2021年6月13日日曜日

高岡修「噴水/天に弾じき返されたものだけが墜ちてくる」(『一行詩』)・・・


 高岡修第20詩集『一行詩』(ジャプラン)。「あとがき」には、 


 (前略)ところで、俳句や短歌に対して一行詩とする表記をよく目にする。正確には、俳句や短歌は一行の詩であって、一行詩ではない。一行詩とは、自由詩や散文詩と同じ詩の分類のひとつだ。それゆえ、決定的な差異は、一行詩には題があり、俳句や短歌には題がないということになる。

 一行詩の代表的なものとして誰もが北川冬彦の次の作品を想起するだろう。


    馬

  軍港を内蔵してゐる


シャガール的なこの作品を新興俳句風にしたら、次のようになる。


  馬 軍港を内蔵してゐる    (中略)


 北川作品がそうであったように、この作品においても両者から派生する意味は変わらない。その上で、決定的な差異も生じている。詩は本文よりもむしろ行間で読むべき文学だが、俳句の一字アケや二物衝撃空間よりももっと鮮明に行間が現出していること、さらには題そのものに題としても象徴性が付加されていることである。

 一行詩の場合、まるで表札のかかった玄関で立ち止まるかにように、私たちは題で立ち止まり、それから家の内部である本文に入ってゆく。ところが俳句の場合、読み始めると同時に私たちは家の内部と同じ本文の中にいる。

 むろん、私は一行詩と俳句の優劣を言っているのではない。一見、内容的に差異がないかのように見えて、実は構造による決定的な差異が生まれていると言いたいのだ。題があるかないかの構造の差異は、多行形式の俳句においても同じであるように思われる。(中略)

 とはいえ、一行詩を書こうとして、俳句のさまざまな方法が有効だったのも事実である。どちらにしろ、世界を一行で表白しようという行為は、詩の始原の強靭な光があるように思う。(以下略)


 と記されている。高岡修の志向を伺える表明にもなっていよう。ともあれ、集中より、いくつかの詩行を挙げきたい。


    引力

 何という悲しい行為だろう。薄羽蜉蝣の屍さえ地に敷きつめてしまう


    窓泥棒

 窓枠を、じゃない。奴らはじつに巧みに窓そのものを盗んでゆく


    住所変更届

 モルフォ蝶の新しい住所はメルトダウンの炉心です


    共同幻想

 指切りの指を切りつくして手がどこにもない


    曲線 

 自殺曲線があるのなら他殺曲線もありだろう。たとえば、文明が進めば進むほど殺意の無い殺戮が増えてゆくような他殺曲線 


    盲導犬  

  嗅ぎ分けているのは人間の闇です


    影

 広島の石段に灼きつけられてからです。人間から影が剥がれやすくなったのは


    みずすまし

 死の表面張力を出られない


   ゴミステーション

 使用済みの微笑の仕分けがわからない

  

   靴

 足を脱いだ靴から逃亡しはじめる


   烏揚羽

 死んだら烏揚羽は漆黒の虹になる。憧れてなお飛べなかった空の高みへ、死後の羽根の色をかける


 高岡修(たかおか・おさむ) 1948年、愛媛県宇和島市生まれ。



        撮影・中西ひろ美「緑蔭や人類敗北の記念」↑

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