
女性にはめずらしく、歯に衣着せない句評をしていた。その愛すべき鬼婆の手書きの句集から、以下にいくつか挙げておこう。

   裸木にガラスの馬の犇く夜      『赤い菊』(昭和41年)抄
   橋から橋へ駈けて乳房をかなします
   ゴリラほどしずかに紅葉の山下る   『餐』(昭和50年)抄
   霊柩車茶碗けちらしけちらし来    『双日抄』(昭和51~平成元年)未刊
   霜柱素足にふみて逝かむかな
   からいからいと白夜の椅子が流れくる
   
因みに、金子兜太の『今日の俳句』(光文社・昭和40年)には、名が平仮名の「多賀よし子」で「橋から橋へ駈けて乳房をかなします」の句が載っている。


                                     ピラカンサス↑

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