2018年3月14日水曜日

路通「はづかしき散際見せん遅ざくら」(『乞食路通』より)・・



 正津勉『乞食路通ー風狂の俳諧師』(作品社)、路通は、付録資料1「芭蕉路通関係年表」によると元文3年(1738)7月14日、90歳にて没している。姓は八十村(やそむら)、江戸中期の俳人で芭蕉に師事し、芭蕉の没後も四十数年を生きる。
愚生は、不明にして路通に関する本をまともに読んだことがない。正津勉の本著がはじめてだが、著者曰く、路通伝が一本になったのは、本書が初めてだろうというのだから、これまで、芭蕉と同時代に、かつ親密に生きながら、放擲されてきた様子がよくわかる。
 圧巻は本書の第三章「火中止め」のあたりだろうか。水上勉との対話にも、証拠は無いものの、俳聖芭蕉と乞食路通の「世に男女の仲よりも修道の契りの方が深いとか」と記してもいる。それらが芭蕉と路通の句にも相対して表れているのだ。

  うかうかと後(きぬぎぬ)の朝うちふして(勧進牒)
  うつり香も黒き衣装はめにたゝぬ

評判の悪い路通について、芭蕉は遺言のように、

  なからん後路通が怠
(ヲコタ)り努(ユメユメ)うらみなし。かならずしたしみ給へ(『行状記』)

と言い残す。弟子たちへの芭蕉の最後の願いだったとも記されているから、蕉門における路通の扱いは余程のことであったのだ。その著者「あとがき」にいう。

 路通。最底辺たる宿命にいささかなりとも屈することがなかった天晴な俳諧師。いつどこで野垂れ死にしていても、おかしくない薦被り者なのである。いまふうにいえば格差社会、ネグレクトのはてのホームレス、漂流棄民とでもいえようか。
 路通句作は、心底の発露だ。そこにはいまこそ聴くべき、呻きや、嗤い、沈黙、号泣、憤り、呟きや、ひめた声がいきづいてる。心底の発露だ。路通の句作は。

 いくつかの路通の句を本書よりいくつか挙げておこう。

  残菊はまことの菊の終りかな     路通
  肌のよき石に眠らん花の山
  母におうとき三井寺の小法師
  鳥共も寝入つてゐるか余吾の海
  いねいねと人にいはれつ年の暮
  芭蕉葉は何になれとや秋の風
  白山の雪はなだれて桜麻
  身やかくて孑孑むしの尻かしら
  しぐれ気のなふて一日小春かな
  あかがりよをのれが口もむさぼるか 

 そういえば、思い出したことがある。愚生がかつて吉祥寺駅ビルの弘栄堂書店に書店員をしていた頃、正津勉はよく店に来ていたこと。もう40年も前のことだ。

正津勉(しょうづ・べん)、1945年、福井県生まれ。





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