2017年2月26日日曜日
宮本素子「犬蓼やむかし女衒の来し畷」(「鷹」3月号)・・・
「畷(なわて)」などと、愚生より若い世代の人は使わないだろうと思っていた。ようするに田んぼのあぜ道である。さらに「女衒」という言葉も今では使われない。これを「むかし」という一語で結び付けて上五「犬蓼や」だから、なかなかの光景を創り出したものである。時代劇風ですらある。さもありなん、自解に眼を落すと「古民家への吟行。緒方拳演じる女衒が貧しい村にやって来るシーンが浮かんだ」とあった。
犬蓼は赤まんまのことだ。赤まんまといえば、中野重治の「歌」、
おまえは歌うな
おまえは赤のままの花やとんぼの羽を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよなもの
すべてのうそうそしたもの
すべても物憂げなものを撥(はじ)き去れ
(以下 略)
を思い起こす。
掲句の作者・宮本素子、昭和39年生まれ。本年の「鷹」一月号で第35回新葉賞を受賞している。どこかで聞いた名だと思ったら、愚生が「俳句界」編集部にいた時に、校正の仕事をしていた人だ(掲載された写真を見て一致した)。
その折りの句は20句、その中に、
広島へ立ち寄る旅程水の秋 素子
レセプション始まる画廊花水木
があった。
以前にも少しふれたことがあるが「鷹」には加藤静夫「俳句精読」の三橋敏雄が12回目の連載。奥坂まやが、季語派らしくほぼ四季に一度の連載ペースで「われら過ぎゆくー野生の思考としての季語」が七回目、いずれも愚生の楽しみの読み物だが、博覧の奥坂まやの強記ぶりはまさにレヴィ・ストロース『野生の思考』なみ、とはいえ、愚生などはついにその名著を読み通すこともできなく、その一行すら忘却の彼方の有様である。今号の奥坂まやの結びは、いよいよ次号から「俳句」にいたるのかも・・・
この「内面」と「外部」との矛盾を、俳句はどのように乗り切ろうとしたのかを、次回に探っていきたい。
とあるゆえ。
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